美濃・近江の史跡を訪ねて2015年03月22日

 外を眺めるとどんより春特有の曇り空になった。それでも何か分かることがあるだろう、と出かけた。行先は滋賀県に隣接する関ヶ原町の松尾山だ。ここから伊吹山を眺めるのが主目的だった。ここは戦国時代小早川の陣地として知られる。町全体が東西の入り乱れる戦場だった。
 伊吹山は木曽三川があるせいで天気が良いと春霞で見えなくなる。冬型になると見える。今日も麓の養老町まで近づいても霞んでいた。R365を走って関ヶ原町からR21へ。少し先で案内板にしたがい左折。黒血川という不気味な名前の川を渡る。壬申の乱の時代、戦った兵士の血で黒く汚れたことが由来というが、ここは天然の要害なので、戦いの歴史が層になって重なっている。
 現在は平和な山村で整地された田園風景が広がる。松尾山から流れる支流に沿う細道を辿るとまた頼りない橋を渡る。その先に登山口と駐車場があった。1台のみ先行者がいる。まもなく1人下山してきた。伊吹山は良く見えたとか。
 午後1時10分。山頂まで40分とある。お茶、おやつも無しで、カメラだけ持って林道を歩く。まだ車でも入れそうなくらい整備されているが、未舗装、ガードレールなし、転回地点が分からず、では進めない。傾斜が急になった辺りに分かれ道があり、松尾山は右へと教える。ここからの道も相変わらず広めで遊歩道的だ。階段状の道付けは歩きにくい。アップダウンを2回繰り返すと最後の急登で山頂だった。1.9km、約25分ほどだった。この間、単独、若い男3人とすれ違う。結構人の多い山である。
 話に違わず、伊吹山が良く見える。南東面は名神高速でちらっと見る構図であるが、落ち着いて見られるのはいいものである。関ヶ原の家並みを見下ろせる。三角点を探したが見つからず下山。後で調べるとベンチの近くに有ったらしい。下ろうとすると続々登って来た。遅めの出発でもこの山なら大丈夫だ。
 駐車場に戻ると次はR21を走って、番場宿の蓮華寺に向かった。昨年9月、夕方になって薄暗くなるので忠太郎地蔵尊を訪ねることを断念した。その宿題の片付けである。R21の柏原も醒ヶ井も霊仙山の登山口だ。しばらく行ってないな。米原ICへの入り口を過ぎる。次に忠太郎の塑像が道端に建っている交差点に来た。架空の人物=やくざなのだが芝居、歌謡曲で実在のように親しまれた。やりすぎとも思う。
 ここを左折すると旧中山道の番場の宿だ。番場は細長い山間の村である。どの家も平屋のせいか、すっきりした家並みである。この村に並行して名神高速道路が貫通している。番場の宿は細長いが、背後は結構広い。番場の意味は馬場とも書くが、乗馬をする場所という。そんな時代があったのか。
 これが山の名前になることもある。猿ヶ馬場山、兎番場(川上岳の点名)、オサンババ(兎馬場、山中山)、白山の南竜が馬場など。皆山上が平で広い山である。
 蓮華寺へ入って300円を払う。金ぴかの菊の御紋が至るところに見える。瓦の屋根の紋にまである。何でも聖徳太子が建立したと説明板があり、見事な紅梅が咲いている。忠太郎地蔵尊はお寺の裏山にあった。台座には『瞼の母』の作者・長谷川伸の「「親をたづねる子には親を、子をたづねる親には子をめぐりあわせ給え」という伸の願いが刻まれている。寺守の主婦2人に聞くと、住職の和尚さんが伸に教えたことがあり、伸もここに来たんだとか。『瞼の母』は伸自身の体験に基づく話なので真に迫ることがあるのだろう。歌舞伎や大衆演劇の舞台の定番でもある。演歌にも取り込まれている。
 https://www.youtube.com/watch?v=EDQ-ifx7n_s
 寺を辞して摺針峠にも行ったが、小さな峠で通り過ぎた。R8から峠に戻って、民家が建っているところまで歩いてみると説明板に琵琶湖を望む茶屋があったという。確かに琵琶湖が見えた。
 一応の予定を終えて、次は三島池に向かった。三島池の渡り鳥はごくごく少数になっていた。伊吹山も春霞ながらきれいに見えた。
 R21に戻ろうと走ると今度は霊仙山が見えた。しかも前衛の阿弥陀ヶ峰が鋭角に聳えていた。修験者が目に付けそうな山容ではある。そして伊吹山を更に押さえた円形=ドーム形の山容である。番場の蓮華寺はその山の端の右にある。近辺には松尾寺山もある。関ヶ原から米原に掛けて、自然、神社仏閣、歴史の舞台に事欠かない。