余寒2015年03月05日

余寒とは余裕の寒さと覚へたり

またとなき青空の下柳の芽

梅咲くやそろそろ事を起こすべし

春眠の麻酔のごとき夢心地

冴へ返る水面に鳥が石のごと

山友の叔母の訃報や二月尽

春宵や幕末史など読み耽る

敦賀の歴史と俳句紀行2015年03月09日

これが敦賀富士でしょうか
  敦賀市のシンボル

野坂岳高みに残る雪多(さは)に

春雲(しゅんうん)に隠されてゐる野坂岳

  野坂岳を借景として設計された江戸時代の柴田氏庭園を訪ねる

庭園の彼方に聳ゆ斑雪山(はだれやま)

春の池水面に跳ねて波紋かな

  水戸天狗党は尊王攘夷の大義を掲げて、八百余名が大砲
  などを持ち臨戦態勢で上京。1864年、水戸市から48日間
  をかけて、清内路峠、蠅帽子峠をも越えて越前を経由して
  大雪の敦賀に着くも幕府方に降伏。1865年3月、
  来迎寺(らいこうじ)の処刑場で353名が斬首された。
  2年後の1867年に大政奉還、王政復古、明治維新となった。
  五万図にも武田耕雲斎等墓と印刷され人々の脳裏に
  永遠に刻まれた。夜明け前の日本を思い、命をかけた
  ロングトレイルだった。
  (な忘れそは忘れないで下さいの意。てふはと言うの意)

春浅し水戸な忘れそてふ烈士塚

  水戸烈士の篤い思いを大切にする梅の名所水戸市からの
  献木の梅が境内に植えられている。

日本を見守りたまへ水戸の梅

3月の里山、春野2015年03月14日

松平山焼く煙り立ち昇り

冴え返る高月院の凜として

天下峯曇りがちなる春の空

焙烙山優しき春の夕日かな

伊吹山からも流るる雪解川(粕川)

春雪嶺小津三山にプラスワン

伊吹山霞の中に鎮座して

白尾山スキー登山2015年03月17日

3/14(土)、夜9時、名古屋市内で待ち合わせ。東海北陸道を北上、郡上市の白鳥町六ノ里のしらおスキー場へ。夜空には春星が瞬いている。明日は晴れそうな予感がする。Pの一角で仮眠。
3/15(日)、朝7時過ぎにはPも満杯になっている。リフト券は1500円分購入。3本乗り継いでトップ1245m地点へ。昔はここに気象観測のロボット小屋があった記憶がある。
 8時20分にシールを貼って出発。一旦は植林帯の尾根を下降。鞍部で地形図に表現されていない新しい林道に出合う。ここらは積雪2mはありそうだ。1250mの等高線の尾根はほとんど高度を稼がない。1315mの独標を過ぎるとようやく登りがきつくなる。1400mの等高線まで来て、尾根が広がり、周囲が見渡せる。細幹の密生林からブナやダケカンバの疎林になった。とはいえ、二次林のためか高く太い樹林は殆ど無い。青空に白銀の尾根、ブナと素晴らしい条件の整ったルートだが、いいところは短い。
 2/8以来、運動不足と過食で、太り気味の体に、1ヶ月半ものブランクがあると登りがきつい。にもかかわらず、体が軽くなるような気分で高揚感があって、登頂できた。比高367mの楽なルートであるが、3時間たっぷりかかった。
 まもなく、谷を隔てた尾根の登山者も登って来た。意外な尾根を、あの尾根はスキー向きの良いルートだな、といっていたが、それを実践するパーティだった。
 登頂と同時に青空も見えた。山頂からは何といっても濃飛国境に聳える鷲ヶ岳の連嶺が素晴らしい。青いカンバスに真っ白な鷲ヶ岳が素晴らしい。ガスが晴れて白山も見えた。左は別山か、いや三ノ峰か、などと怪しげな同定を楽しんだ。また、毘沙門岳と大日ヶ岳の間の桧峠のかなたには荒島岳もかすかに見えた。春霞で輪郭ははっきりしないが、展望も素晴らしい山だ。
 まもなくもう1人登って来た。3人だが最後の人はばてたらしい。滋賀県から来たと言われた。山の名前、谷の名前を出すともう登った、まだだ、とか話が弾んだ。時間が来たところで、彼等と別れた。
 一面、雪原の広がる濃飛国境の奥白尾1667mまで足を延ばそうとしたが、既に13時になったので、中白尾で引き返した。この周辺は等高線が緩く、スキー向きの地形である。めいほうスキー場の方を眺めて、あれが山中山(オサンババ)、あれは烏帽子岳、気良烏帽子と同定できた。母袋烏帽子はただのコブに過ぎない。
 山頂でシールをはがして、糊をスプレーでふき取り、ワックスを塗布した。その上で滑走を開始する。自在のスラロームをやれるのは最初だけだった。尾根が狭まり、樹間が狭くなると、藪スキーになった。多少は枝に当るのを覚悟しながら、狭い林間をストックターン(杖制動)ですり抜ける。コブのあるところではサイドステップやスキーを漕いだ。1250mのだらだらした尾根の突破は長かった。下山の目印に付けておいた赤い布切れを外しながら行く。走らない上に雪が重い。鞍部ではシールをつけたが相方はシール無しで登りきった。
 スキー場のトップからはゲレンデの滑降になるが、滑ることだけに専念すれば良いから、もう何の苦労も無い。Pに戻った。帰路は美人の湯 白鳥温泉で一風呂浴びた。
 インターへ入る間際、毘沙門岳が黒っぽい山容を見せた。長良川右岸の山はまだ冬空のようだった。右岸の左岸ではかくも気象に違いがある。

『新日本山岳誌』の改訂版作業2015年03月18日

 日本山岳会100周年を記念して出版された『新日本山岳誌』もはや10年を経過した。設立110年であり、上層部では改訂版の話が進んだようだ。東海支部(三重県と愛知県)の編集担当だったからまたやれ、との指示があった。
 1月半ばに原稿を受け取ってざっと目を通したがさほどいじる箇所はないと思った。締切が3/31と近づいたし、雑用もほぼ片付いたので、今日午後から再び着手した。するとあるわあるわで赤線だらけになった。
 当時も市町村の改変があり、原稿を出した後に出版社側で対応された。今回もその後に改変があった箇所をすべて訂正をいれた。但し、市町村の境にまたがっていた山は、併合して一つになった市になると、書き方まで変更するので厄介な仕事である。
 一志郡は津市と松阪市になった。宮川村は大台町になった。2006年に上石津村(町)は大垣市になった。稲武町は豊田市になった。2006年に清内路村、2009年に浪合村が阿智村になった。平成の大変化であった。
 平成23年には段戸山から鷹ノ巣山への山名の変更もあった。加えて、標高の変更もあった。1m高くなったり低くなったり、山は変らないのに10年のうちには色々とあったのである。 
 御在所山の裏道では平成20(2008)年9月に未曾有の豪雨による被災で藤内小屋、日向小屋が倒壊した。裏道登山道も修復した。そのことにも触れずにはおれない。藤原岳の山荘のトイレが今年春にも新築されて、供用が開始されるようだ。

黒野こうき『播隆入門』2015年03月20日

 伊吹山のことをネットで調べていて、偶然、書名がヒットした。早速、アマゾンで取り寄せて読んだ。2014年3月1日。岐阜のまつお出版から刊行。
 新田次郎『槍ヶ岳開山』は持っているが、まともには読んでいなかった。そのせいで記憶にも無かった。新田次郎の小説はどうもネクラで気象に結び付けられて終わる。人間を描くより、本職の気象官の思い入れが優ってしまうのだ。だから播隆上人も今更という気分が強かった。
 富山県大山町の高頭山(たかづこ)に登った際、登山口付近に播隆上人の生地があり、富山県大山村と日本山岳会富山支部が建立した顕彰碑を見たことがある。活躍はほとんど、外なのにこれだけ顕彰されていたのかと感動したことはある。地元の人の心はかくも温かくありがたいものである。
 但し、地元の東海地方でで活躍したことが分かると知りたい欲求はある。私が若かった頃、先輩の案内で、揖斐川町の一心寺に連れられて行った。これが播隆上人を知った最初である。
 尼さんが居られて、播隆上人が使ったという錆びた鉈などを見せてもらった記憶がかすかにある。更に所属する日本山岳会東海支部で稲葉省吾という会員が大垣辺りの人で熱心に顕彰していた。伊吹山と銘打って播隆祭を春日村で開催していた。彼は9年前に亡くなり顕彰活動も絶えた。
 その話をある人に持ちかけたら、旧春日村では宗教に関する行事を村でやると憲法に抵触するとかで、消極的だったという。村おこしにもなるのに惜しいことである。
 久しく無関心のままだったが本書を開くと、伊吹山の七合目にあるという遺跡にも行ってみたい衝動に駆られる。
 章立ては
はじめに
第一章 播隆の生涯
第二章 山の播隆
1、伊吹禅定
2、笠ヶ岳再興
3、槍ヶ岳開山・開闢
第三章 里の播隆
第四章 念仏行者として
あとがきに代えて         で構成
付録として
播隆年譜、文献資料、播隆上人の足跡、関連行事などの情報を網羅的に紹介した。わずか112ページの小冊子に過ぎないが、内容は濃密で著者が足で稼いだ意気込みが伝わる。これを読むと、どこかゆかりの地に行ってみたい気を起こさせる。良書とは読者を行動に誘うものだから本書もその範疇に入る。
 山の播隆の章はp19~p72まで47ページを割き、全体の50%弱を占めるからやっぱり、播隆上人は山での功績が大きかった。ただ、本書の狙いは里の播隆上人ではなかったか。遺跡、記録に残りにくく、口承によるからだろう。民衆の心の中で伝えられる播隆上人像の探求だ。これは民俗学の分野である。
 この本がよく調べられていると感ずるのは、あとがきの中に出てくる中島正文のことだ。中島は富山県津沢町の出身で、郵便局長などを務めた。元々は黒部奥山廻りの先祖を持ち、家には古文献があって母親から解読の手ほどきをされたという。そして戦前からの日本山岳会会員だった。俳人でもあった。戦後、昭和29年に俳句結社「辛夷」の主宰の前田普羅亡き後を継承している。『北アルプスの史的研究』には戦前の山と溪谷に投稿した鷲羽岳の文献を中心に播隆上人のことも記載してある。これも戦後間もない山と溪谷誌に投稿したものだった。同じ富山県人同士だから見逃すわけには行かなかったのだろう。
 雪が解けたら伊吹北尾根にでも行って行堂跡にも足を延ばしてみたい。

『新日本山岳誌』改訂版作業終わる2015年03月20日

 3/18に本腰を入れて朱筆を入れ、1日冷まして、また目を通すと出てくるものだ。松阪市が松坂市になっていた。これは間違えやすい。津市の経ヶ峰は地形図の表記の経が峰に戻した。天狗倉山の呼称はてんぐらさんが正しいのだが、てんぐらやまになっていたのでてんぐらさんに訂正した。ネットではてんぐらやまだと70万のヒット数、てんぐらさんはわずか6万しかないのはなぜだろうか。
 正しいものが通らず間違ったものが通るのは、世間の趨勢には逆らえず、ということか。
 例えば、白馬岳の山名は今では誰も疑う余地がない。正しくは、代馬岳であった。雪形に由来するものだから、だれでも白馬に想像が行く。ところがこの代掻き馬はネガ型であり、地肌の黒い馬の形を指しているからややこしい。現地を見もしないで白馬を書くようになり、村の名前まで白馬村になった。
 東海支部の担当は三重県、愛知県、長野県南部の一部で約90座あり、その全ての山に目を通した。山の位置の関係で市町村の変更の影響を多々受けており、多くの山に朱筆が入った。編集者にメール便で送付して役目を終えた。

 昨年暮れからここのところ、校正ばかりやっている。つい昨夜も支部報の記事で発見したのは、私には初見の画家の氏名だった。
 原稿には「その後藤雅三、」とあったが、何かおかしい。「その後、藤雅三」ではないか、句読点が漏れているのではないか、と検索すると、立派な画家の氏名と判明した。字面だけを追っていると後藤雅三でも分からないまま、通してしまいそうだ。世界的なコンクールに選ばれた会員の絵の紹介だっただけに折角の記事が台無しになるところだった。最後まで気の抜けない仕事である。字のミスのみならず、文全体の流れの中でおかしいと感ずることが大切だろう。この場合だと句読点一つで不在の画家の名前が紹介されるところだった。

ぼんぼり点く2015年03月21日

 天白川沿いの堤防道路の桜並木にぼんぼりが設置された。
 今夜、初点灯

ぼんぼりが川面に映えて流れけり

地下鉄に乗るや袴の卒業子(3/20)

明日からはすねかじり終ふ卒業子

  久屋大通駅を出ると

木蓮が大路に春を告げにけり

初ざくら桜通りの主(ぬし)なめり

  ようやく店頭に出たこうなご

こうなごをたっぷりのせてめしをくふ

喜びは分かち合ふべしわかめ汁

美濃・近江の史跡を訪ねて2015年03月22日

 外を眺めるとどんより春特有の曇り空になった。それでも何か分かることがあるだろう、と出かけた。行先は滋賀県に隣接する関ヶ原町の松尾山だ。ここから伊吹山を眺めるのが主目的だった。ここは戦国時代小早川の陣地として知られる。町全体が東西の入り乱れる戦場だった。
 伊吹山は木曽三川があるせいで天気が良いと春霞で見えなくなる。冬型になると見える。今日も麓の養老町まで近づいても霞んでいた。R365を走って関ヶ原町からR21へ。少し先で案内板にしたがい左折。黒血川という不気味な名前の川を渡る。壬申の乱の時代、戦った兵士の血で黒く汚れたことが由来というが、ここは天然の要害なので、戦いの歴史が層になって重なっている。
 現在は平和な山村で整地された田園風景が広がる。松尾山から流れる支流に沿う細道を辿るとまた頼りない橋を渡る。その先に登山口と駐車場があった。1台のみ先行者がいる。まもなく1人下山してきた。伊吹山は良く見えたとか。
 午後1時10分。山頂まで40分とある。お茶、おやつも無しで、カメラだけ持って林道を歩く。まだ車でも入れそうなくらい整備されているが、未舗装、ガードレールなし、転回地点が分からず、では進めない。傾斜が急になった辺りに分かれ道があり、松尾山は右へと教える。ここからの道も相変わらず広めで遊歩道的だ。階段状の道付けは歩きにくい。アップダウンを2回繰り返すと最後の急登で山頂だった。1.9km、約25分ほどだった。この間、単独、若い男3人とすれ違う。結構人の多い山である。
 話に違わず、伊吹山が良く見える。南東面は名神高速でちらっと見る構図であるが、落ち着いて見られるのはいいものである。関ヶ原の家並みを見下ろせる。三角点を探したが見つからず下山。後で調べるとベンチの近くに有ったらしい。下ろうとすると続々登って来た。遅めの出発でもこの山なら大丈夫だ。
 駐車場に戻ると次はR21を走って、番場宿の蓮華寺に向かった。昨年9月、夕方になって薄暗くなるので忠太郎地蔵尊を訪ねることを断念した。その宿題の片付けである。R21の柏原も醒ヶ井も霊仙山の登山口だ。しばらく行ってないな。米原ICへの入り口を過ぎる。次に忠太郎の塑像が道端に建っている交差点に来た。架空の人物=やくざなのだが芝居、歌謡曲で実在のように親しまれた。やりすぎとも思う。
 ここを左折すると旧中山道の番場の宿だ。番場は細長い山間の村である。どの家も平屋のせいか、すっきりした家並みである。この村に並行して名神高速道路が貫通している。番場の宿は細長いが、背後は結構広い。番場の意味は馬場とも書くが、乗馬をする場所という。そんな時代があったのか。
 これが山の名前になることもある。猿ヶ馬場山、兎番場(川上岳の点名)、オサンババ(兎馬場、山中山)、白山の南竜が馬場など。皆山上が平で広い山である。
 蓮華寺へ入って300円を払う。金ぴかの菊の御紋が至るところに見える。瓦の屋根の紋にまである。何でも聖徳太子が建立したと説明板があり、見事な紅梅が咲いている。忠太郎地蔵尊はお寺の裏山にあった。台座には『瞼の母』の作者・長谷川伸の「「親をたづねる子には親を、子をたづねる親には子をめぐりあわせ給え」という伸の願いが刻まれている。寺守の主婦2人に聞くと、住職の和尚さんが伸に教えたことがあり、伸もここに来たんだとか。『瞼の母』は伸自身の体験に基づく話なので真に迫ることがあるのだろう。歌舞伎や大衆演劇の舞台の定番でもある。演歌にも取り込まれている。
 https://www.youtube.com/watch?v=EDQ-ifx7n_s
 寺を辞して摺針峠にも行ったが、小さな峠で通り過ぎた。R8から峠に戻って、民家が建っているところまで歩いてみると説明板に琵琶湖を望む茶屋があったという。確かに琵琶湖が見えた。
 一応の予定を終えて、次は三島池に向かった。三島池の渡り鳥はごくごく少数になっていた。伊吹山も春霞ながらきれいに見えた。
 R21に戻ろうと走ると今度は霊仙山が見えた。しかも前衛の阿弥陀ヶ峰が鋭角に聳えていた。修験者が目に付けそうな山容ではある。そして伊吹山を更に押さえた円形=ドーム形の山容である。番場の蓮華寺はその山の端の右にある。近辺には松尾寺山もある。関ヶ原から米原に掛けて、自然、神社仏閣、歴史の舞台に事欠かない。

美濃から近江にかけて史跡散歩2015年03月25日

濃尾から見へず伊吹の山霞む

   松尾山
さながらにドームのごとき班雪山

雪庇落ちず彼岸の伊吹山

   中山道・番場宿の蓮華寺
紅梅や菊の御紋の古刹なり

鳥曇りぐれて瞼の母を恋う

彼岸なれど人影もなき古刹かな

   三島池
伊吹山雪は消へつつ残る雁

伊吹との別れを惜しむ春の雁

落し物探す仕草の土筆摘み