南九州一等三角点の山旅③ 権現ヶ尾と野間岳2015年01月01日

2015年1月1日最初の1等三角点が座す欧州の城塞のような権現ヶ尾
 今日は元旦だ。全国各地の神社仏閣は初詣で賑わっていることだろう。1等三角点教の信徒としてはまず権現ヶ尾484.5mを目指した。ホテルの美味しい朝食バイキングも2回目で要領を覚えた。正月らしく料理も揃っている。洋風雑煮もあった。コーヒーも飲みたいだけ飲める。
       権現ヶ尾へ
 ホテルを出てR225から県道20号に入る。途中の錦江高原ホテルへ左折。再び左折してそこを目指す。雪が降っているので合羽を着た。ホテルのフロントに風の丘への通行許可をもらいに行く。所定のカードを預かった。徒歩10分くらいらしいがありがたく車で楽させてもらった。風の丘らしく風車が1基据えつけてある。かなりの強さの風雪混じりで帽子が飛ばされた。少しよろけながらヨーロッパのお城のような建物の階段を上がる。建物の山頂にちゃんと1等三角点が埋まっていたのには感心した。2015年の最初の三角点であるがこの風と雪では長居は出来ない。早々に下った。雪は少し積もりそうなくらい降ってきた。急いで下りフロントにカードを返却した。ホテルからは鹿児島湾、桜島などの夜景が楽しめそうだ。ゴルフ場であるが泊まるたけに来ても良い。
 ホテルを出ると次は野間岳を目指した。県道20号からR270、R226と走る。野間岳は野間岬からそそり立つような絶壁の上に聳える山で南さつま市辺りから遠望すると開聞岳をスケールダウンした山容に見える。最初はあれっ、開聞岳が見えるのかな、と思った。
       野間岳へ
 アクセスはいくつもあるが地図で見当をつけて笠松から入った。峠を越すと立派な山容の野間岳が現れて車を止めて眺め、写真も撮った。少し先まで下ると黒瀬と祓川を結ぶ県道に出て、野間岳への道標まで現れてあとは椎木からスムーズに登山口まで来れた。野間岳の登山口は野間神社である。今日は元旦とあって清められた境内には淑気があった。登山靴に履き替えて野間岳まで0.7kmの道標に導かれて神社への石段を登る。宮司さんは1人で頑張って居られた。高い杉の方に道標があり、そこから遊歩道が続いていた。最初はセメントで固められていたが、泥んこの道に変わった。登山道は全体に照葉樹林の下で何も見えないが、途中には東シナ海を眺めるポイントが2ヶ所あった。低い割には高度感がある。登るほどに急登になり岩を攀じる。鉄の鎖もあって急峻な登山道を安全に登れるように配慮されていた。
 山頂に着くとまた雪が降ってきた。こんな南西の山で雪だなんて。実は北西の季節風の影響をまともに受けるからで、今日でも宮崎県の方は晴れているのである。薩摩半島の東端の1等三角点に登ったことになる。
 海は俯瞰できたが、360度の展望は天気のせいで駄目だった。粘ってもだめと諦めてくだった。神社に下ると誰も居なくなっていた。正月というのに淋しい。社務所に寄った。名古屋から来ました、と告げると、僕も名古屋に居た、というではないか。よく聞くと伊勢の皇學館大学のOBだった。皇學館大の博物館こも行ったことがある、とか、神宮といえばそれは伊勢神宮のこと、とか、日本三大遊郭だった古市の話もして少し話がシンクロしてきた。懐かしそうにされた。次は下山岳ですが、この雨では中止して、知覧特攻平和会館にと告げて去った。ここが初詣になった。
 登山口のPまで来ると女性の登山者2人とすれ違った。登りに来る人も居たのだ。
     知覧特攻平和会館へ
 椎木まで下って黒瀬から野間半島を一周した。国道からも野間岳の岩壁が良く見えた。半島の先端には九州電力の風車があった。行ってみたが遊べるような施設はなかった。R226から県道、R225、また県道を走り南九州市の知覧特攻平和会館を目指した。
 小高い丘にあった。また雪が舞うので傘をさした。知覧の護国神社に参拝後、平和会館に入館。すると目に飛び込んできたのはノーベル賞受賞の赤崎先生の新聞記事だった。へー、ここが出身地だったのか。名古屋では鹿児島県出身というくらいの紹介であるから気がつかなかった。先生は継続は力なり、を実践。その哲学の背景には若くして国のために命を犠牲にした同胞への無念の思いがあったのか。研究成果を挙げるまでの道のりは臥薪嘗胆の言葉が似合う。
 入館して一回りする。400名以上の特攻隊員の遺書と写真がある。中には当時日本国だった朝鮮人の名前もあった。朝鮮の人らも日本人として戦ったのである。敗戦後は戦勝国を気取り、狼藉を働いた人と同じとは思えない。それにしてもこれだけあると涙がこぼれそうになる。
 「ホタル」という映画にもなったようだ。私をここへ連れてきたのは映画「永遠のゼロ」だった。沖縄を米軍に奪取されまいと最後の手段として特攻が考えられたらしい。当時としてはこれしかなかったのだろう。
 W・ウェストンの『日本アルプス 登山と探検』(英文)の冒頭にこう書いてある。「今日の日本において、世界はまのあたりに、国民的な威信をなおそこなわないで保ちながら西洋文明に同化適応する力を発揮している東方一国民の、類い稀な例証を見ることが出来る。その上、この注目すべき民族が、現在では予測できないほど将来豊かに発展することは、ほとんど疑問がない。この民族は、国民的な威信の向上のためには、恐らくどんな自己犠牲も払えるのである」 ウォルター・ウェストン(1861-1940)『『日本アルプス 登山と探検』(英文)を著す。明治29年の発刊である。
 この英人宣教師にして登山家は「おそらくどんな自己犠牲でも払える」と看破している。特攻の精神を見るとまさにその通りであった。鬼畜米英は日本民族の性格を知り抜いた上で石油禁輸で挑発し、戦争に引きずり込んだのであろう。調子に乗って戦線を広げすぎたこともあるが、「どんな自己犠牲でも払う」という性格はわが民族独自の性格なのであろう。だから畏怖され、孤立することもあるのだ。
 ますます降雪強まった知覧を後にした。ホテルへは県道23号を辿った。R225からは桜島が冠雪していた。美しい。

 一等の徒に風雪のお元日     拙作
 日本の南の果や初詣        拙作
 シナ海の怒涛寄せ来る冬の海  拙作

南九州一等三角点の山旅④ 都城市の旧友を訪ねる2015年01月03日

鹿児島市から高千穂峰を眺める。都城市は右。
 鹿児島県の1等三角点を訪ねる山旅は結局薩摩半島から3座、大隅半島から2座という成果を得た。天気は今一だったが全国的に荒れたので仕方ない。映画「ローマの休日」のアン王女ではないが、それぞれに良いところがあって一概に甲乙は付けがたい。でもやっぱり高隈山が良かったと思う。以前から登りたいと思っていた山は唯一高隈山だった。

 さて、2日の朝も朝食バイキングを楽しんだ。荷物を片付けて車に運びこむともう帰名するだけである。その前に以前から訪ねたい人がいた。宮崎県都城市に住む人だ。もう40年来会っていないエスペランチストのTさんだった。といっても今も現役か分からない。深い交流はなかったが不思議と忘れがたい人であった。
 20歳前後の頃、指導者のMさんを中心に交流があった。私は豊橋市に行き、その後名古屋に転居。Tさんは親の面倒を見るということで帰郷された。以来音信は不通だったが、昨年、2009年のMさんの死後、文集を出版することになりTさんがワープロ作成を手伝った関係で久々に名前を聞いた。
 帰名する前に都城市へ迂回するようにR10を走った。右には終始冠雪した桜島が見える。手前まで来たところで電話すると驚かれた。声を交わすだけでも良かったのだが、自宅に招かれた。
 都城市は盆地で高い建物がないのですっきりした街である。青空に高千穂峰があの独特の姿で迎えてくれた。他県が曇りでもここは晴れているらしい。霧島連山が雪雲を遮っているのだろうか。
 Tさんの家は飲食店を経営している。丁度お孫さんたちが参集して賑やかだった。頭髪が少し白くなった他は印象は変わっていない。それはお互い様である。
 長期間のブランクにもかかわらず話が弾んだ。ちょっと顔見世の積りが昼食もいただき、午後2時を回ってしまった。話の種はいくらでも出てくるのでそこを遮って名古屋での再会を約して別れた。
 R10に戻り、宮崎自動車道に入った。高千穂峰が素晴らしい。九州道に入っても車は順調に走れたが北へ近づくほどに渋滞に悩んだ。特に古賀SA付近は緩やかな上り坂で、しかもSAに入る車が行列をしている。すっかり夜になってしまった。植木IC辺りでは明るかったが北部は次々、長崎や大分からの支線から本線への車が集まってくるから尚更だ。本州へ渡るとさすがに渋滞はなかったが路面の凍結があって全体に速度制限を余儀なくされた。姫路辺りから夜が明けて京都のSAで朝食にした。新名神、東名阪、伊勢湾岸道を走り抜けて自宅に着いたのが、1/3の11時近くになった。荷を片付けてとりあえず、洗車と給油に向かった。ボディは塩で白っぽいからすぐに洗っておきたかった。走った距離は2600kmを越えた。片道では1100km位である。現地で500km位は走り回ったことになる。こうして南九州のピークハントは終わった。

薩摩の山と風雪流れ旅2015年01月18日

清見岳の山懐の新永吉という山里に咲く石蕗の花
 12/29の夜、名古屋を発って12/30昼、鹿児島県に着く。 

風狂の薩摩の山へ晦日にて

 12/30 清見岳

池田湖の彼方開聞岳眠る

みんなみの薩摩半島冬霞

青々と薩摩の山の冬木立

冬の日を浴びて嬉しき山の村

人影の無き山村や石蕗の花

小家建つ山懐に石蕗の花

 12/31 御岳と甫与志岳

冬空に高隈山の双耳峰

冬空に噴煙高く桜島

大枯野湾曲鳴之尾牧場

擂鉢のやうなる冬の牧場

高隈山(たかくま)の冬でも青き尾根を行く

塔の上の手水鉢に氷張る

大晦日高隈山に登頂す

 甫与志岳

登頂と同時に霰降りにけり

雪雲が押しよせて来ぬ甫与志岳

 1/1 権現ノ尾と野間岳

薩摩なる権現ノ尾に雪しまき

枯芝に埋まる一等三角点

帽子飛ぶほどの風雪吹きまくる

 野間岳

野間岳にいよよますます雪降れり

初詣岬の山の寂しさよ

 知覧特攻平和会館

隊員の涙か冬の雨降れり(知覧護国神社)

館内を暖める記事や赤崎氏(南九州市出身)

 1/2 帰名

冬ぬくき都城を訪ねおり

PR『東海周辺 週末の山登りベスト120』刊行!2015年01月21日

 ヤマケイアルペンガイドNEXTシリーズの東海版。昨年4月、ヤマケイの編集者が来名されて、関東版、関西版はあるのに東海版がない。是非、出版したいという依頼を受けました。仲間内10人に呼びかけて制作協力しました。取材期間は約半年できついスケジュールでしたが皆さん頑張っていただきました。

 アマゾンの内容紹介から
内容紹介
地元山岳会メンバーによるきめ細かな取材を基にした執筆による充実の内容に加え、使いやすさ満点のガイドブックです。

名古屋周辺、東海・近畿地方にお住まいの皆様、東海地方の山にご興味のある方必携の一冊です。

【収録エリア】
・奥三河、尾張の山
(茶臼山・萩太郎山、八嶽山、日本ヶ塚山、天狗棚、鳳来寺山、猿投山、道樹山など22コース)

・遠州、安倍東山稜、富士川沿いの山
(蕎麦粒山、沢口山、竜頭山、山伏、十枚山、青笹山、富士見山など12コース)

・中央アルプス、木曽山地、木曽谷の山
(経ヶ岳、烏帽子ヶ岳、南木曽岳など9コース)

・伊那谷、東濃の山
(守屋山、鬼面山、小川路峠、風越山、恵那山、二ツ森山など14コース)

・中濃・西濃、奥美濃の山
(百々ヶ峰、妙法ヶ岳、大日ヶ岳、夜叉ヶ池山、能郷白山など17コース)

・湖北、湖西、若狭、奥越の山
(伊吹山、金糞岳、野坂岳、荒島岳など12山)

・鈴鹿、布引、伊勢の山
(日本コバ、雨乞岳、藤原岳、御在所岳、錫杖ヶ岳、学能堂山など25コース)

・台高、東紀州の山
(高見山、檜塚奥峰、池木屋山、迷岳など9コース)
以上
 ヤマケイ特有のカラー製本の良さ、編集のディティールにこだわるところ、分かりやすくて、美しい本になりました。
 東海地方の人にとって目新しい山はありません。これだけは登っといておくれん、という必須の山を選定してあります。もっと採りあげたかったのですが紙数の制約もあってこんな形におさまった次第です。
 完全に踏破するには1ヶ月1座としても10年分のボリュームがあります。これ以外に北アルプス、八ヶ岳、南アルプス、中央アルプスなどもあって、余程の山好きでもないと短期間に踏破できない。
 価格は税抜きで2200円と結構なお値段です。しかし、120座で割ると1座に付き20円にもならない。それだけお値打ちなガイドブックになっています。
 安全で楽しい山歩きの一助になれば幸いです。

追悼 高木泰夫先生2015年01月24日

 1月23日。JACのデジタルメディア委員会からの一斉メールを開くと、高木泰夫先生が死去されたとの訃報であった。思わずえっ、と声をもらしてしまった。今年のお年賀の返信がないのでもしや病臥かな、と思っていた矢先のことであった。死因は肺がんとのこと。葬議場で山岳会関係者に聞くと以前から入退院を繰り返しておられたようだ。享年85歳だった。
 高木先生とは『新日本山岳誌』の編纂を通じて17年くらいの交流になる。とはいえ、2005年のJAC100周年記念に上梓すればその後はお年賀だけの交流に過ぎなかった。今年はJACの110周年というので改訂版を出す準備をしている。東海支部でも分担の90座分の原稿を見直す作業に入っていたから、高木先生とのご縁を感じずにはいられなかった。
 山行は一度もご一緒する機会は無かったが、氏の著作のガイドを読んで山に行けば案外、同行二人とはいえる。どちらかと言えば漢詩を書かれるだけに文章は硬かった。高校教師から校長の地位まで昇られて職業人生を全うされた。大好きな山三昧で終わり、大往生といえるだろう。
 山の方も、足元の奥美濃の山々に足跡を残された。それらは山葵会編『奥美濃』(私家版)、『ぎふ百山』(岐阜日々新聞社)、『奥美濃-やぶ山登山のすすめ』(ナカニシヤ出版)等に結実された。なんといっても傑作は今西錦司の遺志であった高頭式編『日本山嶽志』の改訂版を出すことに注力された。JAC内の反対を押し切り、ついに2005年のJAC100周年記念出版に間に合った。その緻密で粘着質な編纂ぶりは上梓直前に腰痛に見舞われたことで推し量ることができよう。私も病院までお見舞いに行ったことを思い出す。
 訃報には1月23日の夜に御通夜、1月24日に告別式とあった。久々に穏やかな冬晴れの24日、名古屋を昼前に発って、弥富ICから揖斐川左岸の堤防道路を北進した。前方には雪を冠る奥美濃の山々が見渡せた。御嶽山などの高峰も見えたが、何といっても南宮山の右手に小津三山の特徴ある風姿が素晴らしかった。やぶ山だった三山も今は道が開けたと言う。先生はやぶ山に登ることで原始的登山の意義を説かれた。私もその信徒の一人である。今はただ、静かに山へ帰ってゆかれるのを送りたいと思う。
     雪冠る小津三山にかえるべし   拙作

春隣2015年01月29日

 朝一で出社の積もりだったが、まだデータが出来ていないだろうと、午後出社にした。今朝は快晴でしかも少し暖かい。春隣の感あり。来週半ばには立春なのだ。溜まった雑用を片付けた。洗濯、布団干し、新聞の整理、冬山の道具のパッキング。 
 新年会で鯨飲馬食を重ねてきたせいか、胃腸が疲れているようだ。単純なミスや物忘れが多い。根を詰める仕事は短時間で済ましたい。認知症の発症か、と疑いたくなるが、雑用が多忙なこともある。少しづつ整理して片付き始めている。
 事務所の決算が中々捗らないが、国保などのはがきも届いて添付書類も確保した。さて、臨戦態勢になった。一部訂正して一気に仕上げたい。
 運動不足で太り気味なので2月からは雪山登山、山スキーも再開したい。今夜は車内を整理整頓し、ピッケル&アイゼン、スキー1式とスコップ、シュラフも運び込んで冬山モードにした。これでいつでも行ける。