第42回天白川俳句会2013年12月04日

冬の雨甕に水輪のかぎりなし   和子

 庭に据えた甕に溜まった雨水の上に雨粒が落ちた。小さな波紋が拡 がる。それを水輪と表現した。春から秋にかけての雨と違って冬の雨 足は弱い。静かな日常の中に見出した詩の世界に佇む作者の生活 が見える。

霊山の水を打ち込み茸蕎麦    宏子

 先月採りあげた作品を中日俳壇に投句したら佳作に入選。選者の丁 寧な句評が嬉しい。めきめき力をつけている作者である。今月も力作 である。現場は白山山麓らしいが、白山とは詠まず、読み手の自由に 任せる。霊山とすることで広がりと深みが出た。

枯れかづら引けば空蝉からり落つ 順子

 繊細なまことに繊細な俳句である。初冬の侘しい風景を余すところな く切り取って余情のある句になった。結句のからりが、枯れ、空蝉、と いう語彙を一層引き立てる。多年に亘る作句経験はこんなところで発 揮されるのだろう。

柿の実の向うに見える群烏    且行

 別に自宅の庭でなくともいい。畑の外れの柿の木を見あげてもいい。 そこには何が見えるか。ただただ、青空とその柿の熟したころあいを 狙う烏の群を想像したらいい。近くの堤防に誰かが植えた柿の木は  どうだろう。と、窓越しに見るとまだあった。

十月や大鹿村の岳の雪      拙作

 長野県大鹿村は赤石山脈と伊那山脈の並行する中央構造線の上に ある南北に細長い村である。山間の村で耕地はすくなく、山の斜面や 河岸段丘、小渋川と青木川の氾濫がもたらした沖積地に固まって住 んでいる。十月の半ば、赤石岳が冠雪した。山住まい の人はそろそろ 漬物とか、焚き木とかの準備を始める。

 句会の始まる前に遠慮がちに中日俳壇入選の新聞の切抜きを見せられて、まずは水のコップで乾杯をして祝した。
 山口誓子が選者をしていた頃の古いデータでは、全国紙の朝日俳壇で毎週10万句が寄せられるそうである。中日俳壇は三分の一として3万句くらいはありそうだ。それでも一発で入選するのは至難の技と分かる。
 入選の作者は友人の影響で鳥が好きで、鳥を詠んだ。鳥といえば、中日俳壇の選者だった橋本鶏二を思い出した。
 鳥のうちの鷹に生まれし汝かな   橋本鶏二
が高浜虚子に取り上げられて”鷹の鶏二”として一躍知られるようになったという。一般に流布した句集が刊行されないので無名に近い。それでも出身地の三重県では文学者の一人としての地位を得、三重県立図書館の常設文学コーナーに展示されている。
http://www.library.pref.mie.lg.jp/bungaku/jyousetu01/keiji.htm
以下はHPから転載。
俳人・橋本鶏二は、明治40年11月25日、阿山郡小田村(現伊賀市小田町)に生まれた。16歳(大正13)の頃から俳句に親しみ、『ホトトギス』に投句をはじめ、高浜虚子(きょし)に師事、また、22歳(昭和5)の頃より長谷川素逝(そせい)とも親交を深めるようになった。
 昭和18年、『ホトトギス』6月号で初めて巻頭を飾り、さらに昭和20年に同誌3月号の巻頭句「鳥のうちの鷹に生まれし汝かな」は高い評価を受け、その多くの鷹の秀句によって、「鷹の鶏二」として知られるようになる。
 昭和30年から名古屋に移り住み、55年に上野市に帰住。平成2年、82歳で没するまで、その生涯において、俳句雑誌『桐の葉』『桐の花』『鷹』『雪』『年輪』を主宰して多くの門人を育てると共に、「中日俳壇」(中日新聞)「南日新聞」(南日本新聞)の選者をつとめる。また、昭和23年刊の第1句集『年輪』以降、没後刊の『欅』に至るまで11の句集、『素逝研究』などの評論・随筆など、数多くの著作を刊行した。
 鶏二は、清雅温厚な中に、対象を透徹した眼でとらえ表現した「詠み込んだ写生」の句によって伝統俳句に新境地をひらいた。その作句の姿勢は、「雪月花彫りてぞ詠(うた)ふ」という自身の俳句創作理念に示される。
 昭和60年、その功績により、三重県民功労者表彰を受ける。
以上

鈴鹿・明星ヶ岳に登る 忘年山行2013年12月09日

 毎年の忘年山行を今年も実施することができた。年々会員数の減少で実施が難しくなっているが9名の参加を得た。宿泊は亀山市の国民宿舎関ロッジだ。ここは関富士242.3mを借景に建っている山好きには格好のお宿である。

 12/8の朝、8時30分に亀山PA集合であったが、名物の大渋滞を忘れて15分ほど遅刻した。3台を連ねて、スマートICを出た。まずは明星ヶ岳549.0mを目指した。過去に1度は登ったがすっかり忘れている。5年登らなければ、もう詳細な記憶は忘れる。国分寺の山寺の山門でP。そこから車道を歩いて25分ほどでお寺に着いた。和尚さんらしい人とおじさんが談笑中であいさつするとにこやかに迎えてくれた。山の斜面に建つ小さな寺である。明日は集会があるとかで準備に大わらわであった。
 お寺を後にして裏手の急な山道を登ると尾根に出て小さなコブ393mを越えて、90度左折し、一旦は鞍部へ下る。そこからは又喘登に次ぐ喘登であった。1ヶ月ぶりの登山で太ももがはり、ふくらはぎがパンパンになる。汗もかくので、しばし水を飲んで調整した。しばらくするとアンテナが見えたがまだ山頂ではなかった。少しばかり緩く登ってやっと三角点のある山頂に着いた。ここは東峰で、西峯というより北峰があるようなのですぐに腰をあげて登る。一旦下って、登り返すと579mの山名板がぶら下がる山頂だった。約1時間20分だった。
 むしろこちらこそが正統な山頂であって、三角点峰は前山に過ぎない。狭いが展望は360度に開けている。鈴鹿南部の山々の眺めは素晴らしい。これから登る三子山568mも三つ並んで見えている。明日の予定の臼杵山、四方草山(しおそ)667.4mも指呼のところに見えている。あれは高畑山、錫杖ヶ岳、笠取山、経ヶ峰か、などと山岳同定を楽しむ。
 四方草山、三子山は三角点がなかったり、地図に山名もないせいで、30数年、モチベーションが湧かず放置してきたが、今回ようやくまな板にあげることができた。至近距離で見ると中々いい形の山であり、食わず嫌いだったな、と反省した。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?meshcode=52362350
 元の道を下る。三角点との鞍部から右に下る道がある。435mの尾根をたどるらしい。すると西峰にダイレクトに登るルートもあるわけだ。急斜面を下って行くと10名くらいの団体にあった。北陸の山の予定から天気が悪く転戦してきたらしい。
 国分寺に戻って小休止。石段を下って、車道終点には3台あったから彼等の車か。我々はいま少し歩いて下った。次は鈴鹿峠から三子山の予定である。

鈴鹿・三子山に登る 忘年山行2013年12月10日

 明星ヶ岳を登り終えて、国道1号に出た。鈴鹿峠に行く。最近の工法は山を削らず、橋とトンネルで理想のカーブを描きながら建設されるから結構早く滋賀県に着いた。トンネルを出てすぐに左折し、茶畑に登る農道をUターンすると目指す石灯篭があった。旧東海道時代の名残だが、工事に伴いここに移設したと説明板にあった。トイレもあってちょっとした園地になっている。ここでもう1つの仲間のクルマを待った。
 渋滞で大幅に遅れてしかも行き過ぎたりで遅れに遅れたという。13時半過ぎ、冬の花咲く茶畑の中の道標に従い、北への登山道を歩く。茶畑を過ぎると植林帯に入り、一切眺めはなくなった。その上に長くきつい階段道が続き、いかにも東海自然歩道に来たという気がした。
 ab500mの最初のコブに達すると東海自然歩道は左折し、西へ下り、近江の山里の山女原(あけびはら)を通り、安楽峠を越えて再び三重県へ下り、石水峡を下る。まるでこの三子山を迂回するようなコースになっている。我々は三子山を目指す。一旦下り、また登り返すと最初のab540mのピークに立つ。個々も眺めはないのですぐにパス。ところが、西へ尾根を下るので、おかしい、と気づいた先行者が戻ってきた。これは鉄塔巡視路で鉄塔で行き詰まるか、関坂下に下るだろう。
 やっぱり、最初の分岐の赤テープのところが縦走コースであり、目の前に中間のピークが見えている。ここも急坂を下りすぐに登りかえす。556mの独立標高点であるが、何も見えないのでパスして先へ行く。三子山の北峰が568mの最高点になる。ここには山名板もあり、四方草山も指呼の間であるがギャップが大きい。指導標には約70分とある。今までの60分以上もかかるのだ。出発が遅れたこともあってここで前途中止とし引き返した。登山口に戻ると3時半になっていた。宿に向かうには丁度いい時刻だ。それに1日で5つもの山に登った。小山でも数を稼げば満足感はある。
 国民宿舎関ロッジは以前、山岳会50周年記念行事の会場として探りにきたことがある。山の中の山荘という雰囲気は悪くない。宿は3室を確保。6時半からの宴会までに入浴など済ます。名古屋から直接会場へ来た会員らも続々着いた。宴会時には全員揃った。メニューは石狩鍋という。初体験の味だった。ビール、焼酎も出て飲んだ。終わる頃には鍋もきれいに片付いた。山やさんの宴会はこうでなくっちゃね。
 会場の座敷からは目の前に池を挟んで関富士が見えた。ははん、これがウリなんだねえ。

「山女原」(あけびはら)考2013年12月10日

難読地名考
山女原  
 仲間内がどう読むのか、と聞くので、「あけびはら」と言った。しかし、そのわけは知らなかったのでこの際検索でググって見た。

 どうしても”やまめはら”としか読めないが、”あけびはら”という。あけびならば、WIKIPEDHIAによると
「アケビ(木通、通草)は、アケビ科の蔓性落葉低木の一種(学名: Akebia quinata)、あるいはアケビ属(学名: Akebia)に属する植物の総称である。」と、立派な漢字が当てられているが、これも知らないと読めない。

ある人のブログには
「山形では、秋のお彼岸には、先祖の御霊が<アケビの舟>に乗ってこの世に戻って来るという言い伝えがあり、その頃になると山からアケビを採ってきて、仏壇にお供えする風習があるそうです。また、東北地方では、アケビを<山女>とか<山姫>とも呼びます。」
 うんうん、山形では山女でもあけびと読むのだそうだ。

検索を続けるうちに牧野富太郎先生の記事に出会った。全文はクリックして読むとして、一部を転載すると

「その口を開けたのに向かってじいっとこれを見つめていると、にいっとせねばならぬ感じが起こってくる。その形がいかにもウーメンのあれに似ている。その形の相似でだれもすぐそう感ずるものと見え、とっくの昔にこのものを山女とも山姫ともいったのだ。なお古くはこれを、※[#「くさかんむり/開」、85-15]と称した。すなわちその字を組立った開は女のあれを指したもので、今日でも国によるとあれをおかい又はおかいすと呼んでいる。これはたぶん古くからの言葉であろう。そしてこの植物は草である(じつは草ではなく蔓になっている灌木の藤本だけれど)というので開の上へ草冠を添えたものである。こんなあだ姿をしたこの実から始めてあけびの名称が生まれたのだが、このあけびはすなわちあけつびの縮まったもので、つびとは、ほどと同じく女のあれの一名である。」

 山姫とか山女と読んだのは女性器に見立てたからだったのだ。ちょっと、下品な発想をすると、山女というは余りもダイレクトなので漢字では地名にしか残らないのだろうか。

「あけびの実はなかなかに風情のあるものであるから、俳人も歌よみもみなこれを見逃さなかった。昔の連歌に山女(あけび)を見て「けふ見れば山の女ぞあそびける野のおきなをぞやらむとおもふに」と詠んでいる。」

 この戯れ歌?も、女が(股を開いて)遊んでいる。それを見た野のおきながやりたい、というのである。野のおきなとは野老(ところ、山芋の一種)のことで、芭蕉の句に
  山寺の悲しさ告げよ野老掘り
がある。アケビとヤマイモの取り合わせとは楽しい歌だこと。

「これは自分の拙吟だが「なるほどと眺め入ったるあけび哉」、「女客あけびの前で横を向き」これはどうだと友達に見せたら、そりゃー川柳へ入れたらよかろうと笑われた。」とまあ、牧野翁も自作を楽しんでいるのは笑わせる。
 
 全文は以下で
http://www.aozora.gr.jp/cards/001266/files/47237_29243.html

 もう一つ思い出した。映画「雪国」の冒頭の場面に、池部良がアケビの一房を持って山を下るところがあった。それを岸惠子がもらって食べるところもあった。あの川端先生のことであるから、ただの描写とは思えなくなった。越後の山奥の女、即ち山女である。
 「雪国」は決して清純な映画ではなく、色恋の強い文学であった。「女を世話してくれ」などというセリフがあるのを見ても性への傾斜が強かった川端康成の暗示かも知れないと思った。練達の文章が文学たらしめている。

 いやはや、地名をまじめに探る目的で調べたら、週刊ポストとか週刊現代のお色気記事になりそうな話で落ちがついた。

鈴鹿・高畑山に登る 忘年山行2013年12月12日

 12/8の朝までに当初の計画だった四方草山から、メンバーの1人に、夫の病気付き添いがあるので、もっと近場の高畑山に変更された。折角の集いなので皆が賛成して、昨日の三子山の登山口に走った。
 石灯篭の近辺に駐車して歩く。十字路を直進すると道標が現れた。南鈴鹿縦走への出発点でもある。杉林の中を歩いて、まずは、鏡岩に寄った。麓から見ると石が輝くらしい。いわば、鈴鹿の光石(てかりいわ)か。若干の往復をしから縦走路に戻る。道は徐々に高度を上げ始めて急俊になってきた。三河の高畑(海老)も山頂に至るまでに急俊な尾根道を辿るがそんな意味は高畑にはないはずだが・・・。
 杉の植林から痩せ尾根になると周囲は落葉広葉樹林になり、近江側の景色が垣間見える。地味の痩せた尾根筋にはツツジ科の樹木が生える。アセビの木もある。矮小な樹林になったのに天気は今一で展望は良くない。キレットを通過する。風化花崗岩のボロボロのサバ土である。ロープが垂らしてある急斜面をえいっと、攀じ登る。頂上かと思われたがまだ先があった。
 山頂には三角点があり、展望は開豁と思うが冷気を伴う冬の雲のに遮られた。若干の休止で下山。登山口に戻って、会長が「よいお年を・・・」と挨拶して散会した。

 私と会長は名古屋の登山用具店に山スキーの道具を物色することになり同道した。小さなお店はスキー一色の装いで物色中のお客も多かった。結局は勉強(冷やかし)で終わった。
 ビーコン購入はまだ決断できなかった。命を守るのではなく、遺体を捜してもらう道具、という後ろ向きの機能に高価なカネを投じるには未だ疑問が残るのだ。
 ビーコンを装着して安心して雪崩れやすい沢筋に入ってゆく心理に同意できない。雪崩は避けるものであり、向かうのではない。困難に立ち向かってはならず、反アルピニズムを貫くべく、雪山に臆病になりたいものである。アルピニズムとは自然と闘うのではなく、自分と闘うのである。征服ではなく、ご機嫌のいい時機に遊ばせてもらうのである。

12月の俳句2013年12月14日

    忘年山行

山寺もいそいそしたる師走かな(明星ヶ岳の国分寺)

背の順に三兄弟の山眠る(三子山、北から順に低くなる)

冬日和伊勢湾も見え知多も見え

茶の花と知らず鈴鹿の峠道

茶の花のごとく目立たず生くるべし

枯木立山から山へ歩くなり

枯芝や石灯籠の碑も風化(鈴鹿峠)

来年の山語りおうて年忘れ

冬山や携帯電話で聞く訃報(12/8の朝、叔母が死去)

     葬儀

はらからの集ふ田舎や山眠る

冬服を脱ぎて喪服に着替えたり

葬儀場冬田の中に建ちしかな(JA)

冬の夜懐かしき顔通夜でこそ

妻死んで着膨れの叔父慟哭す(自宅からの別れにて)

北風やベンツに棺を納めたる(霊柩車)

斎場で待つ間にみかんなど食べり

冬菊をひとつ摘みて棺に置く(告別式)

短日や墓参は明日に致すべし(初七日の後の墓参は延期)

冬川に鶏毟るころ思い出す(寺の裏を流れる波瀬川で子供の頃、鶏の羽を毟った記憶あり)

大胆に堰きとめ雲出川普請(雲出川を工事中)

     忘年会

老いてなほ激論のあり忘年会(自然保護委員会)

     天白川 

水鳥の寄り添ひながら固まらず

冬川の瀬に集まりし白い鳥

かいつぶり家族のごとく寄り添ひぬ

     十二月

十二月喪中はがきを束ねたる

羽毛服着て一日稿を書く

冬の虹2013年12月19日

12/15、三重県菰野町にて
 12/15の朝、10/28に鈴鹿の釈迦ヶ岳近辺で行方不明のままの人の捜索に来たものの登山口では雪が降り、山麓では雨だった。少し雨が上がるのを待って再び山に向かった。美しい冬の虹を見た。
 降雨が止むことはなく捜索は中止した。多分、遺体は雪に埋もれてますます分かりにくくなってゆく。正月前に親族の元へと意気込んではみたがモチベーションは回復しないまま帰名した。

モチベーション上がらず冬の虹上がる

冬の虹何かを暗示するでもなし

冬の虹くぐればまたも冬の虹

山でなぜ行方不明か冬の山

ストーブや遭難増えるばかりなり

山で死ねば土に還らん雪が舞ふ

新雪の西穂高へ2013年12月23日

新穂高ロープウェイ終点駅屋上からの西穂高岳連峰
 7時過ぎ、KIさん宅、地下鉄本郷駅でKUを拾う。小牧の某所でSIさんと合流し、東海北陸道で高山市経由新穂高入りした。郡上辺りから雪景色になり、高速道路は除雪はしてあるものの降雪期になったことを知る。高山市郊外からまた雪景色になり、平湯峠のトンネル前後で雪道を走る。
 冬の新穂高は久々に訪れた。調べると、新穂高ロープウェイスキー場が閉鎖されたのは2003年3月30日のことだった。その翌年に行った。ロープウェイ終点から西穂の小屋までスキーで登り、下山は小屋から下の始発駅まで尾根や旧スキー場を滑降した。上級者向けのコースだった。だからあれからもう9年になる。当時同行した会員らも死去したり、退会されたりで歳月の速さに驚く。
 さて、今回はスキーなしで新雪の西穂の登山を楽しむ目的で4人が集まった。プラブーツを処分したので28歳のときに思い切って買ったローバチベッタの登山靴を引っ張り出した。アイゼンは最新のベルトで固定する形のもの。ところが終点の駅から装着して歩行するが相性が良くなくすぐに外れやすい。時々緩みを直した。翌朝はしっかり締めてみたが丸山までに2回も締め直して遅れるので私は前途の登高を断念して下山した。
 12/22は曇りで風もあり、寒い。登山靴の先が冷たく感じる。直に金属のピッケルを持つ手指もしびれるほど寒い。終点駅から1時間半ほどの軽い登山で小屋に着いた。反対に下山してゆく人らと沢山すれ違った。
 12/23は5時起床、6時から朝食になった。外は無風快晴の様子だ。実際出てみると、白い雲が広がり、雲海をなしていた。目前には霞沢岳、六百山が上高地から切り立っている。今年の7月、六百山に登ったKiはどこの沢から登ったのか、というほど切り立っている。その左は八ヶ岳連峰、南には乗鞍岳が真っ白な巨峰となって見える。更に右(西)には氷山が浮かぶごとく白山が雲海に顔を出して見える。
 アイゼンをつけて登り始めると、視界が広がり、隣の笠ヶ岳が見える。北アルプスの奥まで真っ白だ。但し、アイゼンの装着が不調で已む無く下山した。小屋でコーヒーを注文して待機すること2時間ほどで下山してきた。
 そこからまた登山道を下る。素晴らしい景色を堪能して満足であった。終点駅の屋上からも登ってきたばかりの西穂高岳連峰が見えて喜んだ。外人客もちらほらいた。二人連れ、三人連れの外人と見ると手振りで並んで写真を撮ってあげるというと喜んでくれた。顔は日本人と変わりないので怪しげな英語で
私”are you chinese?”
外人”no Singapore ”
外人”onedaysnowhiking?”(日帰りのハイキングなの)
私”no climbing at climber'shotel”(いや、西穂の山小屋に泊まって登山したんだ)
外人  おう!という驚きの声を挙げた女性の2人。
というので東南アジアのシンガポールからの観光客だった。雪の降らない外国人には珍しいのだろう。こんなに晴れたのは久しぶりというから何度も来れない外人さんらにも良かった。
 帰路は往路をそのまま帰還。まだスキー客はなく渋滞もなかった。

新雪の西穂高へ アルバム12013年12月25日

黎明の乗鞍岳
 30歳代は12月末にもっぱら御岳で足慣らししてから正月休み以降、乗鞍岳に通った。当時は皮製登山靴にジルブレッタツアー300という締め具で相性が良かった。新雪で深雪のバーンが豊富にある乗鞍岳は今も心誘われる。

新雪の西穂高へ アルバム22013年12月26日

西穂山荘前から八ヶ岳連峰
ひむがしの空はあけぼの雲海の果てに浮かびし八ヶ岳見ゆ