当世芸能界事情2012年11月30日

 11/28の夜、18:30から20:30頃まで、島津亜矢さんのコンサート「曙光」を堪能させてもらった。亜矢コンは今年の5月の御園座で3回、9月の亀山コンと浜松コンで2回と6回は足を運んだことになる。すべてが満員御礼だった。
 11/28でも最初は2500人入る愛知県芸術劇場の1階から2階で1600人と聞いていたが、チケットの売上が伸びて、昼の部は最上階の5階まで満員にしてしまった。私は夜の部だけであったが、それでも4階まで入っていた。2000人以上入っただろう。
 島津亜矢恐るべし、である。
 今年も紅白の選にもれて本人は当然、落胆された。ファンからはNHKに対し、怨嗟の声があがった。しかし、知る人ぞ知る演歌歌手では終わっていない。全国各地でコンサートを満員に出来るのである。これは一体全体どういうことか。
 紅白では選の基準が必ずしも明らかではない。CDの売上、レコード大賞級の受賞、NHKの番組への出演と貢献度が諮られているようだ。NHKへの出演は比較的多いとおもうがそれ以外は余り縁がなさそうな歌手でもある。北島三郎とか石川さゆりみたいにデビュー曲を一生歌って食べていけるヒット曲が無い。ホントに不思議なことだ。
 過去、私はレコードの音質とか、ステレオの性能とかに関心はあってもライブの楽しさは知らなかった。わずかに数えるしか記憶が無い。レコードやCDで楽しめたら良いじゃないか、と思っていた。お金があったら高性能な音響機器に投資したかったのだ。
 CDは飛ばしたい曲は飛ばせるが面倒だし、飽きる。沢山持っているが再生する機会は少なかった。それがアップルのアイポッドナノを覚えてからは、楽しいものになった。選曲、編集も出来る。いつも音楽が身近にある環境になった。
 CDが売れない時代だというのはそんな背景もあるだろう。ユーチューブで無料で見られ、聞くこともできる。好きな歌手だけを選べる。島津亜矢もそんな一人だった。それが島津亜矢は絶対ライブに限ると思わせた。私だけでなく、全国規模でそんなファンがうなぎ登りに増加中なのである。
 早い話、缶詰のフルーツよりも生の方が美味いに決まっている、と覚醒させてくれたのである。CDの売上枚数とかTVの視聴率とかに惑わされていた。或いはレコード大賞受賞とかで権威付けに関心を持たされていた。それは業界の利益以外、何の意味も無いことだったのである。
 CDでも何回も再生するようにコンサートも通う常連が多いのもうなずける。ファンとは気違いの意味であるが、まさしく全国的に追っかけする人もいる。今回でも北海道から来ていた人もいた。
 今の芸能界は足で稼ぐ時代に戻ったのである。TV界,レコード業界の衰退にあって、歌手はドサ周りで稼ぐしかない。もちろん、お客も会場に足を運ぶ。遠方へ旅行を兼ねてゆく人もいるようだ。
 島津亜矢は今年でデビュー26年目という。私がTVをやめた時期にぴったり。だから2年前まで知らなかった。ユーチューブで偶然知った。デビュー時から不遇だったのであろう。才能はあるが、環境は悪かった。ドサ周りで、ライブで稼ぐ。やることを懸命にやる、今、追い風が吹いてきた。
 他では11月の御園座の北島三郎公演の歌だけを行った。中学校の修学旅行で新宿コマ劇場以来、実に48年ぶりのライブだった。あの時は27歳くらいかな。今、76歳になったという。前座歌手に歌わせている間は後席に座っている。北島三郎老いたり、と思うステージだった。そして舞台の仕掛けがやたら派手になった。楽しい話もある。それにほぼ満席で人気ぶりは衰える気配が無い。しかし、外に出て、「なみだ船」を聞かなかったことに気づいた。あれ何で?。多分弟子の前座歌手売り込みのためにに時間を掛けすぎたのであろう。何だかなあ、損したなあと思った。
 プロのクラシック専門の友人から、クリスマスに恒例の「第九演奏会」のチケットをもらった。岐阜県であるが行くことにした。わざわざ足を運ぶ。そのこと自体も楽しいことと知った。アーチスト、演奏家と一体になる。生の迫力である。
 友人の話では演歌は音楽ではないという。しかし、クラシックはなぜ普及しないのか。或いは商業的に盛んにならないのか。これも不思議である。
 元々は歌謡というのは上代或いは平安時代の戯れ歌で、リフレインのことである。現代、昭和になって西洋音楽で曲をつけて、歌われるようになった。日本語の詩に西洋の様々なジャンルの曲が取り込まれている。和洋折衷。大衆芸能はこれで良い。不易流行。時代とともに変わって行くもの。だから流行歌ともいう。
 ドサ回りの大衆芸はその場限りのもの。その場所で聞いて楽しみ、聴衆の記憶に刻まれてゆく。随分刹那的じゃないかと思う。生きるってそういうことではないか。