④石岡繁雄「遭難を防止するために」を読む2012年03月12日

 今の時代にはごく当たり前になったことが述べてある。岳連理事会で遭難事故を起こした山岳会はその報告と遭難報告書のような冊子の配布を受けることがある。事故原因を風化させないためにも大切なことであろう。無念の内に死んでいった遭難者の声なき声を生きているものに警告として生かすことは重要なことだ。
 ところが山岳会に入っていない登山者はそのことがあいまいに終わる可能性が高い。救助捜索保険も未加入が多いと見られる。岳連加盟で山岳共済に加入しておれば多額の捜索費を賄うことができる。未組織の登山者が遭難した場合の費用に遺族は驚かれるであろう。残された家族を経済的困窮に陥れる可能性もある。この点も他のスポーツと大いに違うところである。何とかして同じ失敗を繰り返さないためにも原因追求は必要であろう。
 石岡先生の実弟は鋭角の岩角に当てたザイルの切断で転落死された。ザイルが切れたことが原因としたが世論は登山技術の未熟だったと叩いた。それを証明するべく蒲郡市でザイルメーカーの公開実験が行われたがザイルは切れず、再び叩かれる。しかし、おかしいと思った関係者が実験の角を調べると丸めてあったという。これじゃ、切れるわけがない。これ以降、ナイロンザイル事件として社会問題に発展していった。詳細は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 石岡先生は理論だけでなく身をもって、遭難者の声を生かそうとしたのに無視され続け、その後もザイル切断事故が続いた。①の論考にはその思いが滲み出ている。
*切れたザイルは長野県大町市の山岳博物館に所蔵展示されている。
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/junpei_s/matikado-oomati-hakubutukan.htm

① 遭難原因の追究の必要性
 登山界は、一般登山者に示すべき最善の注意の内容を、より充実させるべく常に研究しかつその成果をまとめてゆかなければならないが、この点で特に大切なことは、遭難が発生した場合、その原因をあくまで追求することである。
 もちろん遭難のうちには、軽率な遭難で原因はあまりにもあきらかであり、従来の最善の注意に何らプラスするところは発見されないというのもあるが、中には原因を追究することによって、従来知られなかった貴重な教訓を掘り出しうる場合も少なくない。
 青春を山に打ち込み、可能な限りの彼としての万全の注意を持って望み、予期しなかった山の厳しさにぶつかり、反省に歯を食いしばり、かなわぬまでもその厳しさに全身全霊をもって闘い、ついに力尽き敗れ去った遭難者は、「自分が失敗した原因を探し出して欲しい、そして自分の失敗を繰り返さないで欲しい」と叫び続けているに違いない。
 つまり遭難者の失敗の原因を追究し、分析し、今後に役立たしめることは、単に、今後の登山者にプラスになるのみならず、他方において遭難者の霊を慰める唯一の道でもある。
 従って、遭難関係者が、もしもかつての友情を胸に蘇らすならば、遭難原因の追究ということは義務感となって強く心を締め付けずにはおれない。また、この努力が、最善の注意を充実させ万全の注意に近づけてゆくためのもっとも強力な道でもあるので、山を愛するものはこの努力を怠ってはならないと思う。
② 遭難原因追求の方法
 さて遭難原因を追究するには、次に述べる三段階によるが妥当と考える。
(a) そのパーティの遭難の状況を明らかにする。これを以下、なした行為と呼ぶ。全員遭難という場合には、この点を明らかにしにくい場合が多い。
(b) 次にそのパーティはかくかくの事をなすべきであった、つまり、もし彼らがその様になしておれば遭難を避けられたであろうという点を明らかにする。このことは“山が持っている性質”と“そのパーティの能力”との正確な判断がなされた後、初めて生まれるものである。それを以下“なすべき行為”と呼ぶ。なすべき行為の発見は、既に述べたように容易な場合もあり、非常に難しい場合もある。
(c) 最後に“なした行為”と“なすべき行為”とを比較して、そのパーティの責任の度合を明らかにする。
 さて、上記の内(a)と(b)とが必要であることは理解できるが、(c)のパーティの責任の度合を明らかにするという点は果たして必要であろうかという疑問が起きる。
 それどころか、責任の追及は、いたずらに死人に鞭打つことになりはしないとかと思われる。関係者、特に遺族は、事故原因を不可抗力の隠れ蓑の中に押し込んで、犠牲者を軽率のそしりからまぬがれしめたいと考える。
 しかし、とかく山での遭難は軽率によるものが多い。また、そういう恐れのある者(遭難予備軍)が実に多い。そういう者への警告のためには、どうしてもこの点を厳格にすることが必要と思われる。遭難者をいつも英雄に仕立てるということは、遭難防止にとって望ましいことではないはずである。遭難事故を今後の遭難防止に役立たしめたいということであれば、目をつむってそれに徹しなくてはならないであろう。
以上