南飛騨・若栃山の沢2011年06月09日

 6/7の定例会後、夜9時過ぎW君と飛騨に向けて出発した。中津川ICを出るとき1250円也の表示に今日は平日と実感した。土日1000円の高速料金体制も6/19で終了する。
 木曽川にかかわる橋の料金所も撤廃されてスルーできた。しばらく飛騨、裏木曽方面に行かないうちに小さな変化があった。
 夜の南北街道(R257)を快走する。気温は17度とやや小寒い。もう11時半を回ったのでどこでビバークしようか。いくつかの候補地をやり過ごしながらR41の道の駅っぽい広いPでテントを張って12時半仮眠。
 翌朝4時半起き、4時45分出発。飛騨小坂から御岳に向かう道に右折。巌立峡のPまで走った。5時45分沢装備にして歩き始める。ゲートはいつもは開いているそうだが仕方ない。左に巌立の大岩壁を見ながらそして美しいサワラ谷の峡谷を見下ろしながら歩いた。ハイキングコースになっているようだ。
 約40分でカラ谷出合い。また林道を歩く。標高約1000m付近から入渓する。水は美しいが非常に冷たい。時々珍しい滝に出合うが全体として平凡な渓谷である。谷が段々立って来た。大きな岩を避けたりしながら溯ると突然、高さ数十メートルはあろうかという岩壁が阻んだ。近づくと岩壁に隠れて2段20mの滝がかかっている。
 地質には疎いがこれが濃飛流紋岩だろうか。ここは御岳の山麓であり、溶岩流の末端にあたる。
 この滝は右のルンゼに沿って大高巻きした。50mくらいは登っただろう。ルンゼに並行して岩の盾も続いているがその切れ目に獣道があって乗り越せた。沢に戻ると下の方は滝がいくつか続く連瀑帯になっているようだ。
 ここをパスすると再び核心部と思える滝の連続するところはあったが高巻きしてしまい、もう印象的な難場はなかった。もうソロソロ山頂へ直接突き上げる沢に出会えるはず。それらしい沢はガレ谷で落石の危険を感じてパスした。
 結局ザイルは1回も使わないまま溯れた。ところが好事魔多し、で詰めの平坦なところに集まる3本の沢の沖積地で目的の鞍部に突き上げる谷を見落として水量の多い「本流」に入ってしまった。もう登ったものと慢心してコイワカガミやバイカオウレンの群生地で写真を撮ったりして余裕綽綽だったのに・・・。
 程なく登ったところで分岐があり、地形図で照合するが確認できない。見通しのよい所から背後を見ると双耳峰の高い山がすっくと立っている。あれっ、間違った?W君と地形図を見ながら相談。このまま分からないまま登ることもできないので撤退を決めた。
 あのピークを若栃山と仮定するとおそらく1730mの標高点に突き上げるだろうと想像した。正反対の沢に迷い込んでしまったのだ。若栃山は地形図に山の名前があるけれどもその1730mから派生する尾根上の一ピークに過ぎない。
 3つの沢の沖積地に戻ると往きには気づかなかった涸れ谷が見つかった。涸れていると谷相は貧弱なもので等閑視してしまうのだ。我々は若栃山を目指しているのであっていつまでも沢を詰めているわけではないのだ。涸れ沢に入った。実は伏流していた。本流から押し出された土砂が溜まり、支流の出合が埋められてしまうのだ。
 先行してみるとすぐにもう一本右に急な涸れ沢があり、かすかな踏み跡もあるので辿ってみた。これが若栃山の鞍部への沢か、と直感的に思ったが踏み跡は薮に消えた。あえなく撤退。
 W君が涸れ沢を登っていくのでついていくが長い。イメージではもう着いてもいいとおもうが先がありそうなのでW君に相談すると彼も同感だった。結局地形図でチエックするとここも間違いだった。最初に試験的に登った沢が正解だった。沢の左岸側の斜面を薮漕ぎで這い上がって稜線にでることにした。薮は奥美濃の根曲がり竹ほど濃密ではない。稜線は踏み跡もないが薮もなく歩けた。鞍部に向かって下降する。
 鞍部に着いたがカラ谷から登って来れそうな踏み跡も見出せない。そしてここからも笹薮が待ち受けていた。落葉松林と檜林の境界のなるだけ薮の薄い所を選んで登る。頂上近し、と思ったところにはシャクナゲが一杯咲いていて美しい。そして一旦下る。これは地形図には表現されない小さな鞍部であるが間違った沢から仰いだイメージに適う。
 薮漕ぎしばしで山頂に着いた。2回目の私は初のW君に登頂を先行させた。W君は思わずあったと叫んだものだ。山頂標が3枚もぶら下がっていた。
 苦労の末この山に登れた感動を思った。思えば間違った沢から仰いだときは登頂を断念せざるを得なかったのにこうして山頂にいることが不思議に思えた。
 下山は薄い踏み跡を辿った。しばらくははっきりしないが下るにつれてはっきりしてきた。御料局三角点も二箇所あった。最初の分岐に着いた。W君の調べでは1489m標高点から派生する北尾根に林道に下りる道があるとのことだったが若栃山からくの字型に派生する北尾根にも道があり、右に振った。
 この道は尾根上を辿らず山腹をジグザグしながら次第に谷に下っていく。地形図にある林道終点手前までもっぱら右岸を辿っていた道が左岸に移るようだがW君は林道も見えたことで道のない左岸をそのまま下った。直前に左岸に渡渉した。この谷も涸れているので渡渉は楽だ。
 林道はきれいで歩き易い。しばらく歩くと歩道の入り口の道標があったからこれが下山口であろうか。
 林道歩きは辛いものがある。ところが林道の工事現場の人が仕事帰りに途中で拾ってくれて巌立てのPまで便乗させてくれた。助かった。歩けば1時間以上かかり、お湯には入れない。しかし、ひめしゃがの湯は今日は休業日だった。入浴はせず帰名することにした。

下伊那・万古渓谷(まんごけいこく)を溯る2011年06月13日

 信州というとどうしても日本アルプスや八ヶ岳周辺のイメージが強いけれど、ここも信州なんだな、と思う。
 登山の対象になる山を知らないだけである。まして沢登りなんてデータすら見た記憶がない。
 資料は地勢図:飯田、五万図:時又、2.5万図:上町
 後は泰阜村のHPの簡単な略図が参考になる。そのHPの見出しにはこう書いて紹介されている
 「万古渓谷(まんごけいこく)は、天竜川の支流で金森山を水源とする万古川上流の渓谷で、泰阜村二軒屋より飯田市唐沢の滝までの約7Km間をいいます。
 渓谷には瀑布、淵、奇影が続き、千古の密林のおおいかぶさる秘境であって、沢歩きの醍醐味を充分味あうことができます。」

 万古とは珍しい地名である。四日市には万古焼きがあるが「ばんこやき」と読む。万古不易に由来するという。こちらは「マンゴ」である。由来は不明。

 源流の金森山には登っている。小川路峠から道のない稜線の薮を漕いで往復した覚えがある。
 あらためて地形図を眺めてみる。金森山は赤石山脈と並行して走る伊那山脈の南端の山だった。その南には更にいくつかの山が続くが1700mの標高はここで終わる。以南はがくんと低くなる。最後には天竜川に落ちて山脈は終える。その東には南アルプスの前衛の御池山がある。要するに泰阜村は伊那山脈の山麓の村といえる。
 入渓地となるのは二軒屋という廃村だった。
 暗闇の中で日本鹿3頭の歓迎を受けながら長い林道を走った。11時ようやく着いた所は小さな電燈の点いたトイレがある駐車場だった。ここにテントを張ってささやかな宴会を催した。2人の新人さんとは初対面ということもあり、就寝は1時半。
 二軒屋という地名はどこかで聞いたことがある。福井県の広野ダムの奥にもかつて二ツ屋があった。そこから美濃俣丸の街道の尾の道に取り付いた。南アルプスにも二軒小屋があった。
 ここの二軒屋のかつては知らないが今も二軒のみ家がある。常住する住民は居まいが畑作にあるいは夏だけは来ているような雰囲気がある。廃村だが廃屋ではない。電線も引かれて文明圏にあるから別荘になる。
 さてPから身支度を整えて万古川にかかる赤い吊橋を渡る。歩道を進むと万古渓谷の石碑があり、天竜奥三河国定公園の一角と分かる。歩道はここまででいよいよ渓谷に入る。
 水位は高く、見た目に笹濁りであった。いきなり直登不可能な滝が現れて早速高巻きの手がかりを探す。すると左岸の壁に鎖、鉄製のスタンスまである。親切な配慮である。
 それからは一々書けないほどこの鎖と鉄の足場によって溯ることになる。魚止めの滝まではこの繰り返しであった。この滝の手前からは滝のしぶきが水煙となって流れてきた。滝水は落ちるというよりも沸騰したやかんのお湯を注ぐような滾る感じだ。滝つぼは煮えくり返る釜の如し、梅雨時の水量が多いと迫力がある。左岸の虎ロープ、鎖を頼って高まいた。
 その先も小さな滝、ゴルジュ、淵に遭遇するたびにこの鎖に頼った。落ちると逆巻く激流に飲まれてしまう。浮き上がることもないだろう。水死が脳裏を横切る。一箇所だけ遭難碑が岩に埋め込まれていた。だから腕力のない女性、体力のない人には無理な気がする。
 両岸は垂直に切り立った岩壁、急な雨で増水すると逃げ場がない。危険な渓谷である。沢登りをよく知ったリーダーが絶対に必要である。本谷ルートの半分の行程で七ツ釜で引き返すまでビバークしたくなるような沖積地も全くなかった。
 七ツ釜の手前の分岐で11時50分。6時50分の出発から4時間が経過していた。村のガイドマップでは2時間40分のコースタイムになっているから随分時間がかかった。原因は増水で渓谷を歩くよりも人工足場に苦労することが多かったためであろう。午後になって減水したため下山はかなり早かった。
 同行した新人2名も釣り経験者で魚心あれば水心あるのだろう。渓谷歩きに堪能し、充足したとの感想を聞いた。
 帰路はR151に抜けて「かじかの湯」で一風呂浴びてさっぱりした。天竜峡ICから山本JCTを経て名古屋までは断続的に渋滞した。来週で1000円の料金も終わる駆け込みドライブが多かったと見える。

梅雨の万古渓谷を行く2011年06月13日

梅雨の渓笹濁りして走りけり

梅雨の滝水飛沫上げ滾つなり

水煙漂う梅雨の滝つぼに

滝つぼの煮え返るごと梅雨の渓

遭難碑目の前に見し梅雨の渓

万緑の渓深く行く万古川

夏草をしとねにテント張りて寝る

夏草が招く二軒屋キャンプ場

語らいに時も忘れてビール飲む

夏の虫テントがかくも好きなのか

夏の夜や小鹿突然踊り出る

山がちの泰阜村やホトトギス

汗流す下伊那郡の「かじかの湯」

西近江・阿弥陀山と岩阿沙利山を歩く2011年06月18日

 鯖街道の花折峠の茶屋で名物の鯖寿司を食す

 阿弥陀山は1等三角点にして信仰に因む命名
  登山口から50分で三角点へ
  ノーマークの1等だったので望外の一山
  梅雨時で今にも降りそうな気配。
  ホトトギスが鳴いている
 
 岩阿沙利山も信仰に因む命名
  登山口から25分で山頂

越前・金比羅山の三座を歩く2011年06月19日

 武生ICに入る前に越前蕎麦を賞味。名物のおろし蕎麦。近くにある湧き水を利用した調理にこだわる小さな店ながら満席だった。

 南条SAで仮眠後、福井ICまで走り、まず625mの金比羅山に向かう。かなりの複雑な道を紆余曲折しながら目的地へ。登山口には比較的立派な道標があって登山道もしばらくは草生す感じだが登ると広くなり良くなる。右に左に振りながら尾根に達すると風が心地よい梅雨時の山歩きです。
 至近距離の梢にはホトトギスが盛んに鳴いています。遠くではドラミングの音も聞こえます。近くの小枝をバタバタコガラらしい小鳥が騒ぎます。
 山頂には最近電波反射塔が設置されて周囲の樹木が伐採されて見晴らしは良かった。左から部子山銀杏峯をはじめ南へ能郷白山などの越美山地の山々が雲に浮かんで見えました。
 尾根には珍しい植物があり、名前を知らない花が咲き誇っていました。二人静に出会えるなんて嬉しいものです。樹上に一杯咲き誇る白い花は何?ヒメシャラ?ナツツバキ?
 おなじみのヤマボウシ、ガクアジサイも。

 次は347mの金比羅山へ。これも地図と首っ引きで紆余曲折を経て登山口に辿りついた。林道工事中の人に道を乞うたが知らないという。
 地形図とチエックするが車を止めた辺りに的を絞って尾根を登ると竹林の中に山道が見える。新しい林道は登山道を拡幅する感じである。そうと分かれば登山道に下りて合流する。
 いい道を辿ると壊れかかった社と建て替えられた社が建つ山頂だった。三角点が薮を分けてすぐの高みに見つかった。余りハイカーも訪れることもないようだ。
 下山はある程度下って行きに目処をつけた尾根の踏み跡を下った。最初うろついた林道に降り立った。ここには笹百合が咲いていた。


 最後は帰る途中偶然見つけた金比羅山宮の看板に引かれて入ってみた。山間の美しい田園地帯から山の深みに登って行くと駐車場がある。そこから境内を登ると立派な金比羅宮が祭られていた。日本海の漁の関係者の尊敬を集める神様のようだった。
南西に聳える顕著な独立峰は鬼ヶ岳533m。いい山だ。

 越前のドライブというと高速道路かR8周辺になる。一歩日本海側の山地に分け入ると美しい山間の田園風景が広がる中に信仰心の篤い人々の山里に心が洗われる思いがする。
 実は金比羅山宮の前には織田信長の先祖を祭る剣神社にお参りしてきたのであった。織田家は代々この神社の神官だったようだ。織田家発祥の地というふれこみである。そんなわけで尾張とも縁が深い。

佐々木重良著『まいにち富士山』2011.6.20刊2011年06月25日

 定年後、サンデー毎日になる人が増える一方。もてあますヒマを富士登山に費やす人が居る。しかも本になった。富士山に一度も登らぬ馬鹿、三度登る馬鹿、という根拠不明の言葉があるがこの人は度を越している。
 著者は昭和15年生まれで今年71歳になる。64歳で富士山に初登頂して以来、富士山にとりつかれてしまった。本書は厳冬期以外は”まいにち富士山”に登ることになった顛末記である。
 その回数は819回という。大阪の金剛山に毎日登るとか、鈴鹿の藤原岳に800回登る短歌も読んだことがあるがこの人は日本一高い富士山である。
 5合目の標高は新富士宮5合で2400m、御殿場で1450m、富士吉田で2304m、須走口で1959mあり、一番楽な標高差でも3776-2400=1376mある。標高差300mにつき1時間はかかるのでおよそ4時間半は見ておきたい計算だ。
 この著者はこれを2時間40分で登っているそうだ。早い。これが鍛錬というものだろう。ちなみに『50歳からのヒマラヤ』の著者の石川富康氏はヒマラヤ登山のトレーニングで5合目から4回登ったうち、最初の2回は3時間を切れなかったが3回目で2時間を切ったそうだ。まだ50歳の始めだからといえる。
 以前に富士山は8合目からが苦しいと聞いたことがある。急な山道が災いするのだろうか。薄い酸素に体が慣れるまでは危険である。酸欠で死亡する人もいる。小屋には酸素も売っているほどだ。その負荷ゆえに下山後の体重は2kgも減るとか。著者も73kgあった体重が減り始めて60kgを割ってしまい、栄養補給に努めてほぼ60kgをベスト体重として維持しているそうだ。
 体験記であるがガイドブックにもなるし、読み物としても面白い。特に銃後を守る奥様のポーカーフェースぶりに抱腹絶倒してしまう。すごいわね、頑張ってね、よくやったわね、などと激励しようものなら調子にのって協力させられることを恐れているのだろう。
 著者は元教員だけに事があって新聞に出たら恥ずかしい。山の事故はことさら大げさに報道される傾向がある。教え子も心配するだろう。妻にすれば単独で登山して無事に帰宅すればそれでよし。夫の清遊を優しく見守っているのだ。
 そんな夫婦間の雰囲気も客観的に描写されて流石は元国語教員と思った次第。それと新田次郎の『強力伝』を読んで富士山登山を意識していたというのも先生らしいきっかけであった。

第14回天白川俳句会2011年06月26日

 12回目は4/29の昭和の日に豊田市小原町の杉田久女の故地を訪ねての吟行で好評だった。13回目は植田駅前で通常句会、14回目も同じ。
 昨年5/8に発足し、第1回が5月末だからまるっと1年を経過したことになる。病弱の1名が出て来れなくなったが後はみな休まず、脱落せずに付いて来る。
 あれから季語、5,7,5も満足に知らなかった高齢者が今は見違えるようにいい句を作れるようになった。継続は力なりを実感する。それだけこちらの責任も重いことになるので本物の俳人とは何か、というテーマであちこち吟行と故地を訪ねて足で知ってもらうようにしていく。
 7月末は前田普羅の命日8月8日に近いのでいなべ市鼎の夢かなえ荘を見学することにした。次いで山口誓子の句碑も見学する。
 どちらも山の俳句を詠むのが好きだった。新旧二強の山岳俳句の違いを学ぶことにする。
  霜強し蓮華と開く八ヶ岳    前田普羅
  雪嶺の大三角を鎌と呼ぶ   山口誓子

 中句に蓮華の言葉で尊い宗教語を連想させて、精神的な崇高な山岳美を賛嘆した普羅に対して、誓子はダイレクトに写生した形状で表現した。
 誓子は住友山岳会の会員に導かれて鎌に登ったのであろう。山岳愛好家の間で「鎌」と一言で言えば鎌ヶ岳のことである。だから山屋さんに連れられて行ったな、との推理が働く。
 その時の感動を余計な修飾語を使わずに表現した。

悠悠~阿久悠さんに褒められたくて~歌:島津亜矢2011年06月30日

 CDの音楽がどれも素晴らしい。ほぼ1週間、車で自宅でイヤホンで何度も聴いていて途中でスキップしたくなるようなかったるい歌がない。つまり駄作がない。さすが阿久悠さん。作詞はすべて阿久悠の遺作。それぞれに作曲家が曲をつけた。
 好きな順に
  恋慕海峡                     作曲:弦哲也
  わたしの乙女坂~晴れたら綺麗      作曲:永井龍雲
  旅愁                        作曲:杉本真人
  はにかみ                     作曲:鈴木サブロー
  麗人抄                       作曲:弦哲也
  想い出よありがとう               作曲:都志見隆 
  三日の宿                     作曲:金田一郎  
 可愛い歌い方の
  明日があるなら                 作曲:田村武也
 も面白い。調子が外れる点が森山直太朗(35歳)の「サクラ」の歌い方に似ている。この人は弦哲也の息子さんなので同世代だろう。今時の作曲家なんですな。
 島津亜矢が13歳で師匠の星野哲郎に入門したとき、星野は60歳だった。次々と名作を世に出していた頃であるがいわば晩年の弟子だった。1925年生まれと1971年生まれだからミスマッチもいいところだった。
 阿久悠は1937年生まれで一回り若い。更に浜圭介は1946年生まれ、弦哲也は1947年生まれで10年若い。これでやっと島津亜矢の年齢と作詞作曲の中身が若返って時代に合ったものに変わってゆく気がする。
 回り道した気がするが決して無駄ではない。下積みから全国的などさ回りの修業も十分。熱心な固定ファンがついている。幅広い芸域がある。一人芝居もテンポが早くて小気味がいい。ずうっと劇場にいたい気がする。余韻の残る素晴らしいエンターテイナーである。