Mさんの追悼文2010年03月11日

 昨年8月に95歳で無くなった最も長いつきあいのMさんの追悼文を何とか書き上げた。実は支部報ではすでに書き終わったのだが800字ほどですぐに終わった。今回は本部の『山岳』に掲載することになり、字数も3000字と長い。それで以前から文章を考えていたのである。
 結局は生い立ち、少年期、青年期、壮年期、晩年と分けて知る限りのエピソードをまじえて尊敬の念をもって書くことになる。つまり、親しい人への短い評伝である。
 躊躇していたWIN7適合のWZエディッタというソフトもこの機会に6.0にバージョンアップした。非常にサクサク軽く叩けるので投資効果はあったといえる。何しろ1913年(大正2年)生まれである。今回は戦前の『山岳』も参照した。Mさんが入会した昭和17年年はどういう事情があったのか275名も大量入会があったことを発見した。かたや日米がニューギニアで死を賭けて戦っていたころだ。
 『山岳』の総目次・総索引には戦前の会員のすべての入退会が記録されている。死去、除籍もある。これだけ年月が経過すると単なる名簿ではなく歴史資料である。ちなみに名古屋山岳会は昭和13年に団体入会している。創立者の跡部昌三さんは昭和16年の入会。栄光の山岳会もこの時代から出発した。
 昭和17年の入会者で篠田軍治の名前は昭和30年に穂高岳で起きたナイロンザイル切断事故に関係した1人として忘れることはできない。桑原武夫(1904-1988)は今西錦司、西堀栄三郎らと三高トリオを組んだ。後には仏文学者として名を成す。柳田國男の『遠野物語』の紹介者、俳句は第二芸術とこき下ろした人物であった。石一郎氏(1911-)はアメリカ文学者で『アルプス登攀記』の翻訳で有名。妻は石昌子(1911-2007)で俳人杉田久女の長女。愛知県生まれである。連番なので夫と同時に入会した。戦後草創期の「岳人」誌上で随想を書いている。自然の写真家田淵行男も安曇野市に記念館がありたまに行く。石一郎氏は存命であるが会員名簿に名前は無い。
 だからMさんは死ぬまで会費を払い続けたことが凄いのである。