謹賀新年2010年01月01日

岩小谷山からの三ッ瀬明神山
 
      やまなみや設楽に初の茜さす

歳旦祭2010年01月01日

 寒い元旦の朝。身を切るような寒さを凌ぎ背広にネクタイの正装で地元の島田神社の歳旦祭に挑んだ。初詣になる。素手では悴むので毛の手袋をした。コートを羽織るまでもないと背広だけで行ったが着てゆくべきであった。毛の帽子も欲しかった。
 午前9時過ぎではまだ早いのか境内の善男善女もまばらである。とりあえず参拝を済ます。受付もまだ来ていないので近くの喫茶店で時間をつぶす。10時過ぎでも早かったが幸い受付はいたので社務所に入った。一番乗りであった。しばらくすると顔見知りも集まり、形ばかりのお年始のあいさつを交わす。11時の開始近くにはほぼ集まる。神殿に通され約30分ほどの神事に仕えた。後ろは賽銭箱なので寒いのとじゃらじゃら音がする。
 烏帽子を被った男の禰宜、女の禰宜が取り仕切った。傍らではショウと呼ぶ雅楽器が演奏された。祝詞も読まれた。続いて榊を神に捧げる。各代表が一礼し拍手を打ってまた一礼。区政協力委員長の番では全員が規律した。天白区ではまだこのような古来からの風習が残るのだ。まさに島田村時代の名残である。
 司会役の氏子が次は「なおらい」ですと案内があり、別の広間に移動した。なおらいは直会と書き、WIKIによると 「神社に於ける神事の最後に、神事に参加したもの一同で神酒を戴き神饌を食する行事(共飲共食儀礼)である。一般には、神事が終わった後の宴会(打ち上げ)と解されているが、本来は神事を構成する行事の一つである。」とあり、その通りである。元旦というのに寿司、刺身、海老フライなどがお膳に供されていた。お神酒を戴き、ビールも飲む。元旦早々結構なおもてなしであった。
 直会を終えて境内に戻るといつしか参拝客で一杯になり、行列をなすほどである。中庭には焚き火もあり当たると嬉しい。沢中での焚き火に通じる喜びがある。遠赤外線は体の芯まで暖めるのだろう。手土産には寿司折と絵馬が供された。WIKIによると「絵馬(えま)は、神社や寺院に祈願するとき、および祈願した願いが叶ってその謝礼をするときに寺社に奉納する、絵が描かれた木の板である。」だと。信仰心の薄い私には縁がなかったものである。
 とりあえずは玄関の入り口に捧げておく。仕事を得ること、本が売れること、いい山に登ること、いい友人を得ること、など祈願することは多々ある。自分のことばかりでなく経済が回復し、若い人らの就職がうまくいくといい。「平針の里山」も何とか残すように見直されないか。(12/28の朝日への投書には数名から電話、メール、手紙を頂戴した)社会は一人勝ちを許してはならない。弱いものを犠牲にして繁栄する価値があろうか。
 今こそ今西錦司の棲み分け理論が敷衍されていい。生物多様性(COP10)とは棲み分け理論の言い換えである。つまり競争して強いものが生き残るのではなくそれぞれに環境に適した居場所を得ることの理解である。

       狩衣の禰宜や雅楽に淑気満つ

読初2010年01月02日

失業のままではおれず去年今年

剃刀を換えてヒゲ剃るお正月

初詣清めの水の冷たさよ

歳旦や雅な音に包まれて

直来やお神酒を酌みて寿ぎぬ

読初は正月号の俳誌なり

初刷を幾たびも読む別刷も

賀状来し病の癒えぬ友からも

見逃しの映画三昧寝正月

初映画忠義を果たす時代劇

新聞の来ない寂しさ二日かな

映画『はなれ瞽女おりん』鑑賞2010年01月03日

 1977年劇場公開。レンタルビデオ。久々にいい映画を観た。原作は水上勉。主演は岩下志麻、監督は篠田正浩のコンビ。小津映画ではしっかりものの女性を演じるがこの映画ではひらすら盲目の旅芸人役を渾身の演技で魅せる。当時36歳だから演技力に油が乗り切った頃か。
 北陸の日本海、流浪の旅、社会からの隔絶、純愛がテーマとなる。ロケーションが美しいので悲惨な人生を生きる物語の救いである。どこか『砂の器』(1974年松竹)に似ていなくもない。砂浜を流浪するシーンが無ければあんなにもヒットしなかっただろう。
 岩下志麻が美人女優から演技派に転換してゆく契機となったのではないか。残念なことはもう日本映画は衰退期にあったことだろう。
 おりんの映画は有馬稲子も演じたがったようようだが彼女は舞台で存在感を示したから立派。この映画を観て有馬稲子の舞台も観たいと思った。舞台はその場限りのものであるからもう観ることはできない。おりん役で膝を痛めたというほど渾身の演技だったそうだ。
 悲劇=薄幸の生涯を描くことは文学の永遠のテーマであろう。それを観て自分は何と恵まれていることか、と。

大須観音2010年01月04日

 午前は俳句雑誌の原稿を仕上げて送信。午後レンタルDVDの返却のため外出。ポストに年賀状若干あり。島根、京都、太田市など思わぬ人から来信。外出ついでに大須観音まで足を伸ばす。
 世間では仕事始めの日であるが大須のアーケード街ではやや大目の人出と感じた。大須観音様も行列が出来ている。まだ正月である。折角なので並んで参拝を済ます。コーヒーとカレーを食す。
 米兵で中国製のセイコー5を購入。最近まで修理と清掃を続けながら愛用していた自動巻きの腕時計が壊れたので更新。一時、正確なクオーツにしていたが電池交換が面倒で突然切れるので廃棄し自動巻きを復活したものだった。通販で10000円のものがここでは8000円未満。
 その後栄に徒歩で行く。丸栄地下の蕎麦屋に入ると「Nさん!」とびっくり顔の女性店員の声。昔懐かしいOさんの奥さんだった。娘さんが12,3歳の頃よく山に連れて行ってあげた。それが今や30歳超で昨年結婚し、もうすぐに出産という。四方山話と年始のあいさつもそこそこにして辛味大根おろし蕎麦を注文。余り辛味は利いてない。
 丸善に寄り本を物色するが買いたくなる本はなし。また徒歩で上前津へ戻り帰宅。乾燥した空気と一級の寒気のせいで空咳がひどい。年賀状の返信を認める。
 投函のついでにまたレンタルDVDを借りる。夜は「旭山動物園物語-ペンギンが空を飛ぶ」の新作映画(2009年2月公開角川映画)を鑑賞。かつて正月休みに立ち寄ったことを思い出した。廃園も検討されていた日本最北の動物園が上野を抜いて日本一になった物語。監督はマキノ雅彦とあるが実は津川雅彦。彼は映画一家のエリートなんだな。数十年前の凛々しい美男俳優も今じゃ大御所的存在。弟の長門裕之も出演。主演は西田敏行。とにかく困難を打開する過程で真剣な中に可笑し味があるのは西田のキャラか。笑わせて泣かせていい映画でした。
    4日まだ賑わう大須観音さま
    初鳩を眺めつ順を待ちにけり
    買初は身の丈にあう腕時計
    夫(つま)の地に嘆くコメント年賀状
    咳辛し無間地獄のごと続く

寒の入り2010年01月05日

 今日は寒の入り。小寒という。または大寒の20日前日までを小寒という。立春の2月4日の前日までが大寒。それまでをひっくるめて30日間が寒の内。いよいよ寒さも本番である。
 スーパーで1980円で買った綿入のキルティングはもう殆ど防寒の用を成さないほど寒い。重ね着をしても暖かい気にはならず。寝室もついに四方壁の部屋に引っ越した。外とガラスで仕切る間は冷え込みが一段厳しいので物置にしている一室と昨夜入れ替え。段違いに暖かい。ストーブの節約にもなる。もっと早く準備すればよかった。私は自宅で遭難しそうになったが大雪と寒波で各地の山でも遭難が頻発。
 連日の新聞報道では北アルプスの登山者が大雪に自力下山を諦めてヘリで救助された由。経験と登山技術さえあればどんな困難もOKとばかりに変な自信を持ったのだろう。しかし、今西錦司さんは「郷に入れば郷に従え」と説いている。
 地域には気象の特異性がある。寺地山辺りは豪雪地帯である。戦前加藤文太郎は2m前後のスキーを履いて北アの登山をした。豪雪地帯ではスキーの活用がもっと語られてもいい。山渓の『スキー登山』の技術書の著者柳沢氏もスキーが有益であることを説いている。どか雪ではどうしょうも無いが・・・。とにかく北アでは一旦冬型になると10日は吹雪くという。それは常識として知って置きたい。

映画3題2010年01月06日

 『五瓣の椿』は山本周五郎原作の時代小説の映画化。1964製作。複雑な人間関係を絡ませた人情復讐劇である。主演は岩下志麻ちゃんで23歳の綺麗な盛り。母は実母だが実父は不倫の相手だった。店の番頭の子供として育てられたのだった。出生の秘密を知り、母をそそのかした男5人を殺害して行く。現場には椿の花が残してあるというミステリアスな物語。若かりし頃の志麻ちゃんをたっぷり見るにはいいがストーリーは今一。
 『武士道残酷物語』(ぶしどうざんこくものがたり)は、1963年4月28日公開の日本映画。東映製作、配給。白黒/123分、シネマスコープ。原作は南條範夫の「被虐の系譜」。戦国時代から現代まで残酷・非情な封建社会をある家の七代にまたがる系譜を通して描く。戦国武士から現代サラリーマンまで異常ともいえる忠義七代の役を中村錦之助が力演した。ベルリン映画祭金熊賞受賞。ブルーリボン賞主演男優賞(中村錦之助)。(以上はWIKIによる)
 かつて今井正監督の『にごりえ』を見たことがある。3人の女性の生き様をオムニバス風に描いた映画だった。この映画も以上の説明にある通り、7代の当主がどんな生き様だったかを武士道をテーマに描いた短編のオムニバス。代は違っても当主はすべて中村錦之助が演じた。封建社会から現代に至るまで組織の統制、民衆の治世の手段として用いられた朱子学が悲惨な人生を招いたという南條史観であろう。目上、先輩、上司、年上には逆らわないことが朱子学の根本だった。だから武士社会ではよく研究されたようだ。
 現代でも大企業では組織運営の秘策として密かに用いられている気がする。武士社会の伝統を引き継ぐ公務員社会も同じだろう。その点政治、経済の社会は裏切りが横行する。離合集散は世の倣いそのもので打算で動く。これは江戸時代とて同じこと。
 『金環食』(きんかんしょく)は、石川達三の小説、およびそれを原作とした山本薩夫監督の映画。九頭竜ダム落札事件をモデルに、保守政党の総裁選挙に端を発した汚職事件を描いた。1966年刊。映画は1975年公開(大映製作)。(以上はWIKIによる)
 原作の小説は今から44年前であるが今でもダム建設にからむきな臭い話は尽きない。取材が徹底しているのか現実と虚構がない交ぜにになりいかにもあり得るように見える。利益のためには裏切りも辞さないし信義もないのだ。それが人間だと活写した映画である。
 こんな映画ばかり見ると小津映画が懐かしい。何にも起こらないけど心はほんわかする。

人の日や読み継ぐグリム物語2010年01月07日

 作者は前田普羅。普羅句集下巻の富山移住後の句作。大正13年以降と見られる。以下のWIKIの説明にもあるようにグリム物語が日本で初めて完全に翻訳されたのは大正13年であったから新刊間もない本を購入したと思われる。248編もあるのだから間を置いて娘さんに読み聞かせたのであろうか。当時は柳田國男「遠野物語」の外国版として読まれた可能性はある。
 人日=WIKIによると「人日(じんじつ)とは、五節句の一つ。1月7日。七種粥を食べることから七草の節句ともいう。古来中国では、正月の1日を鶏の日、2日を狗(犬)の日、3日を猪(豚)の日、4日を羊の日、5日を牛の日、6日を馬の日とし、それぞれの日にはその動物を殺さないようにしていた。そして、7日目を人の日(人日)とし、犯罪者に対する刑罰は行わないことにしていた。また、この日には7種類の野菜(七草)を入れた羹(あつもの)を食べる習慣があり、これが日本に伝わって七種粥となった。日本では平安時代から始められ、江戸時代より一般に定着した。江戸幕府の公式行事となり、将軍以下全ての武士が七種粥を食べて人日の節句を祝った。また、この日は新年になって初めて爪を切る日ともされ、七種を浸した水に爪をつけて、柔かくしてから切ると、その年は風邪をひかないと言われている。」
 ではグリム物語は「グリム童話が出版された時代、ドイツではシュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒涛)と呼ばれる文学運動が発生し、ドイツ固有の文学の見直しが叫ばれ、民謡や童話に注目が集まっていた。その結果、様々な民謡集や童話集が発行されたが、その大半は編者による改作を受けており、原話とはほど遠いものとなっていた。そのため、グリム兄弟は資料性を求めて独自に童話の原話の収集を始める。1803年に兄弟はマールブルク大学でロマン派のブレンターノとアヒムに出会った。
 1810年頃、ブレンターノから童話集出版の話を持ちかけられた兄弟は草稿を貸し出すが、ブレンターノはこれを紛失し、童話集の話も流れてしまった。(20世紀に入って、この草稿はエーレンベルク修道院で発見されたため、『エーレンベルク稿』(Ölenberger Handschrift)と呼ばれる。)後に兄弟が自分たちの手で草稿の写しを元に1812年(第2巻は1815年)に発行した童話集が『グリム童話』の愛称で知られる『子どもと家庭の童話』である。初版発行時に文章の拙さ(兄弟が田舎の無学な女性から聞き取ったためとされた)や性的表現に対してクレームがついたため、数度にわたり改訂が行われた。日本でグリム童話が初めて紹介されたのは1924年(大正十三年)のことで、翻訳家、金田鬼一の手により完訳(断片、方言物を含む)。今では計248篇ものグリム童話を手軽に読むことができるようになった。また、初版の訳本も出版されている。」
 (明治期にも翻訳はあったらしいが日本人向けに翻案されてしまったそうだ。あの「金色夜叉」もアメリカの通俗小説の翻案といわれる。小津映画の最高傑作の「東京物語」もアメリカの生命保険会社のPR映画にヒントを得ているというから著作権の無かった頃は案外多く紛れ込んでいるかも。「遠野物語」もヒントくらいは得ているかも知れない)

うしろより初雪降れり夜の町2010年01月08日

 普羅句集下巻より。新年の部から。
 ”人を待つ”の前書きあり。豪雪地のイメージがある富山といっても市街地が雪深くなるのは相当日数が経過してからになる。新年の部に入っているから元旦以降に初雪を見たことになる。へえ!そんなに遅くなってからかな、と疑問も湧く。
 街中か駅頭かは分からぬがまだ降雪に備えることもなく外出したのである。約束した場所で人を待っていると背筋に冷たいものが入ってくるではないか。街灯を見上げると雪がしんしんと降ってきた。おお!道理で寒いはずだな、といって首を竦めたのである。

粛々と群聚はすすむ初詣2010年01月09日

 岩波文庫『虚子五句集(上)』から。昭和13年の作。
 1/8は岐阜県海津市にあるお千代保稲荷に詣でた。木曽三川の氾濫がもたらした広大な濃尾平野の中の田園に忽然と立っている神社であった。商売繁盛ということで年中参拝の人が絶えないという。平日なら渋滞も無かろうと行ったが結構な人出であった。
 南門と東門があり南から入った。近くには500円、300円の駐車場もあるが無料の駐車場を探して待っていると5分もしないうちに空いた。参道を歩いてゆくと人込みが続く。行く人帰る人がそれこそ粛々と往来する。両側には小さな売店がずらっと並ぶ。お稲荷さんに近づくとしっかりした家を構える川魚料理の店が並び、門前町にしては違和感がある。名物がなまず料理と以前から聞いていたが店も予想以上に多い。
 お稲荷さんの小ぶりな神社を見送って一旦東門まで歩く。串かつの旨そうな匂いが鼻をくすぐる。大勢が並ぶ。たい焼きの店も行列が出来ている。正月や例祭はさぞや賑わうことだろう。戻ってお稲荷さんを詣でるがここでは油揚げを買って神社に投げ入れるのが風習のようである。きつねの好物=油揚げの発想であるが・・・。さい銭だけで済ます。
 念願だったなまずの蒲焼料理の店に入るが昼時を過ぎた中途半端な時刻なので誰もいない。値段は大きさにより2000円から5000円までの時価という。なまずの研究で有名なある皇族が入ったという店で標準的な定食を賞味。あっさりしてたれの味がないと軽すぎる感じがする。こんな味だったかな、と舌の方は記憶を取り戻そうとする。子供の頃はうなぎ、なまず、台湾泥鰌、泥鰌、鮒、しらはえ、川海老などよくとれたのでしばしば食卓に登ったものである。鑑札のいる鮎だけはもらい物しか記憶にない。
 名古屋市の新栄にもなまずを出すという店があると知って1度だけ行ったがやはりあっさりした味だったかも知れない。但し、小骨が多い。
 店をでてまた群集に紛れてPに戻る。鳥居だけは立派だが威圧するような拝殿、山、大きな岩、大木などのありそうなものが一切ないのも珍しい。「先祖の御霊を千代に保て」と先祖を大切にすることは商売の基本ともいう。110店もある店がどうして集まったのだろうか。狐に化かされたような気になって海津を後にした。