鈴鹿・イブネ残照2009年11月26日

 脳裏に焼きついたイブネの山景。どこかで見た風景である。2度ならず3度は行った山である。昨年も更にずっと昔も行ったことがある。
 辻涼一『鈴鹿源流』(山人舎 1995年)を取り出して読み直した。佐目峠のところを読むとリアルな描写がある。少し引いてみよう。”峠の東側にかつてあった御池鉱山の跡に立つと、余りの規模の大きさに唖然とする。中略。この山の中に神社が置かれるほど多くの人々が住んでいたのだ。中略。最盛期には700人からの人々が暮らしていたというからまさに一大村落が営まれていたのである。”そうなんだ、そうなんだ、と思いつつ本を閉じた。
 700人の男女子供らが生活していた。山中ゆえ電気もなかった時代であろう。郵便局も学校もあった、という。時代の要請で生まれた-金属資源の乏しいわが国の一時的な繁栄-を謳歌してこのムラは消えた。残ったのは鉱山跡や神社だけではない。イブネ一帯の自然破壊であった。しかし、傷は浅かったといえるだろう。中国山地を歩くとやはりタタラの遺跡がある。彼の地も笹原の山が多い。鉱物を掘り、精錬のために木を伐って製炭した。笹の山はそうした名残なのである。夥しい土砂が海に流れて対馬海流がまた海岸に寄せ返した結果、鳥取砂丘が生まれた。天橋立も自然破壊の産物であった。
 気になるのは大峠に向かう稜線に滋賀県造林公社の杭が打たれていたことだ。将来は杉の一大植栽地に変わるのだろうか。林道は愛知川の奥深くまで伸びている。すでに釈迦ヶ岳の近江側一帯は植林された。かつてツメカリ谷を溯る際伐採中であった。今のツメカリ谷は荒れ谷となった。
 もしもイブネ一帯にまで及んだら大変な自然破壊になる。林道があちこちに伸び、砂防堰堤が築かれ、佐目子谷も台無しだ。ハチノス谷も大半は杉で埋まる。すぐそこまで破壊の触手は伸びているのだ。林道を走る車を通して外来植物が進入する。林道が廃道になると山崩れもおき易い。せめてイブネクラシ源流部は自然保全地域に指定されないだろうか。聖域として残して欲しいと思うのは私だけではないだろう。

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