映画「銀嶺の果て」鑑賞2009年05月01日

 1947年公開の東宝映画。谷口千吉(1912-2007)の監督デビュー作。主演は特にはっきりしないが一応銀行強盗を働いた3人組か。三船敏郎、志村喬、小杉義男。ちなみに三船のデビュー作であり、新人ながら主演格であり、目をぎらつかせて野生的な風貌で一人異質な俳優が紛れ込んだ感じがする。他に登山家の河野 秋武、若山セツ子、スキー小屋の主人に高堂国典らが脇で固める。
 筋書きは単純で銀行強盗の3人組が山奥の雪に埋れる温泉宿に逃亡した。宿からもさらに奥に入山し、山岳アクションが展開されていく。厳冬期の北アルプスを越えるなんていくら強盗でもアシがつきそうなもの。荒唐無稽な話にもう消したくなるが雪山のシーンだけでも観たいと続ける。
 風雪の避難小屋での焚き火、犬の声で逃げるが短銃の音で雪崩を引き起こし、仲間を亡くす。さらに高みへ逃げるが山スキーのシュプールを発見してスキー小屋に辿り着く。ここでアメリカの音楽に里心のついた志村喬に愛想をつかす。山中での山スキーシーンは別人であろうが粉雪の颯爽とした画像が素晴らしい。アップで見る北アルプスもいい。鹿島槍周辺であろうか。山小屋生活の掟=薪一つくべないものは風呂に先に入る決まりはない、ザイルは切らないのが山男の掟など薀蓄が披露される。
 三船は登山家の本田を恫喝して山越えの逃亡を謀る。ここで谷口は只の映画監督ではないな、と見た。肩がらみのザイルワーク、懸垂下降、アイゼンをつけての登攀シーン、滑落停止など今となってはもう古典的な登山技術の多くが披露される。後でWIKIで見たらやはり、早稲田大学山岳部で活躍した登山家であった。しかも、日本山岳会会員である。登山家の本田は監督自身であろう。生涯の作品数が少ないのは山男だったせいであろう。
 アクションよりも北アルプスの雪景色を堪能して欲しいと制作されたような山男向けの映画でした。山やさんなら一度観ておいて損はない。以前に同監督の「暁の脱走」も観た。学生時代は思想的には左翼だったそうで道理で反戦的な気分が漂うはずだ。山男監督にしてはアクションが派手目に思うが脚本が黒澤明と知ればなるほどと納得も行く。奥さんはやはり山好きな八千草薫さん。実生活は96歳の長命を得た。

春の蓮華温泉 山スキー行2009年05月06日

 5/3の朝、道の駅で車中泊後、栂池スキー場へ。Pは早朝のせいか60%くらいの入り。ゴンドラは朝8時に運行するのでパッキングや朝食を済ます。3泊4日のザックは約20Kgにもなろうか。相棒のW君は30Kgを越えたらしい。
 ゴンドラから見下げるゲレンデは新緑の最中であった。中間駅までにも雪はない。ヘリスキーが待機していた。ロープウエーに乗り換えて最上部に着く。ここはまだ残雪があり、春スキーで賑わっていた。それ以上にツアー登山者が続々登って行く。白馬乗鞍岳からの滑降であろうか。
 我々は重装備であるがかえって場違いな気がするほどであった。肩にがっしり食い込むザックを背負い、喘ぎながら天狗原へ登る。時折ヘリは飛んでいく。多くの客がいるようだ。この大きな差に愕然とする。
 天狗原へはふーふー言いながら着いた。ヘリポートのある辺りに向ってシール歩行する。ようやく滑降する振り子沢の上部に着いた。
 12:10。ここでシールを外して沢に滑降。中々快適でした。台地上にルート表示があるが我々はU字溝状になった沢に滑りこんだ。W君もなぜ振り子沢なのか納得した。左右にふらふら振れるからである。この名前は乗鞍岳にもある。
 ピンクのテープや古いスキーツアーのための看板が木に打ちつけてあるのでRFは心配ない。振り子沢の下部で尾根を乗り越し小沢を滑ると車道であった。
 車道をしばらくは雪の上を歩いたが途切れている箇所もある。すぐに憧れていた蓮華温泉に着いた。休みをいれて約1時間30分の滑降でした。Pはすでに3パーティがテントを張っていた。我々も設営。ここからは雪倉岳、朝日岳、五輪山が良く見えた。五輪山は伊吹山そっくり。
 今日は蓮華温泉ロッジで受付を済まし、テントを設営するのみ。後は名物の露天風呂を楽しんだ。風呂からの展望は素晴らしいの一語。ロッジの話では雪倉岳のスノーブリッジが崩壊してスキー登山は出来ないとのことだった。それで朝日岳に変更。
 5/4。4時起床5時23分出発。宿からしばらくは下り、尾根を乗り越す際はスキーを漕ぐ。キャンプ場を通過して例のピンクのマーキングを頼りに見事なぶなの原生林の中を滑走。やがて兵馬ヶ平の湿原に着いた。余りにいいのでのんびり休む。ここを突っ切って瀬戸川橋へ下るのだがRFを間違える。ピンクのテープに惑わされた。橋を渡り、対岸に着いて板を担いで尾根まで上がる。雪のある辺りで再びシール登行。右にテントが一張り。地図の池も見る。急坂を登りきると台地にひょうたん池が現れた。しばらく眺める。殆ど水平の林を突っ切ると白高地沢に出た。ここで対岸に徒渉するものと勘違い。実は右岸の広い台地上の尾根に取り付くのが正解だった。
 あれほど遠く見えた朝日岳が今は目前に見える。しかし、ピッチが上がらず、11時30分、1705mの独立標高点で引き返す。標高差700mを往復するのに約3時間以上かかり、日没での原生林の彷徨いが想像された。テント場へ戻って露天風呂を楽しもうと思ったが営業は4時までというので内風呂に入浴した。露天は500円、内風呂は800円。
 5/5。トレーニング不足(登山がトレーニング)を痛感。1月以来の今シーズンは月1回の登山がやっとのこと。昨年との違いは大きい。そんな反省をしながら今日は静養的なスキーワンダリングでお茶を濁した。雪倉岳の徒渉地点を偵察に行ったが靴を脱げば渡れないこともない。今日も内風呂に入湯。
 5/6。夜来からの雨がテントのフライを叩く。今日は荒れるかな、と思ったが意外に晴れ間も除く。5時55分出発。振り子沢を溯って約3時間30分で天狗原の一角に着いた。初日は蟻の行列をなしていたスキー客も今日はいない。ヘリスキーも終ったようで赤旗も撤去された。
 栂池を俯瞰するところから荒れた斜面を滑降した。ロープウエーはパスし、林道を下る。ゴンドラに乗ると下界に下るに従い雨脚が強くなった。白樺の新緑が美しい。
 栂池の温泉は13時からなので八方温泉に転戦した。ここは12時開店、500円と格安。今日も更湯であった。お湯のあとは100%白馬産の蕎麦粉がウリの蕎麦屋で下山後の食欲を満たした。
 ちなみにロッジは1泊2食で9000円也。お客はガイド登山の客が多かった。

春の蓮華温泉は静寂郷2009年05月07日

 春の蓮華温泉は陸の孤島だった。
 スキーで降りて温泉へ行くなんて初めてのことだった。山の雑誌で紹介された写真をイメージしていたがずっと荒々しい山奥である。ガイドを雇ってでもいきたかった蓮華温泉である。
 観光客は居ない。まだバスも通わない時期だ。7月に通うまではスキーで来るか、スノーシュー、或いは平岩から木地屋を経て徒歩で来るしかない。
 それだけに静寂そのものであった。雪解けと競い、フキノトウが浅黄色であちこちに頭を出す。ロッジの前の広大な湿原にはミズバショウが咲き始めた。
 露天風呂は宿の裏を登ること10分もかかる。山の斜面からお湯が沸き、湯気が立っている。湯船に体を浸すとしみわたるように温まる。とてもぜいたくな時間だ。
 ロッジの中に入ると「秘湯を探して」と題した文が掲げてあった。岩木一二三氏の秘湯賛歌である。秘湯なる言葉も岩木氏の造語とか。共感するところの多い名文なのでメモしておく。

             「秘湯をさがして」
 田舎を捨てた人間だけに人一倍田舎を恋しがる東京人の一人である。幼い頃に、いろりのそばで母のぞうり作りを見、縄をなう父に育てられたからかも知れない。
 しかし、そのふるさとの家も跡かたもなく近代化され、牛小屋はコンクリート建ての車庫に変わってしまった。おいやめいが各々の車を持って走り回っているほどの近代化した日本の社会である。
 いったい、老いゆく自分達がどこに安住の地を求め、どこに心の支えをおいたらいいのだろうかと迷いながらさまよい歩いて三十年の歳月が流れていった。
 旅行会社に席を置くために、つい旅行に出たり、旅と結びつけてしまうが、もうホテルもきらきらした旅館もたくさんだ、炭焼き小屋にでも泊めてもらって、キコリのおじさんとにぎりめしでもほうばってみたいと思うこともしばしば。
 馬鹿らしくて夜行列車なんか乗れませんよ。ジェット機が早くて楽で…。といったかと思うと、やっばり連絡船はよかったなあ…、人間の哀感を知っていた乗物だ。自分たちが必死で求めてきた近代文明に何かが欠けていることがようやく解ってきた昨今の日本の姿であろうか。
 それはたしか昭和四十四、五年頃だったと思う。せめて自分だけでもいい。どんな山の中でもいい、静かになれるところで自分に人間を問いつめてみたいと思って杖をひいたのが奥鬼怒の渓谷の温泉宿だった。
ランプの明かりを頼りにいろり端で主人と語りあかしたあの日が今でも忘れられない。目あきが目の見えない人に道を教えられたような思い出がよみがえってくる。
 公害のない蓮華温泉の星空はきれいだった。
 人間と宇宙がこれ以上近づいてはならない限界のようにさえ思われたのである。細々と山小屋を守る老夫婦の姿には頭が下がった。人間としてのせいいっぱいのがんばりと生き甲斐が山の宿に光っていた。
 ひとびとの旅は永遠に続いてゆく。それぞれ目的の異なる旅かも知れないが…。いづれの日か山の自然と出で湯は、ほのぼのとした人間らしさをよみがえらせてくれることだろう。
 秘湯で歴史を守ろうとじっとたえてきた人々の心の尊さがわかって頂ける時代が帰って来たのである。秘湯を守る皆さんや、秘湯を訪ねられるお客さん方に、私たちが近代社会の中で失いかけていたものは…という問いを投げかけてみたい。
 これからの日本に大切なことは何か。
 それは、人間が共に考えながら、助け合いながら、築き上げ、守りぬく、ぬくもりのある人生の旅ではありますまいか。 ・・・ 岩木一二三
(昭和56年発行第六版の序文より)

ウエストンの白馬岳登山2009年05月07日

 『日本アルプス 登山と探検』(平凡社ライブラリー)によるとウエストンが来たのは明治27年7月のことだった。19日に直江津を出発。糸魚川までは船で行く。7/20には姫川を溯り、大所川に沿って樵夫小屋に着きますがこれは多分木地屋のことでしょう。当時はもう木地屋を止めて百姓になり、杉の幹を加工する生業に変わったようだ。明治初期、戸籍制度を作り、住民を定住させるために山に火を放すことを禁じる法律を作った。地租改正もあって山の木を自由に伐れなくなった。
 20年位前の3月、天狗原から木地屋へスキーツアーで降りた。タクシーを待つ間木地屋の家でビールを飲み、自家製の野沢菜漬けを提供されて美味しかったことが思い出される。
 7/21の午後5時に野生的な浴場と表現した蓮華温泉に着いた。挿入されたハミルトンの写真を見ると粗末な小屋に驚く。文字通り野生的である。青年団のパーティは夜遅くまで酒盛りをして大満足で「劇的な詩」を歌っていた、と書く。「劇的な詩」とは何だろうか。恐らくは民謡か俗謡か。他の客も喜んで聞いていた、とも書く。和やかな雰囲気だったのだろう。
 7/22の午前4時に起こされて出発。2時間で蓮華銀山に着く、とある。精錬所跡とは銀山だったのか。検索中に面白いことが分かった。三島由紀夫の祖父・平岡定太郎が蓮華銀山の会社社長をしていたという。
しかしこの事業は失敗。山師の哀れな末路が見えるようだ。
 ここから白馬岳に10時に登頂。その道を往復した。当時は大蓮華の峰と呼んだ。温泉から6時間で登ったから相当な健脚であった。
 あとはさらっと書いて終る。
 少しづつ少しづつ理解できる範囲で読んでいくとウエストンは近代的な登山の普及者であると分る。しかし、山の湯に親しみ、山の民の観察もする。山旅の名人は民俗学者の資質もある。広く親しまれてきた所以である。
 ここまで書いてふと最近買った渡辺京三『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)を思い出す。実はこの本にもウエストンの本が出てくる。著者は江戸時代を一文明として捉え、それを外国人の観察になる著書から日本人に紹介した本である。日本人は悪いこともいいこともすべて捨てて変わってしまう、という。江戸時代もいい所があった。古き日本が夢のように美しい国、という外国人の言説の紹介。それを「逝きし世」と表現したのである。
 バスも通わぬ中の蓮華温泉こそ美しい。別天地である。兵馬ノ平は規模こそ小さいが箱庭的なまとまりがある。周囲の遠景もある。時を忘れて埋没できる自然郷である。

藪と残雪の高三郎山に登る2009年05月10日

 5/9(土)朝8時出発、東海北陸道を北上し、福光ICで降りる。イオックス・アローザスキー場を目指すが道を間違える。一旦戻ってついでに買い物を済ます。
 行きがけに医王山の奥医王(933m)に立寄ろうとしたが迷路のようなスキー場内の道をようやく探り当てて午後過ぎから約20分で山頂。あっけないし名物の北アルプスの展望もなし。下山後は石川県側に下り、犀川ダム湖を目指す。これも迷いながら何とかダム湖に着いた。犀川ダム湖は金沢市民の水がめであり、観光地化はしていない。屋根つきのPがあるので中に入って停めた。急な雨が来てもいい。照明あり、水洗便所ありのビバークサイトにはもってこいである。他に2台停めたままであるが山中泊であろう。スーパーで買った惣菜で一杯やりながら早めの夕食をとる。すると昔、若い頃大阪に就職して山岳会に居たらしい人が来た。今は金沢市民というその人と山の話題で盛り上がった。帰っていくともう後は私だけの寂しい湖畔である。
 5/10(日)朝4時40分起床。すぐに簡単な朝食を済ます。夕べの内にパッキングしておいたので片付けて5時37分出発。
 湖岸道路を歩き、吊橋を渡ってすぐに1時間で倉谷集落跡に着く。ダム湖もここで終り、倉谷川の流れに沿うようになる。岩魚釣りと出会う。釣果は1尾。水量計の跡から先が水没しているというアドバイスを貰う。高巻を教えてくれたが難儀なので靴と靴下を脱いでへつる感じで突破した。
 再びブルーシートの簡易小屋がある。老人が2人レジャー感覚で居た。倉谷川に沿って、高度を稼がないアプローチを続ける。しかし、周囲は新緑の真っ最中である。道もまだ草生すほどではない。金山谷出合いに着く。徒渉すると長尾根登山口があるがパスしてシャクナゲ尾根の登山口を行く。小さな谷を渡ってすぐにそのまま谷沿いの道と尾根の道に分かれる。尾根に取り付く。いきなり急登である。周囲から枝が掛かり、整備されているとは言い難い。
 急登が一段落した所で一服した。670m付近である。登山口は370mなので丁度1時間ほど稼いだ。広坂という別名もあるようだ。若干広くなるが道はかえって分りにくくなる。狭くなったり、広くなったり、シャクナゲを愛でながら高度を稼ぐ。足元にはイワウチハ、チゴユリ、カタクリ、ショウジョウバカマなどの小花が慰めてくれる。1089mを過ぎるとまた急登が再開である。
 痩せ尾根を喘ぎながら行く。右手には長尾根が見える。その向うには奥三方、中三方辺りの山が並ぶ。天然の桧が立つ。ぶなの大木も立つ。相変わらず藪という程でもないが小枝がうるさい。両側がスパッと切れたキレットに遭遇した。慎重に通過する。雪崩で木がなく、土砂がむき出しである。長尾根との合流地までは攀じ登るような感じで行く。
 合流地にはたっぷりの残雪があった。尾根は見下ろす限り、大変急で藪がらみに見える。古いテープが一つぶら下がる。しばらく残雪上を快適に登れたがまた藪が絡む道に戻る。すると山頂らしい台地が見えてずっと残雪が覆う。快適なキックステップを刻むと山頂だった。11時45分到着。6時間12分の時間がかかった。長丁場であった。満足感に浸る。他のトレースはなく今期の初登頂かも。
 撮影のためにあちこち右往左往したが藪越しに白山と北方稜線が見えた。最高点へは雪が途切れ、藪が出ていたし、ここだけでもう満足であった。山頂標が半分ほど埋まる。積雪約1mはあろうか。
 休憩の後、12時27分、下山開始。踵でステップを刻みながら下るとようやく単独行に出会った。藪が多いですね、と挨拶代わりに出てきた。シャクナゲ尾根を来たらしい。ドンドン下る。時折は休みを入れながら下る。14時35分、倉谷出合いの登山口に着いた。岩魚釣り、山菜採りの3人に出会う。しばし世間話。金山谷を徒渉、倉谷集落跡に着くと5人の男がビールで一杯やっている。「高三郎か」と呼び止められて、また世間話。河村市長の話まで出た。私の名古屋弁で愛知県と人間とすぐ察しがついたらしい。一気に下界に戻ったが長居はできない。吊橋を渡り、また湖岸の道をひたすら歩いた。16時40分着。
 ようやく長い山旅が終った。手応え充分でした。藪山に帰りつつある高三郎山でした。名古屋へは270km余りのロングドライブがある。これも渋滞なく無事帰名。往復2000円のお値打ちなドライブでした。やれやれでした。

追悼!藪山と酒と本を愛したU先生逝く2009年05月12日

  
 ただ一人五月の藪の山に行く

 手を振れど微笑むばかり御来迎

 本を手に彼の世の山に登るなり