山岳雑誌「山と溪谷」誌を考える2009年01月06日

 近くの書店に「山と溪谷」誌が大量に売れ残っている。雑誌が売れない時代である。しかし、登山はそれなりに盛んである。雑誌側と登山者側にズレがあるようだ。
 今は100年に一度の経済危機という。80年前の1929年10月にアメリカの株式が大暴落し、世界大恐慌へと進展していった。映画監督の小津安二郎は「落第はしたけれど」や「大学は出たけれど」などを制作して恐慌時代の生き難さを描いた。後の「出来心」1933年でもまだ不況色を抜けきれず、蟹工船へ潜って出稼ぎに行く挿話が出てくる。映画では途中で脱出するのだが。
 さて、当時の世の中は鬱々とした感じであっただろうがどこかに明るさもあるように思った。今以上に悪くはならないという諦めである。それが証拠に山渓の『目で見る日本登山史』の昭和前期の登山事情と出版の項目に山と溪谷社は1930年5月(昭和5年)に川崎吉蔵が創刊したとある。大暴落の翌年である。
 川崎は大正14年、18歳で日本山岳会に入会し、早稲田大学の山岳部でアルピニズムを知る。卒業後は就職したいが「折から世界大恐慌のさなかで就職先は得られない」らしくて「若者らしい夢語りで口にした山岳雑誌刊行を周辺からも勧められ、23歳で「清水の舞台」から跳ぶ。」とある。
 創刊号に述べられた創刊の信条は
「山岳団体にも学校山岳部にも所属しない一般登山者に、<研鑽>と<発表>の場を、またあらゆる層の優秀なる文献を一冊にして徹底的な<廉価>で提供すること。また<ヤブ山のみを自己の山だと信じたり、高山峻岳のみを以ってただ「山」と信ずる「小児病患者」を排撃>して、<「正しきアルピニズムの認識」を前提として真面目に「山と人との」対照を思索して行かねばならぬ>と記す。
 この創刊号は予想以上に売れて2度増刷した。これ以降ライバル誌が相次いで刊行されたし、ガイドブックの他の山岳書も多々出版された。創業者川崎の世相観察は的確だった。
 当時は「大衆の登山趣味は、谷川岳の岩場に果敢に挑むアルピニズム志向の活動からハイキングやツーリズムの要素が濃い活動のレベルまで多様だった。彼らの多くは、本格的な山岳団体にも学校山岳部にも所属せず、同好者のグループや家族で休日登山を楽しむ人々だ」とする。山旅派や低山趣味が浸透していった時代であった。「山と溪谷」誌の創業者はかれら大衆の要求にぴったりと合わせ、娯楽と情報をサービスして基盤を固めていった。
 今のヤマケイは大きくなりすぎて、大衆のニーズを把握し切れていないのだろう。ヤマケイがサービスしていた新しさは今や旅行会社や他の出版社にとって変わられた。おまけにインターネットが3000万人に普及している。グーグルの検索も恐るべしである。
 少なくとも今のヤマケイは創刊の信条に帰るべしである。恐慌の入口にいる現在は創業時代を省みるいい機会である。僅かなこづかいと1日か2日の暇を得て山で過ごし、自然に触れて生き返る感じを持てればいいのだ。当時の人々もそうしたであろう。

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