鉢盛山に登る2008年10月06日

 10/4夜、9時に名古屋ICを出発。目指すは木祖村である。朝日村側の登山道につながる林道が平成18年の災害で復旧されないままで入山できないため木祖村側から登山することにした。国有林のために許可書が要るとのことで手続きをしての登山である。
 従来なら中津川ICで降りてR19を北上する。権兵衛トンネルが開通して木曽北部への流れは変わった。伊那ICで降りて料金は4100円也。権兵衛トンネルへと走る。かなり広くて快適な道がトンネルへと導く。
 トンネル3本を抜けるとループ式の道路を走ってR19へ合流する。山吹トンネルの手前に抜けた。しかし、R19も深夜とはいえ交通量が多い。そんな中を薮原の信号で左折して上高地へと向う。
 薮原森林事務所に寄ったのは深夜も12時前となった。それでも係りのS担当官は親切に応対していただいた。ここで入林許可書をもらい、林道ゲートの鍵を借り受けた。国有林内に入山の許可を受けるのは初めてであるが非常に厳格なものであった。国有林内の林道転落事故があった時、裁判になって国側が管理不行き届きで敗訴して多額の金を払っている。元々、国有林は国民が利用する権利がある。敗訴によって自然に持っている権利すら制限的になってしまったのは残念だ。
 10/5の0時をはるかに過ぎて寝たのは1時。とある公園にて車中泊した。そこは奥木曽湖の一角で標高1000mを越えるのでかなり冷えた。5時過ぎに明るくなって起きたが空はまだ晴れている。午後からの天気悪化を念頭に早めに出発した。
 奥木曽湖を橋で左岸に渡るとすぐにゲート。鍵を開けて入林した。林道はよく整備されて走りやすいので常時、利用されているのだろう。『思い出の木曽森林鉄道』によればどうやら林道と軌道とは少し違うようだ。小木曽森林鉄道は昭和2年に開業して小鉢盛山の山麓のヒル久保まで伸びた。尾頭沢の出合からは重複したり離れたりしてヒル久保に登る。基本的には木曽川の右岸の高いところを走っていたようだ。
 ヒル久保から分かれてワサビ沢へと向う。木曽川源流の碑が建つ。昨年は林道の崩落のためにここから登山口まで50分歩いているが行けるところまでと、走ると落石の多そうな箇所は何とか通過できた。路肩の弱そうなところも慎重に通貨して無事登山口に着いた。
 登山口付近は岳樺の林もある広い場所が確保されているし、手前には水場もある。鉢盛峠へはすぐ行けそうな場所だ。身支度を整えてきれいに笹の刈り払われた登山道に入る。これまでの植林の雰囲気からコメツガ、岳樺の大木が大きな間隔で生える原生林の趣になった。登山道はジグザグしながら尾根に導かれて山腹を登って行く。ツルリンドウの赤い実が多く目立つ。
 尾根に立つともう一方からの道も合わさって右折。村界尾根へと急登の登りとなる。約30分で「いつもの休憩場所」に到着した。ここまで400m歩いた。残りは1.6Kmとある。親切表示である。急登を我慢しながらも疎林の間からは遠近の山が見え始めた。近くは小鉢盛山である。背後の山が分からない。独立峰みたいで結構高い感じなので御嶽かと思うが山容は明らかに違う。
 林内のナナカマド、岳樺の黄葉、紅葉が見え始めた。鮮やかさは今一であるがコメツガの鬱蒼とした暗い森にはいい。高度を上げると傾斜も緩む。2244.69mの標高らしい所には赤いペンキの標石が埋まる。それは旧宮内省の御料局の標石であろう。8の字に見えるが呂のデザイン文字であろう。ここは戦前御料林だったのだ。森林鉄道はその伐採材の運搬に活躍したのだろう。
 樹木も低くなり、間からは遠望がきく。なぞの独立峰はなんと木曽駒であった。東西から見ると長い連峰であるが北からは木曽駒が統べる峰一つに見える。新しい発見である。だから、2600mもあるのに茶臼山などは木曽駒につながる尾根上のコブにしか見えないのだろう。
 登山道は段々に緩くなり、コメツガの天然遷移らしい枯れた木の立つところも通過。右に朝日村の避難小屋を見ると山頂は近い。4つの祠と展望盤があつ山頂に着いた。10時である。2時間ジャスト。踏み跡を西に行くと電波反射板の建つ広場に出た。そこからは中部山岳の展望台というにふさわしい眺めが得られた。
 鹿島槍、常念岳、大天井岳、槍穂高連峰、笠ヶ岳、焼岳、霞沢岳、乗鞍岳、御嶽などが一望の下に広がる。初めての人は絶句する。素晴らしい展望である。よく見ていると北穂に見えたのは前穂であった。前穂は奥穂に重なって見えていたのだ。約1時間は堪能した。
 山頂に戻って11時5分、昼飯も食べずに下山開始。しばらくで避難小屋への小道を分け入り、小屋に寄るが閉鎖中。ついでに高層湿原の権現の庭にも下ってみた。秋の湿原である。矮小化した樹木が侵入して尾瀬のようなイメージでなく、日本庭園のようだ。
 小さな白い玉を取ってみるとサロメチールの臭いがした。これはシラタマノキ(ツツジ科白玉の木)である。道草を堪能して登山道に戻った。後は又ゆっくりと森林などを眺めながら下った。サルオガセはここでも結構ある。途中、パラパラと音がして霙か霰が降ってきた。秋の亜高山の山はこれだから怖い。
 登山口へは13時過ぎに着いた。霙は小雨に変わった。さっさと身支度を急いだ。再び慎重に林道を走った。昨夜は暗くて分からなかったダム湖を見ながら無事、薮原に着いて鍵を返還した。
 帰りは久々にR19を走る。福島のとちの屋のそばを賞味した。皆さん旨いといって満足気であった。
 往きは240Km余り、帰りは170Kmで合計410Kmとなった。大型トラックがぶんぶん飛ばす魔のR19であるがこの経済性は捨てがたい。それに味な店もあるし。

金草岳・シモットノダン(谷)を溯る2008年10月13日

 10/11(土)は参加メンバー3人とも休日が揃い、午後4時過ぎには出発できた。目指すは徳山湖の奥、アジミ谷の入口付近。ここでテント泊。夕餉は久々にWリーダーがコンロに炭を起こし、生秋刀魚を焼いてくれた。豪華な宴会を愉しんだ。11日は雨の予報であったが幸いに空はよく晴れてオリオン座も見える。ぎっしり星が詰まっている感じである。星で明るいので星月夜になった。
 10/12は午前4時に起き、冠山峠に向う。峠道には冠山の天辺に太陽が乗っかる瞬間を待っていたカメラマンが居た。峠には車が2台P。車中泊のようだ。
 10/12(日)6:30.冠山峠に車を置いて出発する。峠の地蔵に手を合わせて金草岳への登山道を歩く。布滝の頭の山腹を横断して檜尾峠を目指す。7:35峠に着く。部子山銀杏峰がよく見える。峠からは楢俣への古い道を下る。高い所はヤブが絡んで歩きにくい。もう自然に帰っていくのかと思うが下るに従い、歩きやすくなる。素晴らしいブナ林が見られる。傾斜は段々強くなり、フィックスロープが垂れ下がるところに来ると峠道も終りに近い。朽ちた道標が落ちている杉林に着く。谷の徒渉点はすぐだった。
 9:44.楢俣出合に着く。薄い踏み跡が林道へ続いている。谷通しに下ると林道の橋があり、そこで添又谷と落ち合っている。地形図で確認してシモットノダンの遡行を開始。しばらくはほぼ平流である。一つ目の堰堤を越え、二つ目の堰堤で白倉谷が落ち合ってくる。ここからは大きな枝沢はない。ミニゴルジュを突破して、3:55にいいビバークサイトを見つける。ここでツエルトを張り、再び焚き火を愉しんだ。周囲はブナ林である。岐阜県徳山側の自然は破壊されたがここではまだ自然の豊かな森が残されている。但し、魚影は少ない。シーズンは終り釣り荒らされた感じがした。
 10/13(月)午後5時過ぎに起きる。夕べは焚き火のお陰で温まり、ぐっすり眠れた。簡単な食事を済ませて、ツエルトをたたみ6:50出発。かなり平流が続いたがこのまま終ることはないはずだ、と緊張感を保つのに精一杯である。期待したゴルジュは標高750m付近から始まった。滝は大きくはないが周囲は岩盤であり、釜があり、取り付く島がないので右のガリーを高巻した。40mのザイル一杯の高さ(20m)を懸垂下降する。再び、谷に戻るがその先は特別困難さはなく無事核心部は突破できた。
 途中で流木に一杯生えるキノコを見つけた。これが念願だった天然のなめこである。採集してスーパーバッグに入れた。天然のきのこは怖いということもあってW君もF君もまだ疑心暗鬼である。しかし、これは触ってもナメコに間違いない。以前に白峰村で天然のものを購入したこともあって自信を持って採集できた。
 丸葉岳蕗の大きな葉が谷一杯を埋める。花は終っているがそれにしても大きな葉は蕗に良く似ている。しかし、分類学ではキク科という。
 地形図上の二又に来た。左に振って水脈細るシモットノダンの尽きるところまで溯った。その後はヤブコギで登山道に出た。ヤブコギ時間は約30分もなく思ったよりも少ない。白倉岳よりにでたので若干下って金草岳に登り返した。
 12:50.登頂。この山の展望のよさはよく知られるところである。今日は徳山湖が見下ろせた。やや霞んでいるがその奥には小津三山が意外なほどの大きさで並んでいた。ドーム型は蕎麦粒山である。やがて、福井の若者の4人グループが登ってきたので歓談した。28歳の青年は最近始めたばかりらしい。すべてが新鮮な驚きであろう。お互いに記念写真を撮ってから13:50山頂を辞した。山頂滞在は一時間もいただろう。14:40桧尾峠で再び休憩。15:10峠を出発し、一旦鞍部に下ってアップダウンを繰り返しながら冠山峠に着いた。16:15であった。
 帰りはまた藤橋の湯に浸かって汗を流した。いで湯はありがたいものである。

飛騨・オサンババに登る2008年10月25日

 10/24の夜、Kさん宅を出発。郡上ICから順調に走ってめいほうスキー場の手前から山中峠の入口を確認して付近でテントビバーク。11時30分であった。遠くから鹿の鳴き声が聞こえる秋らしい雰囲気と満天の夜空であった。
 10/25(土)は5時30分起床、6時過ぎテントサイトを出発。山中峠までいいとも悪いともいえない林道をゆっくり走る。まだ薄暗いが周囲は紅葉の最盛期のようだ。6時40分、山中峠を出発して急な取り付を登る。前日までの雨で濡れて滑りやすい。笹に捕まってゆっくり登る。周囲は岳樺の原生林らしい大木の疎林であり、紅葉は盛りであった。
 このまま切り開きがどこまでも続いて欲しいと願いつつ登る。右は荘川村(現在は飛騨市)で唐松林である。いくらも登らずにスキー場の一角に飛び出した。一気に展望が開かれる。ゲレンデの隅を登るが登るにつれて北アルプスの剣岳、槍穂高、乗鞍岳、御嶽、恵那山まで超展望のいいスキー場である。
 それぞれのメンバーもデジカメを出して歩くのを留まりながら山座同定と撮影に余念がない。スキー場内の残された樹林も紅葉が素晴らしい。スキー場の頂上に着いた。ここまで約1時間のハイキングだった。ここからは再び稜線(日本分水嶺)の切開きに戻る。露か雨か、濡れそうなので雨具を着用した。笹はよく刈り払われて歩きやすい。
 右にオサンババを眺めながら1583mの4等三角点に着いた。点名を山中峠という。山中峠から登ったのに山中峠に着いたということは一歩も歩いていないのと同じであるが・・・。
 三角点からは烏帽子岳もよく見える。ここからは下りになり、切開きはこの直下で留まっていた。身長を越える奥美濃名物のネマガリダケの密生が凄いのでヤブコギは困難であった。やむなく断念して引き返す。
 思えば昭和59年6月に三井の森から烏帽子岳を目指して入山し、林道の廃道を辿るも失敗して引き返したこと、昭和62年6月7日に山中峠から烏帽子岳に登頂して雪辱を果たした。そのとき間違えて入ったのがオサンババへの分れ道であった。当時の記録にはただ1631m三角点のみでまだオサンババなる山名は認識していなかったようだ。周囲は緑一色だったのでグリーンシャワーという表現で書いている。その後はスキーで両方とも登山した。一色国際からもスキーで登山した。明宝村は当時は明方村だったし、めいほうスキー場の開設は昭和63年のことだから古い話である。
 今回は残念ながら紅葉のオサンババには達し得なかった。山中峠に戻ってもまだたっぷり時間があるのでせせらぎ街道から傘山へ転進した。せせらぎ街道は紅葉見物のドライブで大賑わいであった。両岸とも錦秋に彩られていた。
 西ウレ峠を越えて林道へ左折するとここも素晴らしい紅葉であった。かつて登山した山であるが秋はまた別物であると思った。3番目の鉄塔から白山や北アルプスがより近い感じで眺められた。
 西ウレ峠からは西水源山を行くことになったが私はパスして紅葉の撮影にいそしんだ。全員揃ってKさんも珍しく温泉入湯を所望するので明宝の湯に入湯。錦秋の飛騨を堪能して帰名した。

地形図のネット活用法について2008年10月26日

 地形図一枚の値段は今いくらですか。
 戦前の寺田寅彦随筆集(岩波文庫)にはコーヒー1杯の値段と書かれていました。今はネットで検索しますと一枚270円と分かります。書店へ買いに行く交通費込みだと私の場合丸善往復で520円ですので高いものになります。
 昨日仲間にネット活用を勧めたら今はもう右クリックで保存できず、したがってプリントが出来ないとのことでした。
 しかし、方法はあります。電子国土ポータルです。以下に説明しますので活用して下さい。
 先ずトップ画面に
①Googleの検索窓を作成しておきます。
②Googleの検索窓に「地図閲覧サービス」と入力します。検索をクリックします。
③すると
地図閲覧サービス(ウォッちず)
システムの移行作業は、立体視サービスを除き終了しました。
の画面がでてきますので、何度も継続的に利用することを考えて左の「お気に入り」の追加に登録します。
④次は「ウォッちず(地図検索画面へ)」をクリック
⑤次は「索引図による検索」をクリック

⑥次は具体的な検索作業に入るために20万図の地勢図に名前をクリックします。例えばオサンババに登るとします。その地勢図は「飯田」なので飯田をクリック。次は飯田の中の5万図と更に細分化された2.5万図の図名が出ます。2.5万図は更に4分の1に細分化されていますので
5万図 萩原を選択→2.5万図  飛騨大原を選択し左下にマウスのポインターを当てると手のマークが出てクリック

⑦するとめいほうスキー場辺りの2.5万図が現れます。これでは大きいので右上のマイナス記号をクリック
1センチ500mの縮尺に縮まり、より全体が分かります。ポインターをクリックしたまま欲しい画面までずらします。オサンババは烏帽子岳1625mの北ですから下へずらします。すると1631mの三角点に山中山と*肩聳体の印刷がされています。ここが今の山名です。オサンババは俗称です。山中峠を含めた全体を中心までマウスでクリックしてずらします。

*肩聳体(けんしょうたい)とは地形図の山名と川名に使われる字体で右に傾いています。地名や峠名は直立していますので注意して下さい。かつて稲武町に押山という地名がありましたがあつた労山が地名と山名を混同して山名として扱っていました。最新の豊田市合併後は押山町になり地名が変わり、三角点の隣に印刷されていた押山は消えました。地名はよく変わりますが山名が変わることは滅多にありません。

⑧これまではこの状態で右クリックしてピクチャに保存して印刷が可能でした。今は出来ません。上にある「電子国土Webシステムでこの地図を見る 」をクリック

⑨すると500mの縮尺のままの地形図が現れます。これでも印刷は出来ますが右クリックすると800mの縮尺に変わります。更に右クリックすると1kmになりますが等高線が消えますので800mのままでプリントをクリック。印刷されます。烏帽子岳も欲しい場合は枠の上の緑の△印を操作して下向きの▼をクリックして移動します。再びプリントすればいい訳です。全く別の地域の印刷は④に戻ります。

次はマニア向けですが三角点の点名を調べるネット活用方法です。
上の②までは同じです。
②の窓に国土地理院と入力。トップ画面の左下の基準点測地観測データをクリック
③基準点成果閲覧をクリック
④基準点検索窓口をクリック
⑤同意するをクリック
⑥すると日本地図が現れますので例として「豊橋」をクリックし、次は根羽をクリック

⑦5万図根羽の画面がでますので押山にマウスポインターを当てます。すると点名は押山で標高も出てきました。どうもあつた労山は「点の記」を見て山名としたようです。立野は細野でした。先ほどのオサンババを見てみます。左上のメインメニューの日本地図をクリックすると検索画面へ。

⑧飯田→飛騨萩原とクリック。すると5万図の画面に◎や○に一回り小さい○もでます。凡例は右にあります。○にマウスポインターを当てますと⇒に変わり、点名などが出ます。我々が到達したのは1583mの4等三角点の山中峠と分かりました。何と山中峠から登ったのに山中峠の三角点に着いたのでした。登っても山中峠とは可笑しいですね。笑い
肝心のオサンババは寺河戸という点名でした。烏帽子岳は奥住でした。傘山は六厩(むまい)でした。
 点名を知ると色々なことが分かります。愛知の名山・鳳来寺山は瑠璃山です。これの方がいいですね。

 野口悠紀男の近刊『超「超」整理法』(講談社)のサブタイトル「分類するな。検索せよ」は現実になった。地図は買うものから検索して眺めてプリントする時代になったのだ。但し、検索語を知らないと敷居は高い。広範で豊富な知識が検索力を高める。
 地形図の整理は登山入門の中に大抵書かれているがもう不要になりそうだ。以上のネットを活用することで地形図や点の記が自分のPCで閲覧可能になっている。
 ほぼ全国の山の地形図の整理は6段のレターケースに納めているが既にパンクしてはみ出している。オンライン上にある地形図のレターケースなら物理的な悩みはない。

池内紀『ひとつとなりの山』を読む2008年10月26日

 ガンで苦しむU氏をN氏と共にお見舞いしてN氏を自宅まで送ってからしばらくご無沙汰の書店に寄った。
 新書コーナーを巡ると表題の本が目に留まった。集英社新書の新刊であった。著者はちょくちょく山岳雑誌でも見かける程度でマークしていた人ではない。本職はドイツ文学者で1940年生まれというから68歳になる。それゆえに「人気の山の傍らの、静かな山」というサブタイトルが踊る。もう盛りを過ぎた著者の最後の山の本だそうだ。
 はじめにの文で「ひとつとなりがいい。人気のある山、よく知られたひとつとなりの山。『日本百名山』などに入っていないお山。」と書き出す。そんな山を20山選定したというが目次を見ると大雪山、早池峰山、剣山、開門岳などは『日本百名山』の中に入る。と突っ込みたくなるが八海山の項は面白かった。『日本山嶽志』の高頭式の話を絡めてある点。但し、弥彦山を佐渡としているのはいかがなものか。とまたまた突っ込みたくなる。
 しかし、文の運びは無理がなく滑らかで文筆を業とするプロだけはある。定年後は是非こんな目的にとらわれない山歩きを楽しみたいものである。