奥飛騨・大洞山に登る2008年05月04日

 5/3の午前6時30分出発。7時にNさんと合流した。今回は尾崎山の余韻も去らぬうちに再び奥飛騨の山旅である。目指すは六谷山であったが役場に問い合わせると茂住峠までは災害復旧の工事のために車は登れないことが分かった。急遽神岡町の二十五山と高原川を隔てて対岸に聳える大洞山に変更した。
 ところが東海北陸道は美並ICから一車線になるため交通集中で停止してしまったため美並ICで降りた。R156を少し走り、県道に右折。典型的な山岳路を走って郡上市と飛騨金山を結ぶR256に出た。そこから岩屋ダム湖畔の道を経てせせらぎ街道に出て高山市を目指した。そして神岡町に着いたのは15時過ぎとなり、こんなこともあろうと予め用意しておいた観音山803mに林道を走行して徒歩15分で登山。幸い天気は良くて笠ヶ岳など北アルプスが良く見えた。肝心の観音様は一体も拝めなかったが何とか1山を登った。
 その後「すみや旅館」に投宿。すみやの名前で連想が働き主人に聞くと三河の出身であった。神谷、深谷、角谷は三河に多い姓である。夕食にも山海の珍味が出て美味しかった。食べ物はここではもう北陸圏である。山がちの土地柄なのに新鮮な刺身もでて嬉しかった。
 5/4は5/3に続き好天であった。朝曇りはいつしか晴れて暑い日が予想された。宿は6時半に朝食を依頼。7時前に出発できた。R41へ一旦出て大津神社を探した。富山側へトンネルを潜ってすぐのところに大津神社境内に入る道が見つかった。
 Pに車を置き、7:20、往来の多いR41を渡って大洞山側の登山口の看板に従って入山。10/10とある。杉の林の中を登り鉄塔を経て7:40御嶽神社に着く。約20分。境内を左へ林道を歩くと7:43大洞山9/10の看板が掲げてある。しばらく行くとここにも鉄塔がある。Nさんは以前来た際ここで鉄塔の巡視路に間違って入ったらしい。2時間も彷徨してから気づいて戻ったが時間切れで敗退した無念の山であった。
 Nさんは10年位前の『山の本』のバックナンバーに掲載されたのですぐ行ったからもうかなり年月が経過した。正しい道を確認して登る。この辺りから杉の植林がなくなり全体にコナラなどの雑木林の中の急な登山道をぐんぐん高度を上げる。ヤマツツジの花が咲く。むせ返るような新緑に包まれている。左へ左へと山腹を登りながら結局は左側の浅い谷に沿う急な尾根に取り付いた。
 尾根にはアカマツが茂る。急な斜面に付けられたステップに足を乗せながら急上昇していく感じがした。ジグザグを殆ど切らないから前を行く人の足を見ているくらいである。8:40大洞天狗の岩棚に着いた。7/10とあり逆算すると3合目であり小休止した。
 なおも急登を続けるとゴヨウマツが続く尾根になり、地形図で等高線が緩む辺りから尾根がはっきりしてきた。右の谷はミズナラの群落がある。瑞々しい新緑に感嘆の声をあげる。頭上からはクマゲラ?のドラミングが盛んに聞こえる。深山の趣きである。
 先ほどから辛夷の花を見るようになったが段々増えてきた。樹林の間からは白銀に輝く北アルプスが見える。9:45尾根は一段と緩み、足元にはイワウチワが咲き誇る群生地になった。尾崎山と同じである。ここは5/10とあり五合目に中る。御嶽乗鞍岳の展望台と看板がありしばし展望に見入る。更に尾根を登ると「町木ヒメコ通り」の看板を見た。ヒメコとはヒメコマツか。(帰宅後検索するとゴヨウマツの別名と分かった)
 10:13.「4/10地点」では平になった。細幹のブナの群落が新芽を吹く壮観な眺めに感動した。聞きしに優るブナの純林である。百千鳥の季語で一句ひねりたくなるほど小鳥も盛んに囀る。明るい日差しがぶな林に差し込んで一斉に春を迎えたのである。
 「すみや旅館」の女将が知らないうちに新緑になった、と旅館の前から見上げた辺りである。つい最近までまだセピア色だったのだろう。10:40、北アルプス展望台に着いた。尾根の平らな一角を伐採して見通しがいい。残雪もあった。立派な山容の黒部五郎岳、巨鯨のような薬師岳が白い。剣岳は黒い岩を剥き出しに聳える。笠ヶ岳は特に立派に見える。左に見える槍ヶ岳を従えているかのようだ。槍が格下に見える。
 尾根の撓みを登り返す。今までの細幹のブナから山頂部は太いブナが揃う原生林である。道には熊笹が茂り踏み跡もはっきりしない。今まで見なかった赤テープも出てきてなんとか迷わずに行ける。11:00に登頂。1348mの看板と3等三角点がある。
 右に「北ア、高原郷の展望台」のプレートがあり笹の中の踏み跡に導かれて1分で展望のいいところに下った。木の間が広く空いている。特に笠ヶ岳が素晴らしい。山頂の全部が岐阜県になるので県内最高峰なのである。御嶽もいい。継母岳から継子岳まで広い裾野を見せて乗鞍岳と競争するかのようだ。御嶽は雄大、乗鞍は優美な山容である。ここでは剣が見えにくい以外は休み場として最高である。
 高原郷というのは神岡の町のことであろう。赤、青の屋根の色の家並が一杯に並ぶ。高原川の氾濫が作った沖積平野であろう。
 12:00.下山する。往路を辿る。13:20、天狗の岩棚着。13:44頃町のアナウンスが聞こえてきた。「◎×センターで熊が目撃されたので注意する」旨の放送であった。14:009/10地点通過。14:15、大津神社着。すぐに湧き水を飲んで喉を潤す。大洞山の湧き水らしい。
 R41に出て割石温泉に行く。いい湯である。400円と安いのも魅力。まだ何か物足りないので神岡の町を通過する。橋の近くにも湧き水の飲み場があった。ただしPがない。そのままR41、県道を走り清見ICから帰名した。しかし時間的にも日からも渋滞のはずはないのに渋滞があったので高鷲ICで出て白鳥から長良川右岸の県道を走った。八幡と美並間の問題区間を解消しない限り渋滞は続く。結局久々にR156から美濃ICまで走り高速に入りなおした。

前田普羅・句集「飛騨紬」鑑賞2008年05月07日

 解題から。句集「飛騨紬」は昭和22年6月30日刊行。飛騨地方に関係ある215句を四季季題別に収録。昭和2年著者44歳の頃より戦前の作品を集める。普羅が飛騨に関心をよせたのは少年時代に読んだ志賀重昂の『日本風景論』(明治27年)を読んでからという。
 本格的に飛騨を踏破したのは昭和4年、報知新聞社を退社してからであった、という。その後普羅は折にふれて飛騨に遊び、その風土と生活に肌を接して作品を成した。と沢木欣一が紹介。
 『春寒浅間山』『能登蒼し』と三部作を構成する。沢木は『春寒浅間山』の紹介も書いている。中でも「自然を愛するという以前にまづ地貌を愛する」「一つ一つの地塊が異なる如く、地貌の性格も又異ならざるを得なかった。空の色も花も色をたがえざるを得なかった。「事も無げに、自然と称へて一塊又一塊の自然を同一視することが出来ない」。
 旅行者の眼でなく、生活する者の温もりのある心で飛騨の風土と一体になって詠っているところに意義がある、と丁寧な解説ぶりである。沢木欣一も富山県出身であり東大国文学出の俳人である。
 序文は紀行文「奥飛騨の春」の序を転用した。中でも少年時代に『日本風景論』を読んだというのは興味深い。年譜によると明治18年2月18日生まれ。明治30年頃両親と別れ、親類に寄食する。後に東京、神田開成中学に通う。とあるからこの頃に読んだだろうか。『日本風景論』は明治27年に発売されるとたちまちベストセラーになった。発売されて3年後のことであるから可能性は高い。
 親の愛に飢えて寂しい境涯の人と見ることもできるが自然により深く傾倒することで癒されたであろう。植物の牧野富太郎博士も孤独をむしろ愛した人だった。風土の自然に傾倒することで孤独は癒されていたのであろう。
 
   雪解くる音絶え星座あがりけり

鑑賞:飛騨の夜は冷え込む。気温格差が大きい。昼間は雪が解けて流れていた小沢も凍結が始まると流れる音も消える。そして星座があがる、というのである。人工的な照明等なかった時代は美しい夜空であっただろう。

   汽車たつや四方の雪解にこだまして

鑑賞:高山本線の全通は昭和8年だった。昭和4年にようやく富山猪谷間が開通している。つまり高山線(当時は飛越線)の開通とともに飛騨へ入り始めたのである。谷間を行くSLの汽笛が雪解の山間にこだまする、というのだ。わくわくした気分の普羅の様子も伝わるではないか。たつやは発つやである。

   雪つけし飛騨の国見ゆ春の夕

鑑賞:すでに名作としてよくとられる一句である。国とはすなわち山野のことであろう。この5月3日は4時過ぎになって観音山から白い笠ヶ岳など北アルプスを見たがまさにこの句のとおりであった。
 昭和5年に発表されたらしいが紀行文「奥飛騨の春」の俳句版であろうか。疑問は奥飛騨の春としているが実は5月20日のことである。5月6日に立夏となるから本来は夏の季語で表現されるべきであった。ただし、雪深い山国飛騨は平野部の季語とずれがあるので春の季語で創作したかに思える。

   乗鞍のかなた春星かぎりなし

鑑賞:神岡町の円城寺に句碑があった。2回ほど訪ねた。文句なしに名句である。5月3日は春星を見るチャンスであったが長旅で疲れて眠ってしまい神岡の夜空を堪能できなかったのは残念。
 普羅は神岡高山の人たちに俳句指導で度々神岡に行った。当時のことで日帰りはならず、神岡に泊まって飛騨の夜を味わったことだろう。
  
   春寒し人熊笹の中を行く

鑑賞:5月4日は大洞山の熊笹の中を歩いたが晩春のこととて暑かった。若干は雪残る4月上旬の句であろう。この句も昭和5年の発表という。ならば八尾から白川村、河合村を歩いた「奥飛騨の春」の旅で創作かもしれない。 

    雪つけて飛騨の春山南向き

鑑賞:これも素直に解釈すると北の富山県八尾から来て、南の方角の飛騨の山国に入って山を見れば南向きではある。例えば白木峰など。

    行く春や旅人憩う栃のかげ

鑑賞:以前に水無山や金剛堂山に行った際、水無の廃村に大きな栃が残っていた。花が咲いていたと記憶している。ああこれが栃の花かと思ったものだった。この句は「奥飛騨の春」の紀行文に挿入されている。文中からは天生峠の一角と見られる。

    花桐や重ね伏せたる一位笠

鑑賞:この句も「奥飛騨の春」に挿入されている。天生峠付近の山清水で二人の杣が竹筒に水を満たしていることが描写されている。桐の花が咲いている側で杣が水を飲んでいる。一位笠は杣のものであろう。それが重なっている情景。
  
    藤さげて大洞山のあらし哉

鑑賞:岐阜県には洞の地名が多いし山名も多い。大洞山というだけでは一般の人には分からない。しかし飛騨に限定するなら神岡の裏山的な存在の大洞山であろう。神岡は俳句指導で来ることが多かった思う。
 その解釈であるがあらしがポイント。あらしとは何か。嵐か。否。アラシとは岩科小一郎著『山ことば 辞典』(復刻版)によれば沢の小なるものにして傾斜烈しく平時多くは水なきもの。山の急 斜面の上から木材などを投げ下ろす場所、又はそうする場所に生じた溝なのである。藤を手折って下げて急傾斜の道(あらし)を歩いたのだろうか。
 もう一つは句集では藤の小題で6句並べられる。同時期かは不明であるが前後の句が説明するでもない。風雨の夜明け、尾越の声の遠ざかる、雨風の夜、落花のふじなど。単純に藤があらしに吹かれて落花しかかっている、と解釈もできる。そうかも知れない。
   
   紺青の乗鞍の上に囀れり

鑑賞:この句もよく知られた名句。大洞山でも百千鳥が奏でた。普羅はよほど乗鞍が好きと見える。紺青とは空の色か。残雪のたっぷりある白い乗鞍岳の上に囀るとは。
 神岡町の大洞山での体験から。登山中に乗鞍、御嶽展望台があって休む。そして展望を愉しむのであるが尾根の樹林帯であるから天上から小鳥のさえずりが聞こえるのである。遥かに望む乗鞍の上の空は青空であり、さえずりはあたかも乗鞍の上であるかのごとく思える、というのだ。

前田普羅「飛騨紬」と「奥飛騨の春」のトリック2008年05月08日

 「奥飛騨の春」は越中八尾から飛越国境近辺の山村を歩いて牛首峠を越えて飛騨白川村に入り、天生峠を越えて飛騨に入った紀行である。そして再び峠越えで八尾に戻った4日ほどの山旅であった。
 文中には5月20日に飛騨入り、と書かれている。この旅で得た句作は春の俳句にしてある。つまり初夏の飛騨なのであった。なぜ春と題したか。そこには芭蕉の「奥の細道」への意識があるような気がした。
 「奥の細道」は陰暦3月27に出立する。これは陽暦の5月16日である。春なのに俳句は初夏の景物である。「奥飛騨の春」の桐の花の俳句も実は夏の季語であるが春に編集してある。残雪、雪解も春の季語であるが初夏の句作に用いられている。陰暦の意識としか思えない。
 山国と平地のずれは致し方ない。いつも悩むことである。北陸の山では5月中旬でもカタクリの花盛りである。どう詠むかである。陰暦なら矛盾はないわけだ。

八事坂道散歩2008年05月11日

 昨日は半日休養、午後は雑用、原稿書きして夕方は外出。昨夜は雨の中を山岳会の総会に出席。高所医学とエベレスト登山実践の話がある。後は懇親会で過ごす。
 夜食並みに食べたので朝、昼とも抜く。原稿仕上げた後天気も回復し外出。久々に八事の坂を歩いて登る。まず、塩竃口から石屋坂を登り、八事交差点で右折、中京大学の前を通過して後わき道に入る。八事興正寺の裏道であり、八事山散歩コースの看板もあった。左折を繰り返すうちに結局杁中に下ってしまった。
 そこから今池に向って歩く。ちくさ正文館で本の物色。何もないのでまた栄のIBS石井スポーツに向って歩く。預けてあった山スキー用ストックを受け取る。丸善で地形図6枚を購入。その後上前津に向かい歩く。
 以前から一度は食べたかった「矢場とん」本店に入る。生ビールと鉄板とんかつを注文。みそだれであっさり仕上げてある。但し、鉄板が熱いので覚めにくいが折角の生キャベツがみそだれと熱で台なしになる。キャベツだけはぱりぱりで食べたかった。店頭なので調理場が見えるがフライヤーの油が泡立っていた。いろいろこだわりの店らしいが油の風味がなくなるほど使い切れば酸化してよろしくない気がする。油の新鮮さは保てないものかな。
 上前津から地下鉄で帰宅。天白川を渡ると夕焼けがきれいに見えた。気圧の谷が消えて明日は晴れる兆し。少し肌寒い風が吹く。西風に天白川の川面が逆白波になる。夕焼けに向うが如く流れる流れが美しい。河川敷は青葉一色である。
   天白の青葉の中を流れけり    拙作
   夕焼けの一幅の絵を観る如し   拙作

春の俳句集成2008年05月14日

 春泥や鹿のヌタ場の水たまり

 アカヤシオ咲く深山に来たりけり

 山腹を染むべく咲きしアカヤシオ

 風光る竜馬ヶ原の森の中

 春の暮道迷ふ人現わるる

 耕しのかなたに聳ゆ尾崎山

 頂に着きて芽吹きの始まれリ

 今芽吹く頂上のブナ林

 雪残る笠ヶ岳見ゆ飛騨の国

 暮遅し近くに巨き薬師岳

 春泥に尻餅をつく登山道

 タムシバの大きな花に見とれけり

 遅遅として進まぬ山路イワウチワ

 稀人をもてなすごとく囀れり

 百千鳥不意を打つごとドラミング

 人影を見ることもなし桃の花

 ヒメコマツ並ぶ尾根路やイワウチワ

北アルプス・白馬大雪渓山スキー納め2008年05月19日

 5/17夜8時、W君と合流して八事から出発。買い物後9時に名古屋ICから高速に入る。12時着、12時30分。梓川SAで車中泊。
 5/18朝3時30分起床、4時出発。豊科ICを出て白馬に向った。ぼんやり見える北アルプスの山々である。昨年4月半ばには八方尾根から唐松岳をやって成功した。今年も北アの山に手応えを見いだしたいW君の執念の計画である。御嶽の尺ナンゾ谷滑降だけでは気が治まらないらしい。
 登山口の猿倉までは細い道を走る。一度、夏に来ているがもう記憶はない。ブナの新緑がまぶしい。ドライブだけでも素晴らしい景観である。雪は全くないがカーブがきつくなって高度を上げると少しは残雪が見られた。駐車場にあっけなく到着したがざっと60%程度の車で埋まる。
 一角に停めて準備。後からも続々来る。6時10分、Pに続く残雪のある林道をスキーを担いで歩く。九十九折れの林道を登ると猿倉への道があり、コンクリートの碑もあった。すぐ先でスキーにシールを着けて雪上を歩く。前方には雪に埋まった谷が見えた。先へ行くと大雪渓に下る標がありそれに従って滑降した。いよいよ本谷の登行である。
 大というだけあってかなり広い。先をあるく人も良く見える。標高1500m近辺では緩斜面があり、大休止した。前夜発と仕事の疲れでエンジンのかかりが悪い。思い切って仮眠を提案したらあっさり承諾。板を反対にして銀マットを敷いて10分ほど寝た。何とかすっきりしてきた。
 周囲では小さな雪崩が頻発する中では安眠は出来ないが谷が狭くなって、急斜面になるともう行くしかない。これまではあまり高度感がない斜面だったがジグザグを切っていくとグングン高度が上がっていく。先行グループはネブカ平への急登を始めている。
 しかし、やはり調子が出ない。W君は先回以来病持ちになった。今回も危ぶんだが執念も病には勝てない。長丁場になることを懸念して撤退を決めた。11時20分滑降開始。
 滑降し始めると小石に引っかかっていやな感じであった。目に見えない小さな小石が雪面に埋まっているのだ。だましだまし下って林道に上がった。スキーを外した地点まで約45分だった。
 Pに戻ってスキー納めは無事終った。帰りは八方温泉に入湯。500円、天然単純泉、掛け流し、加温なし、という温泉の原風景を今に保つ。さわやかな風が心地よい。帰りがけには道路沿いの蕎麦屋に入った。「蕎麦処 りき」。0261-85-4311。営業は11:30から14:00と17:30から20:00の2パターン。蕎麦粉は100%白馬産を謳う。原料がなくなったら営業もしないそうだ。食べたのは笊蕎麦であるが4ランクあるうち上から2番目の鑓のランク。1200円。大食漢の私にも充分。店内からはすっかり雪が消えた八方尾根スキー場の虎刈りのゲレンデが見渡せた。
 大町市では久々に山岳博物館に寄った。雪形をテーマの展示やDVDの放映が見られた。初めてのW君も喜んだ。博物館を出るともう後は帰るのみ。山スキー納めの1日でした。
 30年前若い人中心の山岳会に入れてもらい、皮製の登山靴を履き、ヨチヨチ歩きから始めた山スキーである。シールは取り付けタイプの不便な代物だった。スキー板、山スキーブーツは更新してきたがストックは藤製のリング付きを愛用していたが傷みが激しいので遂に更新した。今日使ってみて驚くほど軽い。これほどとは。
 これまでの30年間こんなに充実した1年は余り記憶がない。交通アクセスが格段に良くなり、スキーの道具も革命的に良くなった。週休二日でなくても驚くほど行動範囲が広がった。そのお蔭である。しかし、何より大切なのは同行してくれる友人の存在である。何時の時代もそれは変わらない。

山スキー納めの俳句2008年05月22日

     白馬大雪渓をスキーで登る

 初夏や大雪渓を風わたる

 かっこうや雪渓に人列をなす

 雪渓に雪崩が運ぶ岩散りぬ

 雪渓の穴の中こそ水流れ

 五月とて白馬にまだフキノトウ

 猿倉の登山小屋もう雪は見ず

 小さめの水芭蕉の散りかけし

 虎刈りの青葉若葉のスキー場

 温泉を出れば白馬の風薫る

 風薫る白馬産なる蕎麦を食ふ

鈴鹿・元越谷の沢初めでスタート2008年05月27日

夢かなえ荘内の前田普羅展示室
 5/25(日)の天気予報は降雨率80%であった。沢初めは今年最初の儀式のようなものだから形だけでも沢に入っておきたい。名古屋を出発するときから雨であったがどうせ濡れるのは覚悟の上、予報では午後からからりと晴れそうであったのでGOとなった。
 こんな日でも御在所岳の登山口には駐車された車がある。さすがは鈴鹿である。武平峠を越えると霧のションベンみたいに降っている。粘りつくような梅雨時のような雨である。スカイラインを下がるとゲート跡付近の東屋が撤去されていた。前夜発で行くときは重宝な芝生の仮眠所であったが管理のための経費節減の処置だろうか。
 元越谷への橋を渡って垂れ下がった落葉樹のトンネルをこすりながらゲートまでソロソロと走る。支度を始めると沢スパッツを忘れたことに気づいた。蛭対策にもいいのに。軍手も切らしていた。本格シーズンに向けてこんな忘れ物をしないためにもチエックの意義もあるのだ。
 後のドアを開けるとすぐにW君の足に蛭が襲い掛かってきた。早速ヤマビルのご挨拶である。こんな日は花崗岩であろうと何だろうと蛭は襲ってくる。支度後入渓地まで歩く。谷の流れは多めであるが濁流でもない。山には藤の花とタニウツギが至る所に咲いていた。
 いつもの所から入るとヒエーと叫ぶほど水が冷たい。今日は沢スパッツをしていないので余計に冷たい。手慣れたルートを行く。流れを横切る際に多少抵抗が強い感じである。水には落ち葉が多く混じっていた。やや笹濁りの感じである。
 いつもの乗越しで新しいザイルをおろして懸垂下降の練習だ。深い淵はいつもは泳ぐが今日は高巻きになる。いよいよ大滝が近づいてきた。水しぶきが凄い。辛うじて左岸の高巻ルートは確保できるが滝上のルンゼ、スラブ、ナメが水に浸かって足場がなさそうと見通しを相談した。普段でも草や苔が着かず、大水では完全に洗われているだろう。ここで撤退だ。
 少し戻って左岸の殆ど水のない小谷を遡って林道に上がった。雨はあがっており、そこで昼食とした。小さなヤマビルが1匹手に触れた。もしやと思って沢靴下をチエックすると1匹食いついていた。ああ、ここにも居たか。今日は大活躍のヤマビル達である。大して献血はしなかったが。
 林道を下って車に戻ってまたスカイラインを帰った。武平峠で変わった雲が覆っているので撮影の為に休む。いい眺めである。下って行くと初めて見る大きな滝に注目した。帰宅してから調べると西多古知谷の50mの大滝と分かった。大雨でも降らないとこうは見えない。普段は単なる崖にしか見えないだろう。
 厚い雨雲の中から降りて平野部のR306号を行く。周囲の田園は麦秋の最中である。実に美しい。R365号になって藤原町鼎に向った。まだ午後間もないので久々に俳人前田普羅が度々訪ねて句会や講演会を催した竜雲禅寺に寄りたかった。交差点から約7kmあり岐阜県境に近くかなり奥が深い山里である。
 近くの老人ホームで問うと親切に掛け合ってくれた。「夢かなえ荘」なる公民館に行った。鼎の地名を掛けた名前に微笑した。管理人は留守だったがたまたま老婦人が数人集まって針仕事をやっていたので中へ入れてもらえたのである。
 普羅の肖像写真、俳句の展示、句碑の拓本、2mはある杉の柾目板に墨で書かれた俳句の写本が展示されていた。和尚の長屋佳山とは親交を結び、泊まっては漢籍を借りたり、俳句を書き付けたりしていたようだ。周囲の学校の先生達を集めて句会や講演も行われたらしい。老婦人の中のTさんが管理人に引き合わせると案内してくれたが不在。Tさんの夫は若い頃句会の世話人兼リーダーだったというので昔話をせがんで弾んだ。そのうち管理人のNさんも合流されて大いに俳句談義の花を咲かせた。三重県では無名に近い存在のせいでこれ以上の顕彰活動は無理らしい。いなべ市となって益々予算的に窮屈らしい。
 昭和50年発刊の岡田日郎『山の俳句歳時記』の中の序に水原秋桜子が「大正時代から昭和時代にかけて、真に山を愛し、名作を多く残したのは、前田普羅氏1人だけ」と賞賛する。『日本風景論』で山に目覚め、近代登山草創期の小島烏水、田部重治の著作で浅間山、甲斐の山や谷、飛騨の山にのめりこんで行った。登山を愛すると共に俳句でも虚子の絶賛で全国にあまねく知られた存在だった。二人にはそんな話をして顕彰にこれ努めて欲しいと激励した。時の立つのも忘れて話に夢中になったので18時を回り19時近くなった。
 桑名に向う途中、いつも寄る中華料理屋「四川」で夕飯とした。今日はマイカーの出足も悪いので空いているR1で帰った。