映画「大学は出たけれど」鑑賞2007年06月01日

松竹蒲田制作。1929年9月6日公開の小津安二郎監督のサイレント映画である。但し上映時間は10分余り。
 公開後の10月25日にニューヨーク大暴落から世界大恐慌になった。このタイミングのよさに驚く。1925年以来株価は2倍に暴騰していた。9月には過熱感から大口投資家が撤退。10月に暴落した。以後6年間下がり続けた。
 この映画は不況下の株高であったが正しく大学を出たけれど就職(就職率30%)が困難な時代を背景に制作された。高田稔主演であるが当時20歳の田中絹代が可愛い婚約者に扮して出演した。田中絹代は1924年に15歳でデビューし、本作は4本目となる。
 わずか10分余りではコメントのしようもない。原作は70分もあったというから見つかったら観たいものである。
 それにこの題名は流行語にもなって現在まで定着した感がある。小津はこのような風刺の効いた言葉を生み出す名人でもあった。「生まれては見たけれど」「落第はしたけれど」など面白い題名がある。

飛騨・傘山 1331mと西水源山(にしうれやま) 1313mに登る2007年06月03日

 今日は先週まで続いた強度の山行の骨休みと予定したがNさんから電話で天気がいいからどこかの山へ行こうとお誘いを受けた。晴登雨読を基本方針とするからには行くことにした。それに梅雨に入れば行きたくても行けない。
 行先は飛騨せせらぎ街道の西ウレ峠(日本分水嶺)からの傘山である。私はノーマークであったがNさんのたっての願いである。調べてみると知人が80歳の仲間の傘寿のお祝いに記念登山していた。Nさんも数年前の記録で傘寿の記念登山の記録を持参していた。要するにその程度の軽い山行である。
 天気が午後から下り坂なので午前5時半にNさん宅に行き、6時前後には名古屋ICに入った。郡上八幡ICまでは約100kmでETC通勤割引ぎりぎりの距離であった。1300円を表示。R472すなわちせせらぎ街道を北上した。西ウレ峠から1km余り下って左折すると林道に入る。小広い所で止める。林道は3方向に分かれるが一番右の方へ北上した。
 林道はすぐに終り、広場から左へは作業道が登って行く。我々は鉄塔巡視路の方へ進む。すると鉄の丈夫な橋を渡る。沢沿いの小道を歩いていくと右へ曲がり急な山道を登って行く。すると鉄塔107に着いた。
 以後、鉄塔の巡視路が整備された登山道のように歩ける。NO108をパスし、小さなアップダウンを繰り返しながら行くとNO109に着く。それまでの植林から稜線だけはブナ、楢、リョウブなどの雑木の道となる。まだ緑も若い感じである。NO109からの展望はかなりいい。すぐ近くに川上岳が見えるし、南にはオサンババが丸い山頂を見せている。
 NO110は更に眺望が良くなった。白山連峰が素晴らしい。特に奥三方山が三方崩山を従えてまるで独立峰然と聳えていることに感動した。奥三方山は未踏の山である。ここで十分な時間をかけて同定を楽しんだ。三の峰から間名古の頭(2114m)までが見渡せた。素晴らしい。東は雲に隠れて何も見えない。晴れれば3000m峰の連山が見られるはずだ。
 思いがけないブナの巨木に感嘆しながらNo111に着いたが山頂を目指した。山頂は巡視路から外れていて私は行き過ぎた。後方のNさんのコールで気づいてバックし三角点の傘山に着いた。どこからか登頂を祝ってカッコウの鳴き声が聞こえる。♪カッコウ♪カッコウと聞こえるが近づくとファッションファッションと聞こえた。ウグイスの鳴き声も相当盛んである。ホトトギスはまだ聞かないがどこで聞けるだろう。
 時折黒い雲が空を掠めていくが天気悪化の兆しはない。今日はいい方に外れたようだ。下山はそのまま同じ道を戻った。
 西ウレ峠に車で来てPに駐車。管理棟の前にある案内板に従ってAコースを登りBコースを下ることにした。
 まず車道を歩く。すると5分でAコースの入口であった。周囲は成長した唐松の森に飛騨に多い朴の木やブナなどが混じる樹林の中の道である。正しく万緑の季節を謳歌する気分である。
 この道は平成16年に県によって整備された遊歩道である。石畳の気持ちいい道である。沢をいくつも跨ぎ、尾根に乗るとすぐに1313mの「頂上」に着いた。20分であった。Nさんは写真を撮りながら30分かけて登ってきた。 地形図でよく見るとこの「頂上」はおかしいことに気づいた。少し向うにまだ高いところがあった。つまり1313mと印刷された3mの部分=1310mの小さな丸い等高線であった。すこし下って登り返すとやっぱり本当の1313mの頂上は20mくらい上にあり、古ぼけた「西水源山」の山頂標があった。遊歩道はこのピークをわずかに巻いていたのである。
 頂上からは下り一方になる。唐松のよく手入れされた森を味わいながら下った。Nさんいわく「癒しの森」だなあ、との見解であった。首肯。とんとん下ると車道に出て峠まで歩いた。
 帰りは明宝温泉に入湯。久々に奥美濃のお湯を楽しんだ。更に郡上八幡では蕎麦屋「平甚」に寄って舌鼓を打った。九代目のご主人は健在で87歳と長命だ。蕎麦のご利益であろうか。

映画「千利休 本覚坊遺文」鑑賞2007年06月11日

 1981年(S56)に出版された井上靖「本覚坊遺文」を原作として1989年に映画化された。07年5月23日に76歳で死去された熊井啓が監督。
 茶人として最高峰にあった千利休の生と死を描いた作品で、約70%は茶を点てる場面である。千利休の切腹は何ゆえだったのか、弟子の本覚坊が回想しながら追及してゆく。
 俳優は男ばかりで女優は一人もない珍しい作品。本覚坊は奥田瑛二、回想の問いかけは織田有楽斎で萬屋錦之助が演じた。千利休は三船敏郎、秀吉は芦田伸介、他に加藤剛、東野英治郎、牟田悌三、といった錚々たる名優が出演して見ごたえがある。
 私は茶道は全くの門外漢である。かつて芭蕉は「和歌における西行、連歌における宗祇、茶における千利休・・・・と」いい、風雅のお手本とした。その千利休は名前こそ知っているが何も知らないに等しい。
 最終的に導かれた結論をいえば晩年の秀吉がやった朝鮮出兵を批判したことで秀吉の逆鱗に触れた。秀吉の保護と援助で茶道を発展させながら最高権力者を影で批判すれば切腹は免れない。
 つい最近も勤務先の社長と話をしていたらこの話がでたので驚いた。それは千利休といい、最高権力者に近づきすぎて失敗したこと、権力者に近づくものを茶坊主という、などの話をしたばかりである。

茶道一般については以下にコピーした。
「茶道(さどう、ちゃどう)とは、様式にのっとって客人に茶をふるまう行為のこと。元来は「茶湯(ちゃとう)」「茶の湯」といった。千利休は「数寄道」、小堀遠州は「茶の道」という語も使っていたが、やがて江戸時代初期には茶道と呼ばれるようになった(「茶話指月集」「南方録」など)。

ただ、茶をいれて飲むだけでなく、生きていく目的や考え方、宗教、茶道具や茶室に置く美術品など、広い分野にまたがる総合芸術とされる。」

昭和区にある昭和美術館は茶の道具を集めていることで有名と聞いた。一度は行ってみよう。お茶に命をかけた何人もの日本人がいた。たかがお茶というなかれ、である。

映画「郡上一揆」鑑賞2007年06月11日

 観たい、観たいと念じていたらGEOのある店で見つかった「郡上一揆」と「本覚坊遺文 千利休」の2本。しかも通常一本300円余りのところ70円のキャンペーン中であった。今日は「郡上一揆」を鑑賞した次第。
 2000年(59歳)の制作というからまだ新しい部類に入る。監督はダムに沈んだ徳山村を描いた映画「ふるさと」(1983年 42歳)の神山征二郎氏(1941年生まれ)。神山氏は岐阜県の出身で農家の出だからこの映画は長い間暖めていたものらしい。兵庫県映画センターのサイトから神山氏の「その時が来た」をコピーした。
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「その時が来た!」神山 征二郎

『郡上一揆』は徳川家による強大な宗主権に支配された、幕藩体制下の悲劇である。

江戸時代は特権的武士階級が国家を統治していたが、国営をまかなう租税(年貢米)を生産し、納めていたのは専ら農民、百姓だった。

私の祖先は中世にさかのぼるまでこの百姓であったようだ。それも永く濃州(美濃)に土着し、営々と米づくりにのみ生きてきた。

1960年、第一次安保闘争の年に18歳で東京に出た。次男だったので農家の跡を継ぐ立場ではなかったから、当時景気のよかった映画の世界を漠然と志しただけのことである。しかし、どうも私の身体の中には"米づくり"がしみついて離れなかったようだ。「出来るがずもない」と嘲笑されているのを百も承知で4年間この映画づくりに身を投じてこられたのは、他でもない、米をつくる民の悲しいほどの"百姓の性(サガ)"が五体にしみついていたからではなかったかと思う。

明治は江戸時代を否定するところから出発せざるを得なかったので、様々な分野で江戸に目隠しをしてしまった。百姓のこともそのひとつだと私は思う。しぼり取られ、地を這い、足で踏みつけられるだけという百姓像は間違いで、文にも武にも長け法律をよくし、納税者の誇りを保つ毅然たる者たち、それが我らが祖であった。ボロを着て、粗食に甘んじ、それでも断じて人間の誇りだけは捨てなかった者たちのことを、映画にしておきたかったのである。つまり、百姓こそが恰好いい!

しかしながら映画の実現は困難を極めた。同志、協力者が次々と現れて、手をとり合ったが、2度、3度痛撃を食った。あきらめて楽になりたかったが、生きてきた証に-と完成にこぎつけた。

実現不可能な企画に勇気と力を与えたのは地元郡上郡の多くの有志と岐阜県各界の応援、それによせる全国各地からのエールだったことを申し添え、深く感謝いたします。
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神山氏の略歴:岐阜市生まれ、岐阜北高校卒。日大で映画を学ぶも中退。1963年(22歳)新藤兼人監督主宰の近代映画協会に所属する。新藤監督、吉村公三郎監督、今井正監督の助手を務めた後1971年(30歳)に監督デビュー。通りで社会派的な味わいがあるはずだ。
 
 映画の感想はもう凄い!の一言。現代でこんな映画がよく撮れたものだと思う。登山をはじめて以来奥美濃には毎年通ってきたから地名もよく分かるし、川のショットも何となく長良川という気がする。
 白鳥町に恩地(陰地、隠し田)という地名がある。恩は当て字で元々は年貢逃れの田圃のことである。検見ではそのような年貢逃れの土地も発覚する。山間地で収穫量の十分でない奥美濃では痛い。だから検見を止めてくれと願うのである。そこからこの物語は始まる。それが4年に及ぶ一揆は郡上一揆しか例がないという。結末は双方に悲惨をもたらす。
 物語は宝暦年間(1751)であるが約80年後の天保年(1830)から万延年(1860)にかけて尾張藩士の岡田文園が編纂した「新撰美濃志」がある。ここでは既に陰地村(おんじむら)とあるからもう発見された後であろう。当時白鳥村では約七百四十四石とある。主演緒方直人扮する一揆のリーダー格の定次郎、加藤剛扮する助左衛門らが住む前谷村は百七十石余りと歴然とした差があった。貧しい所ほど声高に叫ぶのも故なるかなである。
 山岳風景も娯楽映画では見栄えのいい八ヶ岳辺りが挿入されるがここでは地元の山が撮られていると思う。毘沙門岳の麓辺りが撮影されたように観じた。方言も忠実である。「だちかんぞ」など美濃の方言で台詞が語られる。監督がこだわったことであろう。

鈴鹿・竜ヶ岳 大井谷を溯る2007年06月18日

 大井谷は竜ヶ岳の近江側の大きな谷である。茶屋川合流地から白谷出合いまでが又川谷、上流が大井谷と呼ばれる。
 6/16は上天気で夜も星が煌いていた。近江側に下って適当な道路沿いの空き地を仮の宿としてテントを張った。夜10時過ぎというのに通行量はまれにある。深夜になって鳥の鳴き声が聞こえた。テッペンカケタカ、となくのはホトトギスである。ああこれで今年もカッコウとホトトギスを聞くことが出来た。鹿の鳴き声と思ったのはトラツグミであった。夜鳴く鳥の代表だそうな。今回の沢登りのゲスト初参加のF君の博識ぶりを垣間見た。
 早朝、目覚めたが空はどんより。フロントガラスには小雨を思わせる水滴がつく。だが雨でも行くぞ、と気合を入れた。まず朝食をとってからF君のマイカーを石榑峠にデポする。私のマイカーで茶屋川沿いの茨川林道に入った。単独を避けたいF君はかねて出合いを偵察済みである。だからすぐに同定できた。
 川に下って又川谷に入る。平流である。周囲は杉の植林も見るが溯るにつれて雑木林となる。所々には炭焼きの窯跡が見える。石組がほぼ完全に残っているものがあった。川には死んだばかりの子鹿の死骸があった。まだ1週間とは経過していない。蛇谷源流で見たバンビと同じ大きさである。
 渓相は平凡であるが岩石はユニークな面白い造形が見られた。机上で調べると頁岩のようだ。ページ(頁)を捲るように剥がれるからそう名付けられた由。昭和44年に三岐鉄道が発刊した『鈴鹿の自然』の鈴鹿山脈地質図によると竜ヶ岳の県境と蛇谷辺りを堺に逆U字形に花崗岩が占める。釈迦、御在所、鎌、入道の西、油日まで延々続く。鈴鹿山脈の近江側はほぼ古生層の粘板岩、頁岩、砂岩、輝緑凝灰岩が占める、と知った。
 頁岩は又川谷でよく見たし、白谷出合い付近は輝緑凝灰岩だろうか。つるつると光沢のある岩石が見られる。白谷は文字通り砂岩であろう。出合いからは待望の滝が適度に現れて楽しめる。威圧感のある滝はなく殆ど直登出来る数メートル以下ばかりである。滝はホールドが確りしているがザイルを出して確保した。滝の岩質は輝緑凝灰岩であろうか。花崗岩のように脆弱ではないが角が丸い岩質を見てそう思う。おそらく伊勢側の蛇谷も同じ岩質であり、崩壊の著しい孫次郎谷、もうち谷、砂山は花崗岩である。
 核心部を抜けると地形が複雑になって来た。谷が細かく分流し始めたのである。右か左か、ルートファインディングに時間を食う。しかしこれは楽しいものである。先ほどLのW君、F君共々竜から落ちてくる滝だ、と同定したすだれ状の滝で落ち合う谷は結局枝谷と分かった。私は侵食が少ないので雨季だけ立派に見える滝と断定した。秋は表面を流れるだけであろう。
 地形図どおりの分岐でつじつまが合う。あとは水量の多い谷を追って溯る。最後の二股は左が大井谷乗越しか。我々は竜に近いところに上がるために右に振った。源流部は急峻な地形になる。周囲の自然林はシロヤシオか。林を抜けると笹の斜面が広がる。鹿の道がしっかりあるので谷を出てそれを追って見た。 
 笹を漕ぎ辿り着いた平坦地にはヌタ場があった。一面のガスで視界はゼロであった。たぶん池の平というクラ(1042m)に近いところと思う。尚もヤブをこぐと立派な登山道に出た。12時50分であった。又川出合いから約5時間かかった。若干登って下ると蛇谷の鞍部である。そこから山頂へはもういくらもない。
 登山口に戻ると朝の雨模様は嘘みたいに晴れた。山を見ると葉裏を返した樹木がうねるようにみえる。風が結構強いのだ。W君にいうとあのペギー葉山歌うところの「雲よ風よ空よ」を所望された。CDから流れる歌に余韻を感じながら山を去った。桑名辺りから眺める鈴鹿にはまだ厚い雲がかかっていた。

 「雲よ風よ空よ」作詞 ヒロコ・ムトー: 作曲 山下毅雄 :唄 ペギー・葉山

1 何を考えて いるんだろう 
  雲のやつ大きな顔して 空にぽっかり浮かんでる
  どこへゆくんだろう 涼しい顔で
  風のやつ僕の手の中を 通り抜けて行っちゃった
  絶えず流れてゆく お前たちには
  心なんてものが あるんだろうか
  雲よ風よ空よ お前たちは知ってるかい 
  ふとした言葉に 胸かけめぐる
  あの切ない さびしさを
  雲よ風よ空よ お前たちは知ってるかい
  訳もないのに 胸しめつける
  言いようのない さびしさを

   (4行無しで5行目から♪)
2 絶えず流れてゆく お前たちには
  心なんてものが あるんだろうか
  雲よ風よ空よ お前たちは知ってるかい
  ふとした出会いに 胸ときめかす
  あの優しい 喜びを
  雲よ風よ空よ お前たちは知ってるかい
  ふれあう心に 夢あふれくる
  ほのぼのとした 喜びを

映画「飢餓海峡」鑑賞2007年06月24日

 1965(昭和40年)制作。東映作品。あらましはアマゾンからコピー。
1946年、青函連絡船が嵐で沈没し、乗客の遺体が収容される。しかし、その数が名簿よりも多い。ベテラン刑事の弓坂(伴淳三郎)は、転覆のどさくさで起きた殺人事件と睨み、執念の捜査を続けていく。そして10年後、犯人(三國連太郎)は事件当時の彼を知る遊女(左幸子)と偶然再会してしまった…。
水上勉の同名小説を原作に、巨匠・内田吐夢監督が人間の内に潜む心の闇をスリラー仕立てで見事に描ききった、堂々3時間におよぶ傑作超大作で、そこには自身の人生観も多分に反映されている。
また、16ミリで撮影したモノクロ・フィルムを35ミリにブローアップするなどの特殊な技術処理をも駆使して、戦後・日本の心の飢餓状態を浮き彫りにしていくという壮大な実験作でもあり、一方では日本映画史上のベスト・テンを選ぶ際、黒澤、溝口、小津、成瀬作品などと並び、必ずベスト・テン入りする名作中の名作でもあるのだ。(的田也寸志)
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かつて観た映画「ここに泉あり」は画面に相当雨が降るような荒れ方で見苦しい。機関車の周囲に鈴なりになって乗車する場面を即座に浮かべる。しかしそれが時代を物語っているかのようにも見える。
 この作品も戦後のどさくさから落ち着いてきたころだからきちんとした画面にできたはずであるが設定した昭和22年から32年という時代を表現する手段として16m/mから35m/mに拡大してわざと荒れる感じを出した。
 蒸気機関車が登場するとほんとに懐かしい気分が出る。しかも機関車の車輪近くにキャメラをセットした固定ショットは迫力があった。網走の刑務所を出所したばかりの男2人が質屋で強盗を働き放火の末逃亡、という極悪な犯罪事件である。これに青函連絡船の転覆事故を絡ませて壮大な絵空事を編んだ。実際には台風は昭和29年だし、連絡線に日本人が乗れるのは昭和25年であった。
 台風の余波があるのに海峡を一人小船で渡るのは無謀だがそこはフィクションの世界として目をつぶるしかないか。下北半島の仏ヶ浦に渡り、恐山のイタコも垣間見る場面を挿入してリアリティーを出した。巫女が目を白黒させて何やらうなるところは映画であっても恐い場面である。
 おまけに森林鉄道に飛び乗る場面もあって時代背景を物語る。客車の中で犯人はタバコを別の客に与える。左幸子扮するお客は握り飯をもの欲しそうに見ている視線を感じて犯人に与える。
 映画「カルメン故郷に帰る」では草津軽便鉄道に乗る場面があった。それは映画「ここに泉あり」でもあった。軽便鉄道も森林鉄道ももう今はない。あっても観光用にわずかに運行されるだけである。大正から昭和40年頃にかけて活躍しトラックにとって変られた幻の鉄道だ。奥三河、中央アルプス、南アルプスでもかつての森林軌道の跡は林道になった。大湊ではバスに乗るが懐かしいボンネットバスである。以上の観点から映画は日本交通史の証言者ともいえる。 
 この映画を観ながら映画「浮雲」に匹敵する面白さ、と思った。場面の展開のテンポがいいリズムである。時代背景も似通っている。左幸子扮する酌婦は大湊の宿で一夜を共にした縁で若干の大金を恵んでもらう。宿に借金を返して東京に出て売春婦になってしまう。 函館時代から犯人像を追ってきた伴淳扮する刑事は結局追い詰められずに退職。実業家に変身した犯人の三国連太郎は悠々迷宮入りかと思わせたが盗んだカネで始めた商売が当り儲けの一部を寄付した。多額の寄付が全国紙に報道された記事をきっかけに身元が判明し、売春婦の左幸子が舞鶴市へお礼をいいに訪ねていく。三国連太郎扮する犯人であり実業家に結局は隠してきた過去が発覚することを恐れて殺されてしまう。
 ここで苦しい過去を消すことと現実を失いたくない思いで左幸子を殺し事件の舞台は舞鶴市に移る。高倉健扮する刑事の活躍と再び伴淳にお呼びがかかり事件の解明に向う。犯人はのらりくらりと事件の核心をはぐらかすが伴淳が最後の切り札に見せた小船を焼いた灰を見せて心変わりしたか、急展開する。
 犯人が北海道へ連れってってくれ、と懇願する。高倉健らが同行して連絡線に乗船。海の上で伴淳は般若心経を唱える。花を海へ献花する。続いて犯人も献花するが一瞬の内に海へ投身自殺する。広大な海原のショットが続いて空しい幕切れとなる。ふうっとため息が出るほど長かったが面白い映画でした。

昭和美術館を訪ねる2007年06月24日

 映画「千利休 本覚坊遺文」を観てからお茶に関心が高まった。
 日常茶飯事とかちょっとお茶でも、とかいって我々の生活にすっかり溶け込んでいるお茶。本来は熱くして飲むお茶を近年は冷たくして売ってもいる。そんなお茶に命をかけた日本人が居たことを知った。利休だけではない。織部もそうだった。
 昭和美術館は茶器の収集では日本有数の美術館である。えーなも探偵団というサイトからコピーすると・・・・。
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昭和美術館
沿革
 昭和13年12月に財団法人後藤報恩会が設立され、初代理事長後藤幸三氏が収集した美術工芸品や関係史料が、昭和53年5月昭和美術館として開館。 「文化の向上と文化財の保護に貢献する」を念願に氏が生前住居としていた現在地に開設される。
特色
 昭和区の閑静な住宅地に、2,200坪の敷地を有し、庭園を散策すると四方から野鳥のさえずりが聞こえる。都会の中の自然林を感じさせる庭園は、 茶室への道すがらとなっており、風情漂わせる池と高低差のある露地は、茶人文人好みの雑木茂る森を感じさせる。庭園内の南山寿荘は茶室および書院で、 江戸時代名古屋尾頭坂あたり堀川沿い東岸に所在した、尾張藩家老渡辺兵庫規綱の別邸の一部とされている。館蔵品は1,000点(重文3点)で80%が茶道に 関するものである。
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行ってみれば何かが分かる。そんな好奇心だけで雨を幸いと出かけた。着てみると名古屋は当然として奈良、岐阜、豊橋、といった遠方からのクルマのナンバーにこの美術館の特異性を見た。
 1996年6月に盗難にあった重要な茶器が昨年10年ぶりに戻ったことは新聞で知っていた。茶碗25点、3億5000万円相当という。犯人も売る積もりはなく大切に保管していた。現在戻った名品を「再会」というテーマで名椀を中心に3/18から7/16まで展示中である。
 名品を観て思った。中国や朝鮮から渡ってきたものもある。お茶とはそもそも日本古来の飲み物や芸術ではなかった。日本で焼かれたものでも朝鮮から連れて来た陶工に焼かせたものもある。
 利休は中国、朝鮮伝来のお茶の文化の伝道者であった。秀吉が高い文化を誇る朝鮮を攻めるということは利休には理解しがたいことであっただろう。秀吉も茶を嗜んだというが何が狂わせたのであろう。
 雨でも濡れないように歩道の上には屋根が設けられていた。深くまでは入れなかったが歩道には「でんでんむし」が這っていた。懐かしい。昔はここら一帯は松林だったというが今は樹木が生い茂る。池もある。夏虫にやられてもいいように蚊取り線香が焚いてあり、軟膏まで用意してあった。
 昭和美術館を辞して、栄の安藤七宝店で開催中の山の絵の展覧会に回った。石井でガスコンロを買い、丸善でお茶の入門書を立ち読みした。