映画「裸の島」鑑賞2007年05月06日

 手当たり次第に小津安二郎監督の関連記事を読み漁っていくうちに新藤兼人著「シナリオ人生」(岩波新書)に出会った。その中の「小津の重箱」が第一章にあったのを読んだ。小津から新藤やん、と呼ばれていたらしい。なぜ「やん」なのかわからないというが三重県では人名にやんをつけることがある。プロ野球では金田投手を「金やん」と呼んでいた。苗字でも名前でもある。親しみを込めた呼び方であることには違いない。
 著者の新藤氏は1912年生まれで今年95歳という高齢である。5/1から日経新聞朝刊の「私の履歴書」の連載が始まっている。今日レンタル店で物色していたら「裸の島」のタイトルが目に付いた。「シナリオ人生」あとがきの項目に紹介されていたから記憶があった。
 鳥取県に遊んだので清張の「父系の指」や「砂の器」を枕元に揃えた。井上靖の「通夜の客より わが愛」の映画も調べたが何処にもない。同県出身の司葉子の映画も再び観てみたい。そう思って物色していたら新藤監督「裸の島」(1960年)が目に飛び込んできたというわけである。レンタルして観た。裸の島とは瀬戸内海の島で耕作をする子供2人の夫婦の物語である。
 予備知識はないに等しいので最初は台詞なしで、しかも基本的には乙羽信子、殿山泰司だけで進行する単調な物語に投げ出したくなった。しかし、音楽が効果的で担いだ天秤棒の水の運搬作業が実にリアルであったから次第に引き込まれた。
 全編中半分は舟を漕いで水を運び、水を島の山に担ぎ上げて栽培植物に水をやる仕事のシーンが大半であった。よろよろと当時36歳の乙羽信子の演技か実際か分からないが山道を登るシーンははらはらさせる。
 耕して天に至る、を絵に描いた作品であった。だが子供が急病で死ぬ場面は私も泣いてしまった。これは高峰秀子扮する先生の「二十四の瞳」でも泣いたが純真な子供の死は万感胸に迫る思いがする。
 この作品は独立プロという制約もあって国内では評価されずモスクワ映画祭でグランプリを得て世界的な成功を収めた。彼が設立した近代映画協会もこの収益で借金を返済し今に至る。
 乙羽信子の映画はよく観てきた方だ。彼女は鳥取県米子市の出身であった。54歳で当時66歳の新藤監督(広島県出身)と結婚した。尚この映画でも尾道が出てくる。尾道に2年いたこともあろうが何となく小津映画の影響もあると思う。台詞がない=サイレント映画、家族の日常生活と死をテーマにしたことである。
 「シナリオ人生」のあとがきには集団創造の原理を掴んだ云々とある。これも私には気になる。若い頃川喜多二郎氏のKJ法、移動大学に関心を抱いたことがあった。彼がネパールで文化人類学のフィールドワークをした際の情報のまとめ方を考案した。それがKJ法の原型となった。つまりバラバラの情報をいかにまとめるか、まとめて新たな発想を生み出すことが創造性開発に応用された。が簡単に理解できるものではない。
 1953年のネパール遠征でKJ法の原型が出来て映画は1960年と辻褄は合う。この映画自体ロケ隊は島と尾道しか撮っていない。島の労働を文化(英語では農業=アグリカルチャー)とみなせば一種のフィールドワークといえる。スタッフの誰かにKJ法に明るい人が居たかも知れない。ともあれ日経の連載に注目したい。