愛知県知事選挙戦が始まったⅡ2007年02月03日

 愛知県知事選挙戦も今日で終り。
 強固な支持層を背景に神田さんが手堅く集票するだろう。だが石田さんも出遅れた割には善戦しているようだ。多分中央政界で降って湧いたような柳沢大臣の失言が追い風となっているようにも思う。
 石田さんが主張するように神田さんには愛知万博の成功を花道に8年で降りてもらいたい。このままずるずる行けば県債が増発されて経済、開発重視に戻るだろう。いつかは夕張市の二の舞だ。
 がらがらのリニモの下では渋滞した道路がある。何とも矛盾したことである。リニモも足助まで延伸すれば観光に効果がある。しかしそれは豊田市の経済界が阻止するだろう。買い物客が名古屋圏に流れるからだ。豊田市に不利益なことを豊田章一郎さんが推進するはずはない。
 設楽ダムは清崎辺りに堰堤が建設される。丁度清流部分である。そのすぐ下流では鮎釣りファンが集まる絶好の浅瀬がある。大きな悪影響を受ける。ダムは作っても作ってもきりがない。もうやめて欲しい。
 柳沢大臣が「女性は生む機械」と言ったのは余りに正直すぎる。昔から女の腹は借り物という言葉がある。これの方が余程失礼であろう。どちらも人間として認めていないからだ。
 一方で男は消耗品といった作家がいた。確かにそうだ。昔は戦に駆られ、戦争に駆り出され、企業戦士として死ぬ手前まで酷使されてきた。そんな過酷な男の世界に均等法が成立して以来女性が進出してきた。女性も消耗品に成りたいと志願してきたのである。女性は職場と家庭の二重のストレスを負う事になった。おそらく少子化の始まりではないか。
 少子化への対応は男女に均等に暇を与えることだろう。鶴舞線の夜10時台の電車に乗ると帰宅していく壮年から若い男女がぎっしりいる。栄、駅前、伏見辺りの勤め帰りの人であろう。週休二日の時代とはいえ、平日が多忙ではだめだ。せめて5時に帰宅の途につく、こんな勤労環境でこそ子育ての余裕は生まれる。 
 閑話休題。トヨタが風邪を引けば愛知県は肺炎になる。減益になれば愛知県の税収もスパイラル的に減収になる。自動車産業は利益収奪産業とも揶揄される。傘下の下請け会社の仕入れ単価を叩いてコストダウンをする。トヨタには巨額の利益が計上される仕組みである。
 巨額に昇る海外投資、環境投資、増える一方のリコール対策費など一つ間違うと減益決算はある。今のトヨタは石橋を叩いても渡らないといわれた石田退三社長のころと違い行け行けドンドンである。来年はボロ会社になりうると考えて愛知県も慎重になることだ。
 近くの金型メーカーも最近は残業がなくなったようだ。トヨタの孫請けの更に下請けであろう。リコール対策に追われて新型車の開発を抑えるのか?私のオンボロマンションにもレクサスのパンフレットが投函されていてびっくりした。敷居の高いクルマがカローラ並みの売り方に転換したのか。ベアを抑え、下請けの単価も抑えてはクルマは売れない。自縄自縛ということだ。
 一人勝ちではなく皆で繁栄すること。愛知県政はトヨタのためだけでなく広く県民に行き渡らせて欲しいもの。経済の語源は経世済民でありそういう意味であった。
 佐藤一斎著「重職心得箇条」から
 「政事は大小軽重の弁えを失うべからざる。徐緩にても失し、火急にても過つ也。着眼を高くし、惣体を見廻し、両三年四五年乃至十年の内何々と、意中に成算を立て、手順を遂いて施行すべし。」
 江戸時代の佐藤一斎にして既にマニフェストのさきがけを示していた。彼は東濃の岩村藩の重職のために書いたという。

クルマ雑感⑤2007年02月04日

 絶好の山日和だったがまだ喉の調子が悪い。こじらせると後がやっかいだ。養生せねばとスーパーで生姜など買い込む。 
 日頃余り行けないバーゲンセールに行く。暖冬でカシミヤのセーターも半額以下。時間を持て余すので帰りがけに岩崎御岳山を散歩する。平成の展望台というところからは濃尾平野が良く見渡せた。養老山地の奥には白い霊仙山が見えた。右端には雪を抱いた立派な伊吹山も見えた。肝心な御岳山は山に隠れている。良く見ると全山墓場のようになっている。御岳教も山やにはいいものである。
 三菱自動車からデリカの新型が発売されたので見に行った。13年ぶりという。営業担当と話す間にも続々客が見に来て関心の高さが分かる。皆さん新型を待っていたのであろう。
 シャシーからモノコックに変更されて600kgは軽量化された。1800kg未満だから軽い。ホイールベースは2850mmとロングである。走行安定性はよさそうだ。それでいてハンドルの切れ角は5,6mとまずまずである。地上高も210cmを確保してあり悪路走破性がいい。車高は2mを切るので横揺れも少なくなるだろう。シートの下も空間を確保してあり長物の収納に便利だ。特にけちを付けたくなるところはない。あえて言えば車幅が1800mmに拡幅されたことか。
 直感的に売れそうな予感がする。すぐにでも買い換えたい衝動に駆られる。が価格も相当なものである。安くても260万円+諸経費だから優に300万円は超す買い物となる。こんな高いクルマが売れ出したら三菱自の業績も飛躍的に回復するだろう。細かい部分を比較しても競合車はないから世界で只一つのオンリーワンである。

愛知県知事選挙戦が始まったⅢ2007年02月05日

 大接戦だった。挑戦者の石田さんの健闘空し、といった感じである。神田さん側には特に落ち度、弱点はなくむしろ実績が輝かしいだけに勝つことは誰でも予想しただろう。
 それでも名古屋市だけなら石田さんが優っていたので市外の人達の神田さんへの評価が高かったようだ。まだ恩恵を受けていない地方都市では経済政策への強い要望がある。これが背景であろう。
 ともあれ愛知県政に一足早く春一番が吹いた感じがした。過半数の県民が県政に関心を持ち始めた点で意義のある選挙であった。

設楽ダムを考える2007年02月08日

 神田知事3選となって設楽ダムはいよいよ動き出す見込みである。神田氏は約束だから・・・と言っていた。
 今日の新聞には設楽ダム中止の市民団体が動き出した、と報じた。又長野県は前田中知事の脱ダム宣言を返上して新しいダム建設に動き出した。
 公共工事は麻薬のようなもので不況に悩む建設業界の強い要望があるからだろう。愛知県も同じ事情であろう。平野部の発展(人口増加)のためには山間部を犠牲にしてダムを造る。そして水を供給してもらう。多くの人が正しく潤うのである。水の需要は簡単に造られるものであるから常に水不足になる。しかし水の供給はそれほど簡単ではない。
 愛知県境か中央部に2000m級の屏風山脈でもあればそれこそ多雨地帯になったと思う。愛知県の屋根という段戸山一帯は余り高い山は無く1152m程度であり、山容も高原的で雲の湧き上がる地形でも無い。北や南から流れてきた雲(気流)を堰き止めて雲を発生させる。そして雨を降らせるのであるがそんなわけで奥三河一帯は雨は少ない。(台風は別)先輩格の鳳来湖も度々湖底を見せるほど雨不足になり渇水が話題になった。
 かつて三河の山間部で地元の人に「なぜ反対するんですか」と聞いたら「そりゃあ土地をとられるでねえ」との答えであった。当事者には当然迷惑なことなのだ。現設楽町長は推進派であるが下流からのカネで町の発展を考えているようだ。つまり岐阜県の藤橋村のようなことであろうか。城を造ったり、道の駅を誘致したり、部外者には観光優先の様々な公共工事に消費されているかに見える。他に解決策はないのか。
 林業史を紐解けば段戸山一帯の森林は江戸時代に2回皆伐されたそうだ。明治になって原生林の伐採に木地師を導入した。仏庫裡(ぶくり=木地師が作る履物の一種)の山名はその名残であろう。そして植林が勧められた。
 昨年設楽町の八橋で聞いた話では知生山でも戦後ですらまだブナの大木が多く残っていたそうだ。古橋家の勧めでそれらの木を伐採し杉、桧を植林したと聞いた。
 こうした原生林の伐採は豊川下流域の洪水の原因になったと思う。杉、桧は保水力がないといわれる。一方でブナ、ミズナラの保水力の凄さは体験済みである。伐採が一段と進んだ戦前の御料林時代になって建設省が豊川放水路を計画。建設したのは昭和40年になってからであった。以下に国土交通省(旧建設省)のHPからコピー。
<概要>
  東三河の清流,豊川は,かつてたびたび洪水をおこし,水害で流域に住む人々を苦しめてきた。その理由としては,川の長さが約77㎞と短いうえに2/3は山地で降水量が多く,上流の降水が3~4時間で平地に達してしまうこと,下流域で川が蛇行し,U型部分が狭く最大流量の半分も疎水力がないことが考えられる。洪水対策として江戸時代には霞堤(鎧堤)がつくられたが,昭和になってからも10年,12年,19年と大洪水を記録しており,放水路建設が急務となった。
 工事は,昭和18年度に本格的に着手されたが戦争の拡大によってほとんど進展せず,戦後28年度以降ようやく軌道にのった。そして1965年(昭和40)豊川の下流低地に住む人々の悲願であった放水路(豊川市行明町・柑子町から豊橋市前芝町へ通じる全長6.6㎞)が完成した。洪水時,遊水池として水害の常習地帯となっていた当古・下条・大村地区などの人々は,永年の水害の苦しみから解放されることとなった。以上

 初めにダムありき、で洪水を最小限に抑える森の再生にまで議論はされたであろうか。段戸山一帯の国有林を今一度ブナ、ミズナラ、などの落葉広葉樹林の森に帰したらどうか。

暖冬異変2007年02月10日

 昨日今日は本当に暖かい。お陰で喉の痛みも和らぐ。
 明日から行く予定の飛騨の山であるがスキー場の積雪情報を見て愕然とした。白弓スキー場で30cm、一部滑走可能、であった。豪雪で名高い白川村がたったの30cmとは。早速別の山へ転戦をw君に持ちかけたが急には戦略転換できず、とりあえず行くことになった。10日は気圧の谷が通る。11日の予報も芳しくない。12日は晴れ間がちょっと出そうだが実際はどうか。一晩で積雪1mという豪雪の村に戻るのはもう無いだろうか。

春の大日ヶ岳2007年02月13日

    俳句 

 春暁の光いや増す鷲ヶ岳

 シュプールを描く大日岳の春

 雪を掘りひと時を過ごす春の山

 淡雪の上に描きし春スキー

 白山に連なる雪の春の峰

 石徹白を囲む春山みな真っ白

 春星や毘沙門岳なる麓

ローツェ南壁初登攀報告会2007年02月24日

 昨夜はウィル愛知というホールで昨年行われたヒマラヤ遠征のローツェ南壁冬期初登攀の報告会が催された。仕事が6時半に終り気が気でなかったのでマイカーで行く。7時過ぎに会場に入るともうほぼ満席の盛会であった。
 すでに来賓の挨拶は済んでしまった。これから隊員の紹介を総隊長の尾上氏が始めるところであった。紹介が終った後は隊長の田辺氏がスライドで説明しながら世界一厳しかった南壁登攀の戦いぶりを振り返った。なるほどもはや登山ではない。生命を危険にさらしながらの登攀あるのみであった。
 だから我々の一般登山者が学ぶものは何もないのか、というとそうでもない。彼は随所で繰り帰し「命の安売りはしない」と語ったのが印象的であった。アルピニズムというととかく猛吹雪をついて山頂に向かい、重たい荷物を持って目的地に向う、危険を省みず、といった勇猛果敢な登攀が喧伝される。しかし彼はそんな登山はしない、というのである。
 傾聴に値するとはこのことだろう。従来からのアルピニズムを信奉していたら命がいくつあっても足りない。危険な登山においては可能な限り危険な要素は省くのが常識である。命からがら危険を潜り抜けて来たアルピニスト達はとかく話がオーバーになる。が彼は冷静そのものだ。
 命を大切にして別の山も行きたいともいった。もうローツェ南壁は目的を達成したんだから4度目はない、と質問者に答えていたのが印象に残る。

DVD「雪国」鑑賞2007年02月24日

 1月中旬以来体調が思わしくない。山に行くのもおっくうだし身辺の雑用も進まない。気分の変った娯楽をと思い立ってDVDの「雪国」を購入した。勤務先の知人に依頼されてDVDを調べてあげたら1000円くれたこともある。4725円であったが3725円の気分である。
 「雪国」が届いたのは先週土曜日であった。白黒、昭和32年制作、劇場公開された。岸恵子、池部良主演という往年の名スターの時代のものである。原作はもちろん川端康成である。昭和10年頃からいくつかに分けて雑誌に発表されたのを戦後「雪国」にまとめられた。有名な書き出しは知らない人はいないくらいだ。
 早速PCにセットすると懐かしい東宝の社名が映し出される。公開された当時は小学生に上がったばかりだから今回初めて観る。でも何故か懐かしい。
 冒頭のシーンはその有名な書き出しそのものから始まった。そして雪国へと導かれて列車は走る。原作に忠実な出だしである。越後湯沢とある駅名は原作にはない。作中の島村は駅を降りて高半旅館のかすみの間に導かれる。以後この部屋でもやりとりが映画の三分の一を占める。
 雪国の女に会いに来た。その女=駒子を当時の(今でも)人気スターで24歳という岸恵子が演じていた。芸者姿だから当然日本髪であり裾を垂らした和服である。これが素晴らしくあでやかで良かった。
 以降岸恵子はこのスタイルでほぼ半分を演じる。昭和初期はまだ日本女性は殆ど着物が日常着であった。それでも着物の裾をちょいと持ち上げて歩く姿は芸者独特のものだろう。他にモンペ姿もある。
 かすみの間で粋な再会を果たし以後は初めての出会いの回想シーンに移るがこれまた映像詩とでも呼びたいような詩的なシーンが編集されて美しい。ここまでが前編であり3度通して鑑賞したが前編の回想シーンは更に2,3回観た。
 3725円で1週間の内に5回も見たらもう元は取れた。レンタル店で岩下志麻のリメイク版を探したが貸し出し中であった。続けて見比べたい。
 DVD版を堪能するとやはり原作を再読したくなる。全集をどこかへしまい込んだので新に文庫本を買った。何と平成18年でもう133刷である。昭和22年初版なので丁度60年だ。1年に平均2回印刷したことになる。名作でありロングセラーである。そして新潮文庫の第一号であるという。
 流石に冒頭の書き出し以外はもうすっかり忘れていた。改めて読んだ。島村は1週間かけて谷川岳(国境の山と書いてある)方面から下って来ていた設定。この作品は登山もベースになっているが映画では一切触れられない。但し駒子は山の名前すら知らない、といって話は途切れる。駒子の名前自体川端の創作であるがどうも越後駒ヶ岳に因んだ気がしてならない。魚沼盆地から仰ぎ見て一番立派で美しい山である。川端は美しいものが好きなのである。
 駒子、島村、陽子の三角関係といえば通俗小説であるがそこは文豪である。鍛錬された文章世界、性的な場面も直接的に描写しない。俳句のように自然や心理が写生的に綴られていく。妻子もちの島村は一途な駒子の愛を抱きとめることができない。駒子もそれと知りながら純粋に島村に恋する。最後は天の川を引いて愛の破局を暗示する展開となり切ない結末である。
 川端文学の最高傑作と評価される所以である。この作品は実在のモデルが居たそうだ。駒子に関することは殆ど事実らしい。モデルの女性は小説の種にされてたと知って「純粋な付き合いと思っていたのにと」憤慨したそうだ。そりゃそうだ。
 岐阜県の山之村と富山県の有峰を舞台にした「天の夕顔」も借家の未亡人と学生の恋を描くがやはりモデルがいた。実際は美しい姉と弟の近親の恋だったのを作家の中河与一に打ち明けて作品に仕上げてもらったという。ベストセラーになるとその利益の分配のことでもめたようだ。
 事実は小説より奇なり、というが本当である。

多度山系・狐平山散策2007年02月25日

 かねてから依頼されていた狐平山の約束をようやく果たした。雪が多ければ北の山に向っていたはずである。柴田さんの「相場振り山」を読んで行かねばならないと思っていた。とは言っても何を差し置いても、というわけではない。
 まず多度山に登る。今日は高曇りである。遠望は効かない。北よりは南の方が雲が厚い。眼下は木曽三川の悠揚たる流れが目に入る。多度山麓の家並みがマッチ箱のようだ。そして石津御岳に向うハイキングのコース(林道)を北上する。
 道々慰めになるような花などの風物は誠に少ない。ガードレールの外側に花らしくない緑色の花を咲かせているのはヤシャブシか。夜叉五倍子と書く。荒廃した日当たりの良い荒地に咲くという。いち早く春を告げる暖地性の植物である。小林一茶には

  ハンノキのそれでも花のつもりかな   一茶

 という句があった。ハンノキもヤシャブシもかばのき科ハンノキ属で同じ仲間である。こんな目立たない花を江戸時代の俳人は花と知って俳句に詠んだ見識の高さに現代人はどこまで迫れるだろう。Nさんですらネコヤナギと間違えた。

   花らしく見へぬヤシャブシ咲く山路 

 周囲は桧の植林であるが照葉樹も侵入している。むしろ落葉樹は少ない。温暖な気候の影響である。鉄塔巡視路のNO33から確認しつつ急な林道を歩く。ところがもうNO31の道標が見える。どこかで見落としたようだ。
 一旦は下ってみた。よく見ると巡視路の道標はないがよく踏まれた山道が右へ登って行く。そして途中にNO32を確認した。これはどうも下からここへ移設したかと思われる。
 いくらも歩かずに狐平山に着いた。多度山頂よりも山頂らしい風情に私達は喜んだ。かつて相場の情報の伝達基地であったことを伝える案内板が建っていた。大阪堂島の米相場の価格を手旗で名古屋方面に伝えたのである。同行のNさんの勤務先の創業者は米相場を当てた数少ない成功者なのである。現在は株式市場に上場する堅実経営の会社に発展した。明日は4代目となる社長に報告すると大喜びである。
 多度山から下山して多度大社に詣でた。前を通ったことはあるが本殿は記憶にないし上げ馬もニュースで知るのみである。参拝後社務所に寄ると投句箱があったので3句を即興で作句して投函した。

    上げ馬の坂の注連縄春の風

    本殿へ行くや清めの水温む

    如月や多度山上は高曇り

 上げ馬の坂はかなりな急で一気に蹴上がる感じで最後は壁になっている。隣は観客席で神事とはいえ見世物である。以前は動物保護団体から中止の声も上がった。動物虐待というわけだ。その坂のスタート地点と上がりきった土盛の上に注連縄が張られシデがゆらゆら揺れる。それは間違いなく春(張る)の風が目に見えるのである。
 多度を辞して名古屋に帰った。山上から眺めた木曽三川と治水神社の横を通過するとき幕府の犠牲になった薩摩義士を思った。豊田穣著「恩讐の川面」はここが舞台である。長良川と木曽川を分流する難工事は宝暦治水と呼ばれる。この難工事にあたっては薩摩藩士900余名の内53人が割腹自殺し家老の平田靭負も割腹したという悲惨な歴史がある。

飯田龍太さん死去2007年02月28日

 今朝の朝刊で山梨県在住の俳人・飯田龍太氏の死去を知った。ご冥福をお祈りする。享年86歳の大往生であった。

  生き生きと三月生る雲の奥     龍太

 朝日新聞の名コラム「折々のうた」で大岡信氏が絶賛した俳句であった。
 92年に突然俳誌「雲母(うんも)」を900号で終刊にしたとの報道にはもっと驚いたものであった。
 主宰していた「雲母」は元々は1914年(大正3年)、愛知県幡豆郡家武町、現西尾市)で発刊された俳誌『キラゝ』が起りであった。西尾市には八ッ面山がありそこで産する雲母(きらら)に由来したものか。その選者を父蛇笏が担当した縁で1917年(大正6)、同誌の主宰者となり、誌名を『キラゝ』から『雲母(うんも)』に変更。1925年(大正14)に発行所も甲府市になった。
 1962年蛇笏死去の後を継いだ。最盛期は会員数4000名を誇っていたが皮肉にも毎月2万句の選句に限界を感じたのかもしれない。選句地獄という言葉もあるかに聞く。下記の③④⑤を読めば分かるが丁寧な鑑賞文である。採り上げてもらえた人は光栄に思い、益々作句に励み、会員も増えただろう。
 
 数ある俳人の中でも作句、エッセイ、俳論など多数の本を出していた点で図抜けた人であった。書棚から手当たり次第に取り出すと
 ①俳句入門33講  講談社学術文庫  昭和61年
 ②俳句・風土・人生    上に同じ    昭和63年
 ③俳句鑑賞読本(全) 立風書房     1984年
 ④現代俳句の面白さ  新潮選書     1990年
 ⑤現代俳句歳時記    同じ       1993年
 ⑥秀句の風姿      角川選書     平成2年
 ⑦飯田龍太読本    富士見書房編   平成2年
とまあよくお世話になったものである。

 何でこんなにも親しんだか、と考えると一つの俳句との出合がある。

  鶏毟るべく冬川に出でにけり   龍太
 
 家に客人が来た。それで至急ご馳走をするために飼っている鶏を一羽処分したのであろう。首をひねって全身を覆う羽根は川原に出向いて毟ったのである。そして折からの北風にぱあっと舞い上がる羽、という情景。
 これと全く同じ体験が私にもある。小学生の頃だった。年末に鶏飯を炊き、蕎麦の汁を作るために処分したことがあった。親の言いつけであった。鶏が好きなので喜んで行った。今はもうこんなことはやれないが。  
  余寒なり見出し大きく龍太死す