沢登りの打ち合わせ ― 2019年08月30日
昨夜は市内の飲食店で9月の沢登りの打ち合わせをした。とりあえず2名であらましを話し合う。遅れてきた1名にも経緯をしめし最後は集合場所の合意で終わった。
今回の笹ヶ峰の計画も残雪期に1度は登った山であるが、同行者は沢か山スキーで「ぎふ百山」の踏破を目的にしているというので沢ならばつきあうと同行するわけだ。
昨年1度目は1泊2日の余裕の計画でトライしたが70mの焼小屋谷への大滝で跳ね返された。それで2度目は前夜発で尾根の藪道からロボットまでは行った。今回は3度目になる。ルートも滝ヶ谷に変更した。
過去の記録も余りないが地元の岳人らは1度ならず2度3度もトライしてやっと登頂しているのだから都会に住む我々がそうたやすく登れるわけではない。
こうして何度もトライできる山があることは幸せなことである。
今回の笹ヶ峰の計画も残雪期に1度は登った山であるが、同行者は沢か山スキーで「ぎふ百山」の踏破を目的にしているというので沢ならばつきあうと同行するわけだ。
昨年1度目は1泊2日の余裕の計画でトライしたが70mの焼小屋谷への大滝で跳ね返された。それで2度目は前夜発で尾根の藪道からロボットまでは行った。今回は3度目になる。ルートも滝ヶ谷に変更した。
過去の記録も余りないが地元の岳人らは1度ならず2度3度もトライしてやっと登頂しているのだから都会に住む我々がそうたやすく登れるわけではない。
こうして何度もトライできる山があることは幸せなことである。
段戸山(鷹ノ巣山、出来山を含む)をめぐる沢、谷、洞 ― 2019年08月26日
昨日は栃洞を遡行した。
山一つ西は滝洞という。その西は鰻沢という。栃洞の東は西川谷、さらに東は弁天谷という。北へ椹尾谷、本谷がある。以上は豊川水系の支流になる。鷹ノ巣山の北側は矢作川水系になる。北西には井戸沢がある。寧比曽岳には沢名の記載がない。出来山の足助側には信玄沢、枯木沢があり、全体は信玄の金山の名残りとして金沢の地名がある。
沢名は愛知県から木曽山脈、飛騨山脈の屏風の東側の名称である。西側は谷名になる。洞は岐阜県に多い気がする。意味は「大木や岩などの、うつろになったところ。ほら。ほらあな。」「崖(がけ)や岩の中の、うつろになった穴。ほら穴。」が一義的な意味だろう。確かに栃洞を歩いても岩のポットホール(甌穴)が多かった。
それでは沢と谷が入り混じった川はどうなのか。例えば富山県側に入る黒部川の源流部は谷のはずだが、赤木沢、五郎沢、祖父沢、薬師沢など数々挙げられる。これらは東日本の信州側から多数の人が入って持ち込んだものだろう。黒部川を国境とする見解もあったらしい。
結局愛知県の設楽町には沢、谷、洞が入り混じっているが、沢は信玄沢の名称でも推測できるように甲斐の人が多数入った証拠だろう。設楽町には縄文遺跡があることから東日本文化圏だったと思われる。洞はその形状から来るのだろう。
すると弁天谷はどうか。愛知県尾張地方には弥生遺跡が出土している。谷の文化圏の関西からも多数の人が来たと思われる。
コトバンクから引用すると
「弁才天 べんざいてん
仏教の守護神。
知恵,弁舌,技芸の女神。もとはヒンズー教の河神。8本の手で各種の武具をもつ座像,あるいは2手で琵琶(びわ)をもつ座像として表現される。日本では奈良時代から弁才天信仰がはじまり,江戸時代には弁財天ともしるされ,蓄財の神,七福神のひとりとして庶民の信仰をあつめた。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例」とあった。比較的新しい歴史がある。
当貝津川と栗島川(上流で西川谷と弁天谷と変わる)の出合いには赤沢弁財天があり霊水をウリにしている。つまり信仰が由来だった。
山一つ西は滝洞という。その西は鰻沢という。栃洞の東は西川谷、さらに東は弁天谷という。北へ椹尾谷、本谷がある。以上は豊川水系の支流になる。鷹ノ巣山の北側は矢作川水系になる。北西には井戸沢がある。寧比曽岳には沢名の記載がない。出来山の足助側には信玄沢、枯木沢があり、全体は信玄の金山の名残りとして金沢の地名がある。
沢名は愛知県から木曽山脈、飛騨山脈の屏風の東側の名称である。西側は谷名になる。洞は岐阜県に多い気がする。意味は「大木や岩などの、うつろになったところ。ほら。ほらあな。」「崖(がけ)や岩の中の、うつろになった穴。ほら穴。」が一義的な意味だろう。確かに栃洞を歩いても岩のポットホール(甌穴)が多かった。
それでは沢と谷が入り混じった川はどうなのか。例えば富山県側に入る黒部川の源流部は谷のはずだが、赤木沢、五郎沢、祖父沢、薬師沢など数々挙げられる。これらは東日本の信州側から多数の人が入って持ち込んだものだろう。黒部川を国境とする見解もあったらしい。
結局愛知県の設楽町には沢、谷、洞が入り混じっているが、沢は信玄沢の名称でも推測できるように甲斐の人が多数入った証拠だろう。設楽町には縄文遺跡があることから東日本文化圏だったと思われる。洞はその形状から来るのだろう。
すると弁天谷はどうか。愛知県尾張地方には弥生遺跡が出土している。谷の文化圏の関西からも多数の人が来たと思われる。
コトバンクから引用すると
「弁才天 べんざいてん
仏教の守護神。
知恵,弁舌,技芸の女神。もとはヒンズー教の河神。8本の手で各種の武具をもつ座像,あるいは2手で琵琶(びわ)をもつ座像として表現される。日本では奈良時代から弁才天信仰がはじまり,江戸時代には弁財天ともしるされ,蓄財の神,七福神のひとりとして庶民の信仰をあつめた。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例」とあった。比較的新しい歴史がある。
当貝津川と栗島川(上流で西川谷と弁天谷と変わる)の出合いには赤沢弁財天があり霊水をウリにしている。つまり信仰が由来だった。
奥三河・栃洞を溯行 ― 2019年08月25日
豊川水系澄川、鰻沢に続いて、設楽町の栃洞を溯行。記録を検索するとここは7/11に豊川山岳会が遡行した記録がヒットした。東三河の宇連山、三ッ瀬明神山などの地域研究に実績がある山岳会である。
https://toyokawa-ac.jp/sawanobori/19421
を見ると中々に素晴らしい渓相のようだ。但し伐採地があることと堰堤越えがあるので彼らが沢から上がった堰堤から上流を遡行することとした。もっとも興味があるのは上流の二又の左又の岩記号なのだ。そこに何があるのか。
一社駅前を6時半に出発、鞍ヶ池SICを出て足助からR420へ。新段戸トンネルを抜けると設楽町になる。鰻沢への道を左に見て、今日は栃洞なので豊邦橋から落合橋まで比高150m以上下る。
8時過ぎ、落合橋で左折、生コン工場の廃墟を過ぎるとしばらくで木地師の山里である西川へ行く町道の分岐を左折する。すぐにゲートがある。ここが栃洞林道の入り口だ。
栃洞林道をテクテク歩いて、伐採地を過ぎる。中流部にある堰堤から入渓した。三角点838.7mの北東辺りになる。比高約350mちょっと、平流に近いのでそんなに迫力はない。まあまあの変化はあった。ふたたび堰堤が現れたので一旦は林道に上がり再度入渓。しばらくすると地形図の二股から左へ。大規模な石組の崩壊地があり、谷に雪崩れて落ちている。右岸側に流れが変わり沢芯は大荒れである。荒れた谷底もすぐに落ち着いた。美しい滑が続くのです。
そして苔むした石組はかつての森林鉄道の産業遺跡でした。美しい石垣が一部残っていました。今は木材運搬の役目は栃洞林道に引き継がれています。
渓相は滑、地形図の岩記号は滑だった。金沢栃洞林道に架かる牛渡橋の手前から支流を遡り、標高点930m付近に上がった。林道を歩きながら行くと出来山登山口の看板があった。破線路は不明なのでその先の林道の二又を左折。ここは行き止まりになる。地形図にない林道なので伐採地を下って地形図の林道に降り立ちました。つまり破線路は今はもうない道です。
林道から標高点942mへの破線路を探りながら歩くが、何となく切り開きはあったものの植林帯では面白くもないので林道をそのいまま辿りました。そして標高点880mを越えた破線路と林道の交差する地点から桑平に続く尾根に入ります。この切り分けはとても手入れされていて良い状態でした。三等三角点:豊邦に寄り道し下山。地形図の破線路は何とか今も生きている山道です。昔は牛や馬も歩いたんでしょう、カーブはS字形になって掘れこんでいます。牛に栃の板を運ばせたそうです。
ところが一旦車道へ降りたものの墓地へ通ずる道でした。また破線路の旧道を下りましたがここはもう草深く廃道で、通電できる網があって道路は出れなかった。それで水路をくぐって車道へでた。しかしこの車道も私道に近い町道で左にある民家で行き止まり。老人に山の事情を伺って時間を過ごしました。森林軌道の仕事をしたことがあったそうです。昭和35年ごろのことと言います。結局、神社へは見過ごし、送電鉄塔の巡視路の道も見過ごしてしまい車道を歩くしかないと覚悟した。
桑平から車道を歩き、途中でまた老農婦と立ち話。11月ごろの滝洞は奥入瀬みたいだ、勧めてくれました。車道を下り一旦R402へ出て落合橋を左折して車へ。約10時間。身支度して出発時は午後7時でもう暗くなりました。山は秋になったのです。生コンの工場は団子島製品事業所というようです。今は灯も消えて寂しいところです。
参考サイト
新城営林署の森林鉄道
http://nishimiyaushiro.web.fc2.com/haisen/shinshiro/shinshiro_ltop.html
上の一部
田峰森林鉄道栃洞線
http://nishimiyaushiro.web.fc2.com/haisen/shinshiro/tochihora_l1.html
田口線(田口鉄道)、今蘇る
http://www.tokai-mg.co.jp/taguchisentop.htm
https://toyokawa-ac.jp/sawanobori/19421
を見ると中々に素晴らしい渓相のようだ。但し伐採地があることと堰堤越えがあるので彼らが沢から上がった堰堤から上流を遡行することとした。もっとも興味があるのは上流の二又の左又の岩記号なのだ。そこに何があるのか。
一社駅前を6時半に出発、鞍ヶ池SICを出て足助からR420へ。新段戸トンネルを抜けると設楽町になる。鰻沢への道を左に見て、今日は栃洞なので豊邦橋から落合橋まで比高150m以上下る。
8時過ぎ、落合橋で左折、生コン工場の廃墟を過ぎるとしばらくで木地師の山里である西川へ行く町道の分岐を左折する。すぐにゲートがある。ここが栃洞林道の入り口だ。
栃洞林道をテクテク歩いて、伐採地を過ぎる。中流部にある堰堤から入渓した。三角点838.7mの北東辺りになる。比高約350mちょっと、平流に近いのでそんなに迫力はない。まあまあの変化はあった。ふたたび堰堤が現れたので一旦は林道に上がり再度入渓。しばらくすると地形図の二股から左へ。大規模な石組の崩壊地があり、谷に雪崩れて落ちている。右岸側に流れが変わり沢芯は大荒れである。荒れた谷底もすぐに落ち着いた。美しい滑が続くのです。
そして苔むした石組はかつての森林鉄道の産業遺跡でした。美しい石垣が一部残っていました。今は木材運搬の役目は栃洞林道に引き継がれています。
渓相は滑、地形図の岩記号は滑だった。金沢栃洞林道に架かる牛渡橋の手前から支流を遡り、標高点930m付近に上がった。林道を歩きながら行くと出来山登山口の看板があった。破線路は不明なのでその先の林道の二又を左折。ここは行き止まりになる。地形図にない林道なので伐採地を下って地形図の林道に降り立ちました。つまり破線路は今はもうない道です。
林道から標高点942mへの破線路を探りながら歩くが、何となく切り開きはあったものの植林帯では面白くもないので林道をそのいまま辿りました。そして標高点880mを越えた破線路と林道の交差する地点から桑平に続く尾根に入ります。この切り分けはとても手入れされていて良い状態でした。三等三角点:豊邦に寄り道し下山。地形図の破線路は何とか今も生きている山道です。昔は牛や馬も歩いたんでしょう、カーブはS字形になって掘れこんでいます。牛に栃の板を運ばせたそうです。
ところが一旦車道へ降りたものの墓地へ通ずる道でした。また破線路の旧道を下りましたがここはもう草深く廃道で、通電できる網があって道路は出れなかった。それで水路をくぐって車道へでた。しかしこの車道も私道に近い町道で左にある民家で行き止まり。老人に山の事情を伺って時間を過ごしました。森林軌道の仕事をしたことがあったそうです。昭和35年ごろのことと言います。結局、神社へは見過ごし、送電鉄塔の巡視路の道も見過ごしてしまい車道を歩くしかないと覚悟した。
桑平から車道を歩き、途中でまた老農婦と立ち話。11月ごろの滝洞は奥入瀬みたいだ、勧めてくれました。車道を下り一旦R402へ出て落合橋を左折して車へ。約10時間。身支度して出発時は午後7時でもう暗くなりました。山は秋になったのです。生コンの工場は団子島製品事業所というようです。今は灯も消えて寂しいところです。
参考サイト
新城営林署の森林鉄道
http://nishimiyaushiro.web.fc2.com/haisen/shinshiro/shinshiro_ltop.html
上の一部
田峰森林鉄道栃洞線
http://nishimiyaushiro.web.fc2.com/haisen/shinshiro/tochihora_l1.html
田口線(田口鉄道)、今蘇る
http://www.tokai-mg.co.jp/taguchisentop.htm
沢登りの事故多発 ― 2019年07月23日
インターネットにキーワードを仕掛けて情報収集する。すると最近は沢登りの死亡事故が増えたと感じる。7/21に山梨県丹波山村の小室川で沢登り中、流れに落ちた。仲間が引き上げた。すでに意識なく自力下山ができず、そこの場に寝かせたまま引き返して警察に通報。今日捜索で死亡が確認された。もう一件は同じ山梨県の東沢溪谷で沢下り中の事故で行方不明だったが、7/20に死んだ状態で発見されている。
沢は梅雨明け前の大暴れで増水中であったと思われる。滝つぼに落ちることはあるが水量によっては自力で泳げることもあろうが水位が高いと巻き込まれて溺れる。この怖さがプールで育った都会っ子には想像できないのだろう。
子供時代は自宅のちょっとした中小河川が遊び場だったから夏休みに入ると毎日川遊びが日課になった。釣りも鰻捕り、今でいうボルダリングも思うがままだった。川や自然の怖さを知らずに育った子が大人になって身に付くのは知識と技術だけなのでどこでどう使うかは懇切丁寧に教えないと理解されない。
ちょいと落ちたらヤバいなと思ったらロープを出すことである。確保することでしか対策はないのではないか。転落してからの救助技術をいう人もいるがまずは落ちないことだ。ロープでつながる安心感があると落ちないものである。落ちてもつながっているのだから。
沢は梅雨明け前の大暴れで増水中であったと思われる。滝つぼに落ちることはあるが水量によっては自力で泳げることもあろうが水位が高いと巻き込まれて溺れる。この怖さがプールで育った都会っ子には想像できないのだろう。
子供時代は自宅のちょっとした中小河川が遊び場だったから夏休みに入ると毎日川遊びが日課になった。釣りも鰻捕り、今でいうボルダリングも思うがままだった。川や自然の怖さを知らずに育った子が大人になって身に付くのは知識と技術だけなのでどこでどう使うかは懇切丁寧に教えないと理解されない。
ちょいと落ちたらヤバいなと思ったらロープを出すことである。確保することでしか対策はないのではないか。転落してからの救助技術をいう人もいるがまずは落ちないことだ。ロープでつながる安心感があると落ちないものである。落ちてもつながっているのだから。
奥三河・出来山へ鰻沢を遡る ― 2019年07月21日
朝6時30分一社駅前に5名が集合出発。すぐに名古屋ICに入り、鞍ヶ池SICを目指す。約30分で県道に出て足助町はすぐである。さらにR420から設楽町へ走り新段戸トンネルをくぐると豊邦大橋を渡る。この下が鰻沢と別の沢が合流して鰻ノ沢になる。下流は当貝津川で豊川になる。
橋を渡り切ってすぐに左折するに林道になるが二又になる。両方とも先のゲートで進入はできず662m付近に駐車。先行車が1台止まっていた。
身支度後左の林道を行くと鰻ノ沢の支流の鰻沢にかかる橋の上に立つ。橋のたもとから藪を分けて入渓する。最初に中々の美渓を思わす釜があった。しかし段差がない。岩質は不明ながらこの先ずっと磨かれたような岩の露頭が続く。
しばらくで鰻沢林道の2号橋の下をくぐる。未確認だが入渓地点の橋が1号橋だろう。同行者の1人がまったりした良い沢だという。確かに圧倒するような滝はなく、飲み込まれそうな渕もない。迫力に欠ける。登山道と同様にどんどん遡る。時々斜瀑もあるが平凡な渓相に飽きたころ、3号橋?に到達。左の草むらを分けて林道に上がり、橋の上流に出る。
ここで鰻沢林道は終わり、足助町から来る金沢栃洞林道になる。ふたたび入渓するとしばらくで850mの等高線の広がる二又になる。本流は水量の多い左又か。古い文献ではアンコ沢と鰻沢の分岐という。どっちか不明ながら左又よりやや水量で劣る右又に入る。
ここで左又を探ると何とかつての森林鉄道段戸山線田峰鰻沢線の橋の残骸と石組の基礎を発見した。さすがにレールは撤去されてはいたが多分油分の多い木材の橋梁が朽ちたまま沢にまたがる。入渓地への林道は森林鉄道の廃線跡だったのだ。R420もそのままではないが少し上に廃線跡があるようだ。
HPのトップは
http://www.tokai-mg.co.jp/taguchisentop.htm
その中の 田峰鰻沢線の6を貼り付ける
http://www.tokai-mg.co.jp/unagisawasen6.html
「田峰鰻沢線は昭和6年から28年にかけて施設され33年に撤去された。田峰栃洞線は昭和7年から26年に施設され、昭和34年から37年にかけて撤去された。このように施設と撤去がほとんど同時に行われているのはおそらく施設しながら近くを伐採し、終わったら次々と先へ伸ばしていき、終点近くでの伐採が終われば、少しずつ撤去しながら残りの部分を伐採していったためだろう。」とある。
私どもの駐車地点には地形図で民家の記号があったが今は廃村になり草地で植林されている。
さて、二又を右へ振った。
等高線が緩いので沢も穏やかなままである。倒木や藪が覆うこともなく出来山直下の奥の二又まで来てしまった。直登すると足助町との境界尾根に達するが、山頂へは遠ざかるから沢から離れて枯れ笹の覆う山腹の踏み跡を追っていくと標高1000mの林道に着いてしまった。山林は縞枯れ状に伐採(択伐)されている。比高53mしかないので5mの幅のある伐採跡を登ると1等三角点のある山頂だった。車デポ地点は8時過ぎで登頂は13時だった。5時間ほどのまったり沢登りであった。
下山も同じ択伐地を下り林道をたどって左折、金沢栃洞林道に合流、林道をさっさとあるくと滝洞林道を分ける。そのまま下ると鰻沢林道に出て忠実に下るのみだった。
結果、鰻沢とは何だったのか。鰻が生息するような環境ではないと思う。渓相も掴みどころのない鰻の寝床のようにどこまでも奥深く伸びる沢の意味か。土用の丑の日は昨日の20日だった。1匹でも見つかれば捕まえてみようと思ったが、当てが外れた。
1日中天気はもって良かった。足助町の「百年草」(午後4時30分受付終了、300円)に入湯して帰名した。明るいうちに名古屋に着いた。
橋を渡り切ってすぐに左折するに林道になるが二又になる。両方とも先のゲートで進入はできず662m付近に駐車。先行車が1台止まっていた。
身支度後左の林道を行くと鰻ノ沢の支流の鰻沢にかかる橋の上に立つ。橋のたもとから藪を分けて入渓する。最初に中々の美渓を思わす釜があった。しかし段差がない。岩質は不明ながらこの先ずっと磨かれたような岩の露頭が続く。
しばらくで鰻沢林道の2号橋の下をくぐる。未確認だが入渓地点の橋が1号橋だろう。同行者の1人がまったりした良い沢だという。確かに圧倒するような滝はなく、飲み込まれそうな渕もない。迫力に欠ける。登山道と同様にどんどん遡る。時々斜瀑もあるが平凡な渓相に飽きたころ、3号橋?に到達。左の草むらを分けて林道に上がり、橋の上流に出る。
ここで鰻沢林道は終わり、足助町から来る金沢栃洞林道になる。ふたたび入渓するとしばらくで850mの等高線の広がる二又になる。本流は水量の多い左又か。古い文献ではアンコ沢と鰻沢の分岐という。どっちか不明ながら左又よりやや水量で劣る右又に入る。
ここで左又を探ると何とかつての森林鉄道段戸山線田峰鰻沢線の橋の残骸と石組の基礎を発見した。さすがにレールは撤去されてはいたが多分油分の多い木材の橋梁が朽ちたまま沢にまたがる。入渓地への林道は森林鉄道の廃線跡だったのだ。R420もそのままではないが少し上に廃線跡があるようだ。
HPのトップは
http://www.tokai-mg.co.jp/taguchisentop.htm
その中の 田峰鰻沢線の6を貼り付ける
http://www.tokai-mg.co.jp/unagisawasen6.html
「田峰鰻沢線は昭和6年から28年にかけて施設され33年に撤去された。田峰栃洞線は昭和7年から26年に施設され、昭和34年から37年にかけて撤去された。このように施設と撤去がほとんど同時に行われているのはおそらく施設しながら近くを伐採し、終わったら次々と先へ伸ばしていき、終点近くでの伐採が終われば、少しずつ撤去しながら残りの部分を伐採していったためだろう。」とある。
私どもの駐車地点には地形図で民家の記号があったが今は廃村になり草地で植林されている。
さて、二又を右へ振った。
等高線が緩いので沢も穏やかなままである。倒木や藪が覆うこともなく出来山直下の奥の二又まで来てしまった。直登すると足助町との境界尾根に達するが、山頂へは遠ざかるから沢から離れて枯れ笹の覆う山腹の踏み跡を追っていくと標高1000mの林道に着いてしまった。山林は縞枯れ状に伐採(択伐)されている。比高53mしかないので5mの幅のある伐採跡を登ると1等三角点のある山頂だった。車デポ地点は8時過ぎで登頂は13時だった。5時間ほどのまったり沢登りであった。
下山も同じ択伐地を下り林道をたどって左折、金沢栃洞林道に合流、林道をさっさとあるくと滝洞林道を分ける。そのまま下ると鰻沢林道に出て忠実に下るのみだった。
結果、鰻沢とは何だったのか。鰻が生息するような環境ではないと思う。渓相も掴みどころのない鰻の寝床のようにどこまでも奥深く伸びる沢の意味か。土用の丑の日は昨日の20日だった。1匹でも見つかれば捕まえてみようと思ったが、当てが外れた。
1日中天気はもって良かった。足助町の「百年草」(午後4時30分受付終了、300円)に入湯して帰名した。明るいうちに名古屋に着いた。
中ア・正沢川支流幸ノ川遡行 ― 2019年07月15日
朝4時起床。未明の中、朝食、テント撤収、パッキングを手早くやっても出発は6時になれば良い方だ。今日は事前の打ち合わせが良くて5時50分の出発になった。福島Bコースの林道を約1時間歩いて渡渉地即ち入渓地へ着く。濁りもなく、澄んでいる。水位は心配していた程ではない。渡渉の際の石は水面下にあるので増水は平水時に比して約10センチか。
7時過ぎ出発、約5時間で突破、12時前後に避難小屋の予定を確認。
身支度して入渓するとすぐに堰堤を越える。ここから記憶できないほどの小滝が現れる。有名な沢またぎの滝は取りつく前の釜が深く、Rが試みると胸の下までの水位があり、進むと水勢も強く足が着かないようなので巻くことにする。
その後は順調に滝を突破するが、基本的には高巻きを強いられる。左又の滑滝で落ち合う二股まで来たが、右又の滝が突破できない。左又から巻いて、右又の上から懸垂下降で本流に戻る。最後の二又では直登も高巻きもできず、午前12時を過ぎたので前途を中止して撤退を決める。とはいえ、どこを見ても藪ばかりだ。
地形図の避難小屋の印刷文字の避難がかかる尾根の末端に取りつく。見た目には藪で分からないが踏み跡がある。この踏み跡はすぐに樹林帯に入る。時々消えるが尾根の中心をたどれば戻ってくる。下部は胸を突く急登だったが上部ではやや緩んだ。
谷歩きといっていた古い時代、あの滝の登攀を諦めた多数の登山者がこの尾根をたどったのであろう。多かったからこんな踏み跡になった。今は沢登りの技術に岩登りが導入されて、撤退する場合は懸垂下降を繰り返すのだろう。実はそれも提案したが、古典的ながら尾根を登ることにした。
とはいえ、こちらは69歳の老登山者であり、昨夜の缶酎ハイ2本が祟ったのか、力がでないので遅れることしきり。しんがりを務める若いI君がザイルやハーネスを持ちますと申し出があり、情けないが温情に縋る。標高1850mから2400mまでの比高550mは忍の一字。
遅々とした歩みながら福島AとBの連絡路の水平「登山道にたどり着いた」、との先頭の声が谺した。この声を聴きたかった。ようやく遭難の2文字から解放される思いだ。年寄の冷や水の非難轟轟は大変辛いからなあ。崩壊現場をやり過ごすと赤い屋根の7合目避難小屋が見えた。大休止。
ここは2年前、ひざ痛克服記念登山として、単独でキビオ登山口からAコースを登り、水平道を経てBコースを下りキビオ登山口まで周回した。
後は福島Bコースを下るのみ。渡渉地まで戻るとほっと一息。車は我々1台のみになった。久々に駒の湯で汗を流す。
増水で天候不順の荒っぽい沢登りだったが参加者は面白かったと感想を述べてくれてほっとした。
7時過ぎ出発、約5時間で突破、12時前後に避難小屋の予定を確認。
身支度して入渓するとすぐに堰堤を越える。ここから記憶できないほどの小滝が現れる。有名な沢またぎの滝は取りつく前の釜が深く、Rが試みると胸の下までの水位があり、進むと水勢も強く足が着かないようなので巻くことにする。
その後は順調に滝を突破するが、基本的には高巻きを強いられる。左又の滑滝で落ち合う二股まで来たが、右又の滝が突破できない。左又から巻いて、右又の上から懸垂下降で本流に戻る。最後の二又では直登も高巻きもできず、午前12時を過ぎたので前途を中止して撤退を決める。とはいえ、どこを見ても藪ばかりだ。
地形図の避難小屋の印刷文字の避難がかかる尾根の末端に取りつく。見た目には藪で分からないが踏み跡がある。この踏み跡はすぐに樹林帯に入る。時々消えるが尾根の中心をたどれば戻ってくる。下部は胸を突く急登だったが上部ではやや緩んだ。
谷歩きといっていた古い時代、あの滝の登攀を諦めた多数の登山者がこの尾根をたどったのであろう。多かったからこんな踏み跡になった。今は沢登りの技術に岩登りが導入されて、撤退する場合は懸垂下降を繰り返すのだろう。実はそれも提案したが、古典的ながら尾根を登ることにした。
とはいえ、こちらは69歳の老登山者であり、昨夜の缶酎ハイ2本が祟ったのか、力がでないので遅れることしきり。しんがりを務める若いI君がザイルやハーネスを持ちますと申し出があり、情けないが温情に縋る。標高1850mから2400mまでの比高550mは忍の一字。
遅々とした歩みながら福島AとBの連絡路の水平「登山道にたどり着いた」、との先頭の声が谺した。この声を聴きたかった。ようやく遭難の2文字から解放される思いだ。年寄の冷や水の非難轟轟は大変辛いからなあ。崩壊現場をやり過ごすと赤い屋根の7合目避難小屋が見えた。大休止。
ここは2年前、ひざ痛克服記念登山として、単独でキビオ登山口からAコースを登り、水平道を経てBコースを下りキビオ登山口まで周回した。
後は福島Bコースを下るのみ。渡渉地まで戻るとほっと一息。車は我々1台のみになった。久々に駒の湯で汗を流す。
増水で天候不順の荒っぽい沢登りだったが参加者は面白かったと感想を述べてくれてほっとした。
久々に木曽駒高原へ ― 2019年07月14日
これまで天気図を連続してチエックしてきた。名古屋は毎日不順な天気だが、前日になって木曽町の天気は14日は午前中は降雨率50%、15日は30%まで改善してきた。これなら実行できそうだ。特に大雨の日があったわけではない。全山花崗岩の岩山なので、大雨で水位はすぐ上昇するが、降らなければ水位はすぐ下がる。平水よりは大目と推測する。
名古屋市内の集合場所で5名が落ち合う。中央道は久々である。最近は地道を走って高速代をけちることが多いのでかえって新鮮味がある。いつも利用すると何だか仕事に行くみたいだからこれも良い。
中津川からはR19へ。木曽の良いところは江戸時代から変わらないところであった。ちょっと奥へ入ると昔ながらの風物が残っている。郷愁の木曽路である。
木曽福島で今夜の買い物を済ませる。地場のスーパーはイオンになった。道の駅「日義木曽駒高原の手前で右折して、木曽駒高原に行く。雨ならスキー場の廃屋の軒先でテントを張る予定だったが、10年前の記憶ではテラスに見えたところは床板が腐って落ちていた。窓ガラスは開いているので中を覗くとドラマーが練習中だった。先ほどのペンションに多数の車があったが晩夏ならぬ梅雨時のジャズ祭でもあるのか。
福島Bコースの林道も走ったがテント適地はなく、駐車場の脇に張った。霧のションベンといわれる小雨が降る中をテント設営。BQのために炭を起こし、肉、ウインナなど焼きながら一杯やる。沢登りのために自制気味ながら缶酎ハイ2本、ビール1本を開けてしまった。明日は大丈夫か。
名古屋市内の集合場所で5名が落ち合う。中央道は久々である。最近は地道を走って高速代をけちることが多いのでかえって新鮮味がある。いつも利用すると何だか仕事に行くみたいだからこれも良い。
中津川からはR19へ。木曽の良いところは江戸時代から変わらないところであった。ちょっと奥へ入ると昔ながらの風物が残っている。郷愁の木曽路である。
木曽福島で今夜の買い物を済ませる。地場のスーパーはイオンになった。道の駅「日義木曽駒高原の手前で右折して、木曽駒高原に行く。雨ならスキー場の廃屋の軒先でテントを張る予定だったが、10年前の記憶ではテラスに見えたところは床板が腐って落ちていた。窓ガラスは開いているので中を覗くとドラマーが練習中だった。先ほどのペンションに多数の車があったが晩夏ならぬ梅雨時のジャズ祭でもあるのか。
福島Bコースの林道も走ったがテント適地はなく、駐車場の脇に張った。霧のションベンといわれる小雨が降る中をテント設営。BQのために炭を起こし、肉、ウインナなど焼きながら一杯やる。沢登りのために自制気味ながら缶酎ハイ2本、ビール1本を開けてしまった。明日は大丈夫か。
沢登りのパッキング ― 2019年07月13日
7/14から7/15にかけて中央アルプスの沢登りへ行く予定。参加者は最終的に5名になった。忘れ物がないように入念にパッキングをする。先だっての打ち合わせで必要な道具類、テント泊の準備に必要なものは列挙してある。それ以外に夏なので蚊取り線香を加えておく。命に関わるほど重要ではないが、無いと虫刺されに一晩悩まされる。カメラの電池の充電もチエックする。沢登りは濡れるのが必至なので雨合羽も半袖の羽毛ジャケットも名古屋市のゴミ袋にパッキングして置く。
スノーブリッジ ― 2019年07月02日
昨日は事務所の雨傘を持ち帰った。3日は午後から大雨が予想されるので、ビニール傘ではない、しっかりした傘が必要と思われる。東南アジアには台風4号も発生した。これから大暴れの時期に入る。
これだけ降雨が激しくなると、高山の雪解けも進むだろう。源流部にも流れができて雪渓の流れの部分が解ける。するとシュルンド、クレバス、スノーブリッジも発達する。そして最後には崩壊する。
シュルンド
https://www.yamareco.com/modules/yamanote/detail.php?nid=81
スノーブリッジ
http://www.bunanokai.jp/archives/8849/p7060071%E3%82%B9%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%B8%E3%82%92%E3%81%8F%E3%81%90%E3%82%8B%E5%96%9C%E5%AF%85%E3%81%8F%E3%82%93
https://blog.goo.ne.jp/yamatosoba0729/e/4f3c321e04ccf5efddbbebd0b18e7668
7月中旬には中央アルプスの沢登りを再開する。そのころまでにスノーブリッジが壊れていると良いのだが。かつてはブリッジの空洞を抜けると危ないので上部をそろそろ巻いていった。巻き終わったらドーンという爆音とともにスノーブリッジが崩壊した。もし人がくぐっていたらと思うとぞっとした。首の骨を折って死亡しただろう。
これだけ降雨が激しくなると、高山の雪解けも進むだろう。源流部にも流れができて雪渓の流れの部分が解ける。するとシュルンド、クレバス、スノーブリッジも発達する。そして最後には崩壊する。
シュルンド
https://www.yamareco.com/modules/yamanote/detail.php?nid=81
スノーブリッジ
http://www.bunanokai.jp/archives/8849/p7060071%E3%82%B9%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%B8%E3%82%92%E3%81%8F%E3%81%90%E3%82%8B%E5%96%9C%E5%AF%85%E3%81%8F%E3%82%93
https://blog.goo.ne.jp/yamatosoba0729/e/4f3c321e04ccf5efddbbebd0b18e7668
7月中旬には中央アルプスの沢登りを再開する。そのころまでにスノーブリッジが壊れていると良いのだが。かつてはブリッジの空洞を抜けると危ないので上部をそろそろ巻いていった。巻き終わったらドーンという爆音とともにスノーブリッジが崩壊した。もし人がくぐっていたらと思うとぞっとした。首の骨を折って死亡しただろう。
三ッ口谷を遡行し鈴鹿・鎌ヶ岳へ ― 2019年06月23日
久々に鈴鹿の沢登りを楽しんだ。ルートは三ツ口谷を遡行して鎌ヶ岳に登頂するというもの。メンバーは4人。金山駅前を7時に出て、白川で1人拾う。後は一路菰野ICへ走る。約50kmでもう登山口に着く。その間PA,コンビニはなく、直行になった。
スカイラインのPには誰もいないのは降雨の予報から出控えたか。入った記憶はあるがもう20年以上前のことで細かい記憶にはない。なるだけ沢身に入るように遡ったが、登山道も適宜歩いた。詰めの手前で長石尾根に上がり登頂する。山頂もいつもと違って単独行が2名いただけ。
アマテラスに参拝後、滑落に神経を使いながら下山した。幸いに名古屋まででも降雨はなく予報は外れた。ラッキーだった。
スカイラインのPには誰もいないのは降雨の予報から出控えたか。入った記憶はあるがもう20年以上前のことで細かい記憶にはない。なるだけ沢身に入るように遡ったが、登山道も適宜歩いた。詰めの手前で長石尾根に上がり登頂する。山頂もいつもと違って単独行が2名いただけ。
アマテラスに参拝後、滑落に神経を使いながら下山した。幸いに名古屋まででも降雨はなく予報は外れた。ラッキーだった。
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