神の留守目に付く紙垂の白さかな 拙作2022年11月11日

 網掛山の麓にある鄙びた神社に参拝すると神の留守故に閑散としている。そんな雰囲気でも紙垂だけは新しいものかよく目に付いた。これがないと本当に寂れた感じがより強まる。紙垂が垂れていることで神域を意識させる。

目の前でごろりと寝るや秋の猫 拙作2022年11月09日

 11/5の網掛山の登山口にて。下山すると駐車場の前に地の猫が遊びに来た。車道で寝転んだり、歩いたりこちらへじわじわ近づいてきた。猫が好きな人は近づいてきたら撫でてやったりするんだろう。こちらは猫嫌いなので構わない。構わないからそっぽを向かれる。それでも猫も孤独なんだろうか。私の周りをふらふら歩いている。飼い猫はやっぱり人がすきなだろう。ちょっと相手をしてやりたかった。

網掛山2022年11月05日

 11/5は久々に紅葉を楽しんだ。山は網掛山である。
 紅葉シーズンは国道153号は足助を中心に渋滞があると思って中央道・園原ICから行くことにしました。11/4の夜、再度計画を見直した。松沢山は往復2時間程度なので、もう1山掛け持ちで登ることにした。園原のすぐ近くにある網掛山です。登り1時間30分、下り1時間くらいです。8時30分に出発できれば11時には下山できる。移動時間を考えても松沢山は12時から登れる。と再計画した。
 ところが走ってみると中央道は多治見から瑞浪付近で工事中と分かった。15分で通過できると電光掲示板にはあったが実際には30分以上の大渋滞にはまった。
 網掛山の登山口の中平には何とか着いたが、駐車場がない。仕方なく神社の駐車場に置かせてもらった。中平は干し柿の仕込みで柿を収穫中でした。渋柿をもぎ取り皮をむいて干す。白い粉を吹いて甘い市田柿になる。
 9時過ぎの出発になった。登山道は東山道という古道から網掛峠までが1時間、山頂までが30分で道標完備の素晴らしいハイキングでした。何にも増して感動させたのは山全体が紅葉していたことです。峠までは植林ですが峠付近から山頂までは写真撮りまくりでなかなか先に進めなかった。
 山頂には着いたが展望はなし。他には登山者なし。 
 下山は1100mの等高線が北東に伸びるゆるやかな尾根を下った。ここも疎林が広がり紅葉が素晴らしかった。1050m等高線まで来ると東の展望台があり南アルプス全山が見渡せた。今日は3000mの稜線は曇りであった。分かったのは奥茶臼山、双耳峰の池口岳です。ここから昼神温泉もばっちり俯瞰できた。
 展望台からは林も密になったが紅葉は続く。登山道は地形図には著されていないがジグザグの急斜面です。茸採りにあったがまだ早かったらしい。蛇も見た。この時期は穴惑いともいう。他の蛇は彼岸過ぎには穴に入り冬眠に入るがまだ外が良いわ、という蛇である。保護色のせいか茶色に見える。
 ぐんぐん下って地形図に無い林道に降り立つ。歩いてゆくと朝の神社の近くまで来た。Pまで来ると猫が迎えてくれた。
 12時が過ぎた。この山で充分秋山は楽しんだ。もう良いか、と前途を中止することも考えたが行って見た。R153を大野まで走る。ここから山里に入る地道に左折。迷路のような里道を右往左往しならがら松沢山の林道に入った。舗装はされているが両側の刈払いがないのでボディが枝でこすれてしまう。嫌な音がする。登山口の峠に着く。ここも地形図に無い林道がある。近くには駐車場もあるが登山口の案内はない。
 13時過ぎにとりあえず登山靴を履いて緩やかな尾根を登った。この登山道は南北に長いので午後1時30分というのにすでに日陰になっている。先ほどの明るさはなく薄暗い。太陽の位置を見ると今にも日没してしまいそうな気がする。飯田市の日没時間は16時49分なのでまだ十分往復は可能だが、網掛山の下りで太ももの筋肉を使ったせいで膝が上がらず、モチベーションの低下でUターンした。
 下ると14時前で明るい。もったいない気がするがまあこれで良いか。60代から80代の行方不明者も多いし事故は絶えない。当事者にはなりたくないから控えめにやろう。
 R153に戻って走ると交通量が多い。今日はたくさんの行楽のドライブが居たんだろう。ここでも工事中で2度信号待ちした。あちこちで工事だらけだ。11月は混むぞ。

杣路峠を越えた人々2022年06月29日

愛知県旧稲武町の野入町のR153にある案内板
1尹良親王・・・南朝時代の後醍醐天皇の孫

2菅江真澄・・・江戸時代後期の紀行家

3武田信玄・・・戦国時代の武将

4武田勝頼・・・信玄の子

6中馬街道(塩の道)・・・三河湾で製塩して川船で岡崎へ。足助で馬に積み込んで塩尻まで運んだ。

6善光寺・秋葉・伊勢参りの参詣客・・・伊勢神峠は伊勢を遥拝(拝む)する信仰の拠点だった。伊勢までは遠くここでUターンしたものかどうか。

7食い物・・・味噌醤油は大豆と塩から作る。塩の道で信州に販路が広がり、携帯に便利なファーストフードが開発された。即ち、五平餅である。

・三河ではご飯を杉の板につぶして小判型にまとめ、炭火で焼いて味噌だれを掛けたものを食う。

・稲武を美濃へ行くとだんご形の五平餅が多い。木曽街道はだんご形だ。ところが塩尻は小判型になる。混沌としている。

・飯田にも小判型の五平餅がある。

・最北は信州の鳥居峠の茶店だった。


根羽村のHPから

       歴史について
 古代・中世の根羽・月瀬村両村は三河の国に属していました。
 現在の愛知県東加茂郡全域と豊田市・西加茂郡・北設楽郡及び長野県の旧根羽村・月瀬両村を含む広大な区域は、古代の 平安時代(794~1.185)後半に高橋新荘が成立し、中世に入り鎌倉時代(1.185~1.331)には鎌倉御家人の荘官足助氏の 支配下に入ったと伝えられています。
 根羽の地は鎌倉時代は加茂郡名倉郷にあり、南北朝時代には加茂郡足助庄に属した とされています。 享禄年間(1.528~)には阿南町新野の関氏の勢力が三河に及び、天文十年(1.541)には旧根羽村・月瀬村に及んだと されています。 天文十三年八月十三日、下條氏によって関氏は滅ぼされ、下條氏の支配下に入ったのは、弘治ニ年(1.556)新野峠が 武田軍によって改修され、下條信氏が武節谷合戦で功を上げた頃と思われます。
 信玄南下作戦の一環として元亀二年(1.571)四月、足助松山城が攻略され、根羽・月瀬両村はこの時以降武田領となり 三河国から信濃国に編入となった。
 以後、天正十年(1.582)武田氏滅亡により、織田知行所に変わり、同年、織田信長の 自刃により徳川氏の天領となった。宮崎信州代官・飯島代官所支配などを経て、慶応四年(1.868)尾州取締所預かりとなり、 同年八月の廃藩置県により伊那県に編入となった。 明治四年(1.871)筑摩県、同九月に長野県となり、。
 明治8年(1875年)1月12日、根羽村と月瀬村が合併し、現在の根羽村 となり、今日に至っています。16世紀までは、三河国加茂郡に所属していた経緯もあり、隣接する豊田市、さらに西三河の刈谷 市・安城市とも交流がある。村内を流れ三河湾に注ぐ矢作川や、豊田市と通じる国道153号の影響で、愛知県西三河地域と の結びつきが強い。
以上

 HP「古い町並み」から
 東海地方より信濃・信州への入り口に位置し、古くより「塩の道」として三州(伊那)街道に沿う村落として開けたものと推測される。古くは三河国足助郷に属し、室町時代には関氏の、その後下条氏の、続いて武田氏の支配下にあった。
 伊那街道(現国道153号線)16宿の最南端に位置し、岡崎・名古屋に通じる足助道(現国道153号線)、南方の折元峠を経て新城方面に向かう新城道、その他、岩村・明智に向かう岩村道などが交わり、中馬の往来が盛んで問屋や馬宿多数が存在した。
 そこへ江戸中期より善光寺・秋葉・伊勢参りの参詣客が加わり、根羽宿は荷問屋・旅籠・馬宿・茶屋などが並び賑わった。
 中馬頭数は宝暦10年(1760)5戸20頭が天保13年(1842)には63戸250頭になり、農間余業から漸次専業化した。明治に入ると更に増加し、明治19年には飼育頭数426頭を数えた。
 明治14年の中馬宿は14軒で、半年間に泊まった中馬数は8,400頭に及んだ。
 今、根羽村の中心地、街道の交差する辺りを歩くと、旅籠屋の形態を残した家屋が多く見られる。只、私自身中馬宿を知らないので、旅籠屋形式の建物でも中馬宿だったかもしれない。交差点あたりにゴハンギョと呼ばれる明和8年(1771)の道標石がある。この辺りが宿の中心だったようだ。
以上
・・・稲武の後山は秋葉信仰の山だった。石碑も新しいのでまだ何らかの信仰の行事は継続しているだろう。「後山」のみを検索すると1344mの岡山県の最高峰のみヒットする。国地院のHPで「後山」を検索するとたくさんヒットする。トップが稲武の後山になる。順序の意味は不明。

三信国境の杣路峠2022年06月28日

 山岳古道の調査のために歩いた。江戸時代は飯田街道と呼ばれた。今の国道153号である。名古屋市から豊田市足助町、稲武町、長野県飯田市へと通じる。三河湾で取れた塩を足助まで運び、荷馬に載せて塩尻市まで運んだから塩の道ともいう。今回は飯田街道のうち、昔のままに残されている峠の山道を歩いた。
 最初は伊勢神峠を上下した。ここは東海自然歩道に整備されて道標が建ち、誰でも手軽にハイキングが楽しめる。多くの峠が車道になる中でここは古い時代に一車線分の幅のトンネルが掘られて峠越えはない。更に下にトンネルが掘られている。そして新たに大型車がすれ違える幅の新トンネルが工事中である。
 伊勢神峠は斃れた荷馬を弔うための馬頭観音も建っていた。塩は重いから馬も喘ぎ喘ぎ上り下りしたであろう。歴史遺産とも言える。結構太い杉木立がいい雰囲気の峠道だった。ここは短いので早く下山したから次の目的地の杣路峠の入り口に向かった。
 国道153号を東へ向かい稲武を通過、木地山の先に入り口がある。しばらくは林道を歩くが少しで沢沿いの山路に入る。伊勢神峠道と違ってここはまったくの未整備だから、道幅は狭く、沢に架かる橋も壊れそうだ。やがて沢から離れるが、道は左折するところを直進してしまった。途端に道らしい雰囲気はなくなり、右往左往して道の痕跡を探す。沢の左岸に石仏を眺めると峠道とすっかり信じた。それでも道らしい気はしない。地形図では沢から離れ山腹の破線路に描かれる。結局、おかしいので左へ左へと徒労とも思えるトラバースをしてやっと峠道と確信できる踏み跡に到達した。そこからすぐに愛知県と長野県境の境の道標の建つ所に着いた。ab780m付近。信じられないほど緩やかな蛇行を繰り返して大きなブナの木のあるユキヨシ親王の社に着いた。ここは以前、長野県側から来たことがある。そうして新たな林道をたどると待望の杣路峠だった。とはいえ、新たな林道の工事で切通しになり、石仏ははるか上に見え、峠によくある道標はなく、通り過ぎた。メンバーの一人が何気なく見た印が杣路峠の道標だった。プラスチック製のお粗末なものである。これで目的は完遂した。
 林道が四方に分かれている。885mの3等三角点畑ヶ洞は徒歩30分程度とみて帰りがけの駄賃に触りに行くことにした。展望、山頂標もなく、頂上らしくもないが、本来の山頂はこんなもので素っ気ない。ここで初めておにぎり一つを食した。久々の山行で軽登山ではあるが腹筋が締まって空腹感はないので水分はごくごく飲んでいる。
 後はそろそろと下山。県境に戻り、峠道の発見場所からは未知の峠道になる。まことに歩きやすく、ずいぶんカーブもしている。重い塩を背負った馬がゆっくりと体に負荷を減らすように緩やかなカーブになっている。一か所は決壊場所もあったが上から巻いた。問題の道迷いの分岐には大きな栃の木があった。直進すると枝道と分かった。そこで少し戻ってみたら栃の木のあるところで左へ急カーブしていた。ここだったんだ。
 道迷いの原因も判明して車に戻った。国道153号を走り、水別峠の手前で中馬記念館?に入館し塩の道をにわか勉強した。すべて終わり意気揚々と帰名。

ほのぼのと 空けゆく空をながむれば 月ひとり住む 西のやまかげ 尹良親王2022年06月12日

・尹良(ゆきよし)親王供養塔
(豊田市御所貝津町)
信濃国と三河国の国境地帯の各地には、南北朝の動乱の悲劇として「ユキヨシ様」伝説が広まっており、ここ稲武にも伝わる。かの柳田國男翁も『東国古道記』で考察している。

・御所屋に建つ尹良親王の歌碑
(豊田市黒田町)

真弓山を詠われたという。

ほのぼのと
空けゆく空をながむれば
月ひとり住む
西のやまかげ

・ユキヨシ様
「ユキヨシ様」は伊那谷から北三河・北遠江にかけての国境地帯にて祀られる習俗が広く分布しており、この信仰に関して民俗学の側面から着目したのが柳田國男であった。柳田は「東国古道記」の中で、およそ次のように述べている。「かつて中部山岳地帯と海岸を結び付ける道は秋葉街道だけであったが、やがて浪合を通り飯田・根羽に連なる三州街道(飯田街道)が開けてきて、その段階で津島神社の御師たちが入り込み、土着的な山路の神『ユキヨシ様』を旅人の道中安全を守る守護神(一種の道祖神)へと変化させて山間に広く分布していった。これに加えて、浪合で戦死した南朝某宮に対する御霊信仰の要素が結合して尹良親王なるものが出現し、さらに津島神社や三河武士・徳川氏の起源伝承として存在意義が認められ、地元の口碑がその欲求に合うように内容まで多様に変型させられたのではなかろうか」。柳田の見解は伝説の史実化の過程を考える上で示唆するところが多く、特に津島信仰の絡み合いについては、柳田の洞察力が遺憾なく発揮されていると言えよう。「ユキヨシ様」は、近世の地方における南朝史受容の一コマを現代に語り伝えているのである。

もっとも、延宝から正徳頃までの浪合神社の棟札には、祭神を行義権現と記しているものがあるため、「ユキヨシ様」信仰は一元的ではないことがわかる。

・黒田正寿寺と尹良親王

 黒田の吉祥山正寿寺の開山は応永年間(一三九四~一四二七年)であり、尹良親王がこの地に滞在された時、お供の新田親氏が親王の言いつけで山号を吉祥山、寺号を正寿寺と名づけたといわれている。
 尹良親王は、お亡くなりになった妃の菩提を弔うために正寿寺を建立したといわれ、山門は『御所造り』になっている。(現在の山門の屋根は、平成になって葺き替えられている。)
 この正寿寺の建立の他にも、尹良親王にまつわる幾つかの伝説が伝えられている。
 正寿寺の裏山には御所屋(地元では尹良様と呼ぶ)という所がある。
現在は、尹良親王が読まれた歌の歌碑が建てられている。この歌の短冊は正寿寺にあり、親王の真筆と伝えられている。この他、正寿寺には、親王ご使用の『硯石』、親王ご筆写と伝えられる『大般若教三巻』、ご遊山の時お拾いになったという『鹿の玉』などがある。

2016. 5 No51 編集・発行 稲武地区コミュニティ会議広報部会豊田市稲武支所発行部数: 1,300 部
5P に交流館 Times:6P にゆいの輪を包括稲武地区人口状況(28 年 4 月 1 日現在)人口:2,461 人 世帯数: 1,009 世帯

・《稲武地区の尹良親王伝承一覧》

・尹良親王の腰掛石(御所貝津)
・地蔵峠の尹良社(御所貝津)
・正寿寺(黒田)
 ・尹良親王真筆の和歌が書かれた短冊
 ・尹良親王使用の硯石
 ・尹良親王筆写の『大般若経』(3巻)
 ・遊山(狩り)で見つけた鹿の玉
・尹良親王の歌碑(黒田)
・真弓橋(尹良親王が弓を杖に黒田川を渡った場所に架けられた橋)
・尹良親王の忠臣・青木の御子孫の家
 ・尹良親王の愛馬「龍の駒」の蹄の跡がついた石
 ・尹良親王使用の福州青磁の皿
 ・尹良親王使用の桑の木のお盆(お膳)
・地名「かんばあさ」:尹良親王の愛馬に草を食べさせた「神馬草」の転訛
・地名「御所貝津」:尹良親王の御所の垣内(かいと)

信州の古道~杣路峠2022年04月20日

 山岳古道の調査のために歩いた。江戸時代は飯田街道と呼ばれた。今の国道153号である。名古屋市から豊田市足助町、稲武町、長野県飯田市へと通じる。三河湾で取れた塩を足助まで運び、荷馬に載せて塩尻市まで運んだから塩の道ともいう。今回は飯田街道のうち、昔のままに残されている峠の山道を歩いた。
 最初は伊勢神峠を上下した。ここは東海自然歩道に整備されて道標が建ち、誰でも手軽にハイキングが楽しめる。多くの峠が車道になる中でここは古い時代に一車線分の幅のトンネルが掘られて峠越えはない。更に下にトンネルが掘られている。そして新たに大型車がすれ違える幅の新トンネルが工事中である。
 伊勢神峠は斃れた荷馬を弔うための馬頭観音も建っていた。塩は重いから馬も喘ぎ喘ぎ上り下りしたであろう。歴史遺産とも言える。結構太い杉木立がいい雰囲気の峠道だった。ここは短いので早く下山したから次の目的地の杣路峠の入り口に向かった。
 国道153号を東へ向かい稲武を通過、木地山の先に入り口がある。しばらくは林道を歩くが少しで沢沿いの山路に入る。伊勢神峠道と違ってここはまったくの未整備だから、道幅は狭く、沢に架かる橋も壊れそうだ。やがて沢から離れるが、道は左折するところを直進してしまった。途端に道らしい雰囲気はなくなり、右往左往して道の痕跡を探す。沢の左岸に石仏を眺めると峠道とすっかり信じた。それでも道らしい気はしない。地形図では沢から離れ山腹の破線路に描かれる。結局、おかしいので左へ左へと徒労とも思えるトラバースをしてやっと峠道と確信できる踏み跡に到達した。そこからすぐに愛知県と長野県境の境の道標の建つ所に着いた。ab780m付近。信じられないほど緩やかな蛇行を繰り返して大きなブナの木のあるユキヨシ親王の社に着いた。ここは以前、長野県側から来たことがある。そうして新たな林道をたどると待望の杣路峠だった。とはいえ、新たな林道の工事で切通しになり、石仏ははるか上に見え、峠によくある道標はなく、通り過ぎた。メンバーの一人が何気なく見た印が杣路峠の道標だった。プラスチック製のお粗末なものである。これで目的は完遂した。
 林道が四方に分かれている。885mの3等三角点畑ヶ洞は徒歩30分程度とみて帰りがけの駄賃に触りに行くことにした。展望、山頂標もなく、頂上らしくもないが、本来の山頂はこんなもので素っ気ない。ここで初めておにぎり一つを食した。久々の山行で軽登山ではあるが腹筋が締まって空腹感はないので水分はごくごく飲んでいる。
 後はそろそろと下山。県境に戻り、峠道の発見場所からは未知の峠道になる。まことに歩きやすく、ずいぶんカーブもしている。重い塩を背負った馬がゆっくりと体に負荷を減らすように緩やかなカーブになっている。一か所は決壊場所もあったが上から巻いた。問題の道迷いの分岐には大きな栃の木があった。直進すると枝道と分かった。そこで少し戻ってみたら栃の木のあるところで左へ急カーブしていた。ここだったんだ。
 道迷いの原因も判明して車に戻った。国道153号を走り、水別峠の手前で中馬記念館?に入館し塩の道をにわか勉強した。すべて終わり意気揚々と帰名。
 資料を見ても植生についての記述はない。しかし、ユキヨシ社の大ブナといい、最後に見た唯一の大栃も樹齢200年はあるだろう。あの石仏は寛政年間だった。220年前の徳川家斉の時代だ。当時は栃、ブナ、ケヤキなどの自然林の森であっただろう。あの大木は象徴的に残されたと思う。
 石仏はおそらくは岡崎市の石屋かも知れない。稲武の駒山には馬が列をなしたという。多数の馬が塩だけでなく石仏を運んだであろう。
 樹齢200年といえば、設楽町の学術参考林に残された原生林も200年位だった。ブナ、トチ、ケヤキなどの大木が多かった。
 段戸の国有林は戦前は御料林であり、江戸時代は天領だったから勝手に伐採は出来なかった。山周りのお役人も居たらしい。明治維新後に古橋が政府に伐採のお伺いをたてて井山が伐採された。杉、桧が植林された。

治部坂高原の詩2022年01月06日

 昨日はあれだけ晴れたのに今朝はもう猿投山も冬雲に隠れてしまった。雪も降っている。それでも蛇峠山のあの展望を写真を見ながら反芻するかのように楽しんでいる。
 ふと思い出したのは昭和17年に青木書店から刊行された尾崎喜八の詩集『高原詩抄』の『美ヶ原熔岩台地』の詩である。

 登りついて不意に開けた眼前の風景に               
 しばらくは世界の天井が抜けたかと思う              
 やがて一歩を踏みこんで岩にまたがりながら            
 此の高さにおける此の広がりの把握に尚もくるしむ         
 無制限な おおどかな                      
 荒っぽくて 新鮮な                       
 此の風景の情緒はただ身にしみるように本源的で          
 尋常の尺度にはまるで桁がはずれている
 秋が雲の砲煙をどんどん上げて                  
 空は青と白との目も覚めるだんだら                
 物見石の準平原から和田峠の方へ                 
 一羽の鷲が流れ矢のように落ちていった 
以上

 蛇峠山のパノラマ台に
 登りついて不意に開けた眼前の風景に
 伊那谷ってこんなにも開豁な谷だったのか
 曾遊の山々にあいさつを送った
 南北120kmにわたる赤石山脈の白い巨峰の並ぶ様に驚き
 赤石岳と聖岳の間の未踏の兎岳が気になる
 木曽駒は一つのまとまった大山塊に見える
 ここからは空木岳も前衛峰の1つじゃないか
 伊那谷の奥座敷に富士山型の山は蓼科山だ
 そして尾崎喜八の詩心を刺激した美ヶ原
 御嶽山も乗鞍岳も名脇役に徹しているかに見える
 恵那山は治部坂峠の向こうに大川入山、恩田大川入山を
 従えて三角錐の頭をすこし出している
 西からのドーム型の山容に見慣れた目には新鮮である
 
 スキー板を外すのももどかしく、
 ザックからカメラを出して撮りまくった
 景色の奴隷になったかのように

 ここはまぎれもなく信州の山
 今年初めてのスキー登山でした。

蛇峠山スキー登山2022年01月05日

 予定通り6時出発。朝食、買い物のロスで現地出発は9時20分ごろになった。Pの標高1187mあり、藤原岳の山頂と同じですので寒い寒い。
いつもは車で馬の背まで上がりそこから小一時間程度ですが、今日は積雪があるのでワカン代わりにスキー登山を試みました。
 車道から離れ別荘地を登ります。足跡はしっかりあって踏み固められているのでラッセルはない。馬の背に登ると景色が広がった。下って車道をそのまま行くルートと尾根への登山道に分岐します。もちろん車道を行きます。積雪は約30㎝くらい。吹き溜まりでも40㎝程度。風が強いところはセメントが出ている。
 ふうふう言いながらパノラマ台へ。御嶽山、木曽駒、乗鞍岳、槍穂高連峰、八ヶ岳と信濃富士らしい蓼科山。仙丈ヶ岳、甲斐駒から白根三山、荒川三山、赤石岳、聖岳、光岳まで白い巨峰のオンパレードでした。
 一旦下って登り返すと山頂ですが、余り良くないが、奥三河の山なみ、三河湾と思われる光の反射が見えた。素晴らしい展望に満足して下山開始。ある程度まで下ってシールをはがす。板に残った糊をスプレーでそぎ落とす。そろそろと滑り出すと快調で滑走できた。登りは3時間強なのに下りは58分でした。

山岳古道③秋葉街道ー小川路峠を越えたアルピニスト2021年02月15日

松濤明の遺稿集『風雪のビバーク』の中の春の遠山入りの中にこの秋葉街道の紀行が名文で紹介される。深田久弥も南アルプスからの帰りに下っている。木地師の墓がある。三十三体の観音様の石仏がある。
 遠山側の歩道は踏査していないのでこの機会に歩きたい。遠山谷の民宿に泊まったら、かつての馬宿だった。庭には名古屋コーチンが飼ってあった。文化は関東圏、経済は名古屋圏らしい。飯田線が開通するとあっという間に寂れた。
 北には中央道から分岐した三遠南信道路が開通を待つ。今は秋葉街道の入り口付近が工事中で、先に矢筈峠の下にトンネルが開通させている。矢筈峠は深田久弥が遠山谷へ入る際に越えた。