稲武の里山をめぐる2022年08月28日

 古道調査に絡んだ稲武通いもこれで7回目になった。古道踏査は2回で済んだが三河の宮・尹良親王の足跡調査に時間と手間がかかった。
 28日は道の駅「どんぐりの里」を起点にR153を歩いて黒田から正寿寺の道標から右折すると寺洞林道になる。御所屋(峠)の歌碑を確認するのも3回目になった。麓の有志が金50銭を出し合って建立したらしい。御醍醐天皇の孫を思う気持ちが伝わる。
 ほのぼのと明け行く空をながむれば月ひとり住む西の山かげ
中電の道標{REF}に従って破線路の道を登る。麓の黒田の地名の通り、この土も真っ黒である。湿地帯のじめじめした所には木が倒してある。ここを過ぎるとプラスチックの階段がありすぐに4等三角点「貝戸」に着く。中電の反射板があるが樹木で何も見えない。それに施設名の看板は外されているから廃棄されたのか。
 周囲は杉桧の高く育った疎林で気持ちの良い平になっている。緩斜面を東に向かってゆるやかに下る。800mの等高線を過ぎると段々痩せ尾根になり、踏み跡もしっかりしている。松の大木はこれまでもあったが尾根がはっきりすると同時に松尾根になった。『稲武の地名』ではこの辺りはマコと言い、下の方は松淵の地名がある。麓の4等三角点「西乳母が入り」から北へ直登してくる尾根との分岐には一升瓶など10本くらいが刺さっている。これが地元民が真弓山へ登る尾根の分岐の印であろう。
 ちょっとした鞍部から左右に踏み跡がかすかにあるが使えるかは不明。左の谷も顕著に深く見える。720mの真弓山(真弓城という本もあるが砦だろう)を経て矢竹に無事下山できた。杉、桧の植林山だが高く育っているのでヤブ、下草が生えていないので楽に歩けた。矢竹が近づくと下部は作業道が縦横に開かれていた。建設機械でやるので広くて林道みたいだが車は入れない。エスケープもできないことはないが山家とは鹿除けフェンスがあって出られないから作業道を歩く。
 一段落して安堵する。もう一回冬に御所屋から後山まで通して歩けば良いなと思う。
 御所貝津町の郷土史家M氏からも参考資料(コピー)をいただくことができた。ありがたいことである。Mさんに鹿が増えた話を振った。そしてヤマヒルの話になると最近は増えてきたと言われた。ついに稲武にも鹿が増えたせいでヤマヒルが出てくるようになった。

 ヤマップの記録は
① 4/20・・・伊勢神峠と杣路峠と三等三角点畑ヶ洞を往復

② 5/3・・・夏焼城ヶ山から地蔵峠(飯田街道)へ下山し山麓の塩の道を歩く。下山後に4等三角点「夏焼」を往復

③-1 6/12・・・黒田川右岸に腰かけ岩を発見。旧美濃街道の県道からから笹平へドライブ

③-2 6/12・・・再び愛知/長野県境の尹良社を往復。4等三角点「木地山」の登山口を探すが取り付くシマがない。

④ 6/18・・・小雨の日で九沢を調査。4等三角点、ユキヨシ様の祠を発見。

⑤ 6/25・・・熊野洞から後山を登り、美濃街道の地蔵峠を確認し、ユキヨシ様の祠に周回。ユキヨシ様の祠は6/18に発見してあったのでスムーズに周れた。
下山後に旧浪合村の宮の平にある尹良親王の墓を訪ねた。地形図に印刷された立派なお社だった。

⑥ 8/6・・・720mの真弓山を歩く目的で4等三角点「貝戸」を往復。御所屋の歌碑を発見した。もち洗い岩も発見。当日は夕立ちで急遽下山。

『稲武の地名』から②2022年08月08日

 続き。桑原と笹平の九沢にまたがる後山も桑原の後ろの山という意味。稲武は蚕の養蚕が盛んだったらしいのでありうる地名だ。水草の里の地名は628mの東側の谷に「水クサ」とあった。九沢から笹平へ行くとU字形の谷筋一体を指す。

『稲武の地名』から①2022年08月07日

 夜中に探してやっと『稲武の地名』が見つかった。これは新聞の広告で見たのだろう稲武町役場で購入した。平成元年5月25日付の領収書がはさんである。
 地形図に地名を書き込んで行くと段々イメージが具象化してきた。古橋和夫『三河宮尹良親王ー稲武の尹良親王とその周辺』にある足跡と合わせて次の行動の目的がはっきりしてきた。
 8/6に車で走った寺洞林道の峠付近が御所屋であった。左側の山が寺洞山となっている。峠に石仏みたいなものはちらっとみたが先を急いだことと帰路は雨で未確認のままだった。ここに歌碑が建立されている。餅洗い石もここにあるはずだ。
 4等三角点のピークから720m付近が「マコ」という。石がごろごろあるところということらしい。720m地点まで行って見ると何か分かるだろう。

三角点「貝戸」に登る2022年08月06日

天白を8時に出発。名古屋は晴れていた。R153経由でやまのぶから左折し足助への県道に走る。足助から先は間欠ワイパーをONする小雨で不安定な天気でした。
 水別峠から見える稲武の盆地は雲海とまでは言えないが、ガスの中に埋もれていました。少雨なので喫茶店で時間をつぶすうちに晴れてきたので出発。最初は笹平への村道を走って矢竹を探ったが案内板などはない。民家に訪ねようも人が居る気配がない。黒田川まで戻った。
 4等三角点「東乳母ヶ入」547mの近くの床屋さんで目的地の真弓山のことを聞いた。この背後の一帯が真弓山だという。地形図には720mの独立標高点しかない。ここに城跡があるらしい。乳母ヶ入りは正寿寺の跡地らしい。ここには供養塔と宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建っているらしい。
 また目指す御所屋には歌碑が建っているらしい。とりあえずの目的地は駒山の東にある4等三角点の「貝戸」835m。
 R153を逆に走り黒田から正寿寺への案内に誘われて右折。正寿寺から先の寺洞林道も舗装されていて快適。急峻な地形でカーブはタイトである。ところどころ崖崩れがあるが除去されている。
 峠でクルマを置き、林道の廃道から破線路の道を行くと14分で三角点でした。中電の電波反射板が建っていた。山上は植林帯の疎林で平らかでうろついていたら夕立のような土砂降りの降雨が来たので急いで下山。ずぶぬれになったのでどんぐりの里の稲武温泉で汗を流して帰名。成果は三角点のみに終わった。

東三河・金山から雨生山を歩く2022年07月10日

戻り梅雨の山へ
 天気予報では午前中は雨、午後から雨は上がるという。それでは午後から登っても無事に下りて来れる低山を考えた。東三河の雨生山313mである。154mの宇利峠なので比高160m未満だから40分程度で簡単に往復できる。これでは芸がないので金山423mを絡めることにした。登山口はちょっと変わった名称の「世界の桜の園」である。標高97mなので金山まで比高326mある。1時間強はある。
        雨の中を東へ
 というわけで名古屋を8時30分過ぎに出発。急ぐことも無いから県道56号からR1で豊川市へ、旧三河一宮へと走る。岡崎市のR1では雨は止んでいた。音羽付近の豊川市まで来ると霧雨になった。旧一宮町辺りでも小雨があり、八名山地は雲がかかっている。
      喫茶店で時間をつぶす
 それで以前に一度入ったことがある喫茶店で時間をつぶした。12時過ぎに再出発した。豊川に来ると濁流である。まさに梅雨の川である。金沢橋を渡る前に吉祥山の山容が良いので写真を撮った。ところがカメラを忘れたことに気が付いた。それでスマホで撮影した。
       俳人・富安風生の故郷
 旧一宮町金沢は俳人の富安風生の故郷である。「富安風生は,ホトトギス派を代表する東三河出身の俳人である。師は高浜虚子。風生は雅号であり、本名は謙次。東大卒業後は、官僚としての恵まれた道を歩むかたわら、俳句の道を志した。句誌「ホトトギス」「若葉」の発刊に携わり、1933年(昭和8)には第一句集「草の花」を出版するなど、大正~昭和期に活躍した。彼の句風は,同志の水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)の言によれば、「軽快で分かりやすく,さらりとして誰にでも親しみやすい」ものです。
故郷の豊川市金沢町を流れる牟呂用水の近くの大坂神社には,「里川の 若木の花もなつかしく」と刻まれた歌碑が建てられています。」
 昔生家を訪ねたら風生の生家との標石が立っていたが、今は親類が住んでいる。風生には子供が居なかったからだ。
      新城市曽根の登山口「世界の桜の園」へ
 東名に沿って走り、左折。富岡の交差点を右折しR301へ。すぐに左折し、曽根から青田の広がる田園に分け入る。登山口はちょっと小高い尾根の端っこに登った。5台くらいは止められるスペースがある。12時24分、身支度して出発。身支度していてふと食料を買うのを忘れた。だがさっきのモーニングサービスでパンを食べたばかりだから持つだろう。水はステンレスのテルモスに入れた900ccの冷水がある。ま良いか。
        蛇紋岩の地質を歩く 
 雨が止んだばかりの登山道は草や小笹に覆われているためにすぐにびしょ濡れになった。いくつもの枝道があるが皆藪っぽいからなるだけお奨めの道を歩く。登山道のところどころに蛇紋岩の露頭が見られる。「蛇紋岩中には植物の成長を阻害するマグネシウムが多く入っているため、蛇紋岩地帯の植生」は他とは違う。不思議なことに松の木立になった。灌木の密度も少ない。松は痩せた土地に生える。つまり蛇紋岩の地質ゆえに杉の植林が定着しなかったのだろう。やがて四阿に着いた。ここからは吉祥山が美しくそびえている。何枚も写真を撮る。そうか、蛇紋岩は植物の育ちが悪いので逆にこうした園地のような雰囲気を作るのだ。
           金山へ
 四阿を辞して登山道に戻る。確かにたくさんの種類の桜の木も植わっている。世界中から集めて植樹したのだろう。この一角を過ぎると杉の植林帯に突入して一気に薄暗い山路になった。緩やかだが長々と尾根を登ると林道にでる。すぐに山路に入る。やや急坂になるが県境稜線に着くと左瓶割峠の案内板がある。右折するとすぐに金山山頂だった。三角点以外はとなりに電波施設があるが休む雰囲気でもないので出発する。だらだらと下るとちょっとした見晴らしのあるピークに着く。宇利峠への道標もある。348mだろう。ここからは樹木の高さが低くなり、行く手を邪魔する。ストックで枝をゆすって葉に溜まった水を落とす。やがて右への分岐も出てくると300mの等高線のあるピークに達した。
         300mピークで小休止し雨生山を往復
 ここも蛇紋岩だろうか。樹高はみな低く見晴らしが良い。吉祥山の姿が何とも言えないくらい素敵である。吉祥天女とは「吉祥とは繁栄・幸運を意味し幸福・美・富を顕す神とされる。また、美女の代名詞として尊敬を集め」ている。ありがたいお山である。
 目を東に転ずれば眼下には浜名湖が見える。厳格には猪鼻湖であろうか。見える町は三ケ日だろう。三ケ日JCTがあり新東名につながる。これだけ見えれば天気のことを考えれば十分か。食うものもなく、飲み物もあと少しなのでちびちびと飲む。すぐ近くに見える姿の良いのが雨生山だ。再び登山道を歩いて登頂した。三角点はない。地形図では円錐形の形で他からはいい姿に見えるが展望は良くない。慰めるかのように一輪の紫色の花が咲いている。桔梗だった。これも蛇紋岩の地質だろうか。
      300mピークに戻って電波反射板への尾根を下る
 当初は東へ少し下って分岐を左折する予定だった。尾根にある破線路があるので下ってみた。250m地点の電波反射板までは石のごろごろした裸地の斜面だった。多分蛇紋岩か。踏み跡はしっかりはないが歩ける。
 反射板以下がヤブになった。ここでコオニユリを発見した。なるほど蛇紋岩の地質は普通なら笹か植林になってもおかしくないのだが生育が悪いから植林の不適地にされたのだろう。だからコオニユリも咲く力が与えられる。
 大体背の高さか、少し高い程度の灌木に笹が混じって、さらに棘のあるイバラ科の植物が半袖の腕を引っ掻く。よほど戻ろうかと思ったが、林道までの比高は150mしかない。約50mも下るころには植林になり林床が土になり藪は無くなった。やれやれと下り、林道に降り立った。後は林道を歩きながら登山口へ戻った。
 帰路は葦毛湿原に寄り道して帰名。岡崎市では疲労回復にうなぎ屋により道した。

杣路峠を越えた人々2022年06月29日

愛知県旧稲武町の野入町のR153にある案内板
1尹良親王・・・南朝時代の後醍醐天皇の孫

2菅江真澄・・・江戸時代後期の紀行家

3武田信玄・・・戦国時代の武将

4武田勝頼・・・信玄の子

6中馬街道(塩の道)・・・三河湾で製塩して川船で岡崎へ。足助で馬に積み込んで塩尻まで運んだ。

6善光寺・秋葉・伊勢参りの参詣客・・・伊勢神峠は伊勢を遥拝(拝む)する信仰の拠点だった。伊勢までは遠くここでUターンしたものかどうか。

7食い物・・・味噌醤油は大豆と塩から作る。塩の道で信州に販路が広がり、携帯に便利なファーストフードが開発された。即ち、五平餅である。

・三河ではご飯を杉の板につぶして小判型にまとめ、炭火で焼いて味噌だれを掛けたものを食う。

・稲武を美濃へ行くとだんご形の五平餅が多い。木曽街道はだんご形だ。ところが塩尻は小判型になる。混沌としている。

・飯田にも小判型の五平餅がある。

・最北は信州の鳥居峠の茶店だった。


根羽村のHPから

       歴史について
 古代・中世の根羽・月瀬村両村は三河の国に属していました。
 現在の愛知県東加茂郡全域と豊田市・西加茂郡・北設楽郡及び長野県の旧根羽村・月瀬両村を含む広大な区域は、古代の 平安時代(794~1.185)後半に高橋新荘が成立し、中世に入り鎌倉時代(1.185~1.331)には鎌倉御家人の荘官足助氏の 支配下に入ったと伝えられています。
 根羽の地は鎌倉時代は加茂郡名倉郷にあり、南北朝時代には加茂郡足助庄に属した とされています。 享禄年間(1.528~)には阿南町新野の関氏の勢力が三河に及び、天文十年(1.541)には旧根羽村・月瀬村に及んだと されています。 天文十三年八月十三日、下條氏によって関氏は滅ぼされ、下條氏の支配下に入ったのは、弘治ニ年(1.556)新野峠が 武田軍によって改修され、下條信氏が武節谷合戦で功を上げた頃と思われます。
 信玄南下作戦の一環として元亀二年(1.571)四月、足助松山城が攻略され、根羽・月瀬両村はこの時以降武田領となり 三河国から信濃国に編入となった。
 以後、天正十年(1.582)武田氏滅亡により、織田知行所に変わり、同年、織田信長の 自刃により徳川氏の天領となった。宮崎信州代官・飯島代官所支配などを経て、慶応四年(1.868)尾州取締所預かりとなり、 同年八月の廃藩置県により伊那県に編入となった。 明治四年(1.871)筑摩県、同九月に長野県となり、。
 明治8年(1875年)1月12日、根羽村と月瀬村が合併し、現在の根羽村 となり、今日に至っています。16世紀までは、三河国加茂郡に所属していた経緯もあり、隣接する豊田市、さらに西三河の刈谷 市・安城市とも交流がある。村内を流れ三河湾に注ぐ矢作川や、豊田市と通じる国道153号の影響で、愛知県西三河地域と の結びつきが強い。
以上

 HP「古い町並み」から
 東海地方より信濃・信州への入り口に位置し、古くより「塩の道」として三州(伊那)街道に沿う村落として開けたものと推測される。古くは三河国足助郷に属し、室町時代には関氏の、その後下条氏の、続いて武田氏の支配下にあった。
 伊那街道(現国道153号線)16宿の最南端に位置し、岡崎・名古屋に通じる足助道(現国道153号線)、南方の折元峠を経て新城方面に向かう新城道、その他、岩村・明智に向かう岩村道などが交わり、中馬の往来が盛んで問屋や馬宿多数が存在した。
 そこへ江戸中期より善光寺・秋葉・伊勢参りの参詣客が加わり、根羽宿は荷問屋・旅籠・馬宿・茶屋などが並び賑わった。
 中馬頭数は宝暦10年(1760)5戸20頭が天保13年(1842)には63戸250頭になり、農間余業から漸次専業化した。明治に入ると更に増加し、明治19年には飼育頭数426頭を数えた。
 明治14年の中馬宿は14軒で、半年間に泊まった中馬数は8,400頭に及んだ。
 今、根羽村の中心地、街道の交差する辺りを歩くと、旅籠屋の形態を残した家屋が多く見られる。只、私自身中馬宿を知らないので、旅籠屋形式の建物でも中馬宿だったかもしれない。交差点あたりにゴハンギョと呼ばれる明和8年(1771)の道標石がある。この辺りが宿の中心だったようだ。
以上
・・・稲武の後山は秋葉信仰の山だった。石碑も新しいのでまだ何らかの信仰の行事は継続しているだろう。「後山」のみを検索すると1344mの岡山県の最高峰のみヒットする。国地院のHPで「後山」を検索するとたくさんヒットする。トップが稲武の後山になる。順序の意味は不明。

三信国境の杣路峠2022年06月28日

 山岳古道の調査のために歩いた。江戸時代は飯田街道と呼ばれた。今の国道153号である。名古屋市から豊田市足助町、稲武町、長野県飯田市へと通じる。三河湾で取れた塩を足助まで運び、荷馬に載せて塩尻市まで運んだから塩の道ともいう。今回は飯田街道のうち、昔のままに残されている峠の山道を歩いた。
 最初は伊勢神峠を上下した。ここは東海自然歩道に整備されて道標が建ち、誰でも手軽にハイキングが楽しめる。多くの峠が車道になる中でここは古い時代に一車線分の幅のトンネルが掘られて峠越えはない。更に下にトンネルが掘られている。そして新たに大型車がすれ違える幅の新トンネルが工事中である。
 伊勢神峠は斃れた荷馬を弔うための馬頭観音も建っていた。塩は重いから馬も喘ぎ喘ぎ上り下りしたであろう。歴史遺産とも言える。結構太い杉木立がいい雰囲気の峠道だった。ここは短いので早く下山したから次の目的地の杣路峠の入り口に向かった。
 国道153号を東へ向かい稲武を通過、木地山の先に入り口がある。しばらくは林道を歩くが少しで沢沿いの山路に入る。伊勢神峠道と違ってここはまったくの未整備だから、道幅は狭く、沢に架かる橋も壊れそうだ。やがて沢から離れるが、道は左折するところを直進してしまった。途端に道らしい雰囲気はなくなり、右往左往して道の痕跡を探す。沢の左岸に石仏を眺めると峠道とすっかり信じた。それでも道らしい気はしない。地形図では沢から離れ山腹の破線路に描かれる。結局、おかしいので左へ左へと徒労とも思えるトラバースをしてやっと峠道と確信できる踏み跡に到達した。そこからすぐに愛知県と長野県境の境の道標の建つ所に着いた。ab780m付近。信じられないほど緩やかな蛇行を繰り返して大きなブナの木のあるユキヨシ親王の社に着いた。ここは以前、長野県側から来たことがある。そうして新たな林道をたどると待望の杣路峠だった。とはいえ、新たな林道の工事で切通しになり、石仏ははるか上に見え、峠によくある道標はなく、通り過ぎた。メンバーの一人が何気なく見た印が杣路峠の道標だった。プラスチック製のお粗末なものである。これで目的は完遂した。
 林道が四方に分かれている。885mの3等三角点畑ヶ洞は徒歩30分程度とみて帰りがけの駄賃に触りに行くことにした。展望、山頂標もなく、頂上らしくもないが、本来の山頂はこんなもので素っ気ない。ここで初めておにぎり一つを食した。久々の山行で軽登山ではあるが腹筋が締まって空腹感はないので水分はごくごく飲んでいる。
 後はそろそろと下山。県境に戻り、峠道の発見場所からは未知の峠道になる。まことに歩きやすく、ずいぶんカーブもしている。重い塩を背負った馬がゆっくりと体に負荷を減らすように緩やかなカーブになっている。一か所は決壊場所もあったが上から巻いた。問題の道迷いの分岐には大きな栃の木があった。直進すると枝道と分かった。そこで少し戻ってみたら栃の木のあるところで左へ急カーブしていた。ここだったんだ。
 道迷いの原因も判明して車に戻った。国道153号を走り、水別峠の手前で中馬記念館?に入館し塩の道をにわか勉強した。すべて終わり意気揚々と帰名。

稲武の歴史散策~後山を歩く2022年06月25日

 稲武の山と言えば、夏焼城ヶ山が有名である。稲武の山里からは端正な富士山の姿に見える。もっぱらハイカーの人気を独占している。麓の夏焼を冠して夏焼城ヶ山と呼ぶ。歴史的には山の西半分の麓を塩の道が通っていた。今は国道153号が平行する。忘れられた歴史の道である。
 もっと調べて見ると、御醍醐天皇の皇孫の尹良親王の隠れ済んだ山里としても一部の人には知られている。その名残は「御所貝津」町の地名にある。6/12、6/18、6/25と訪ねて見た。
・6/11は御所貝津町の笹平をドライブしただけに終わった。取り付く島がないと思った。確かに黒田川沿いに腰かけ岩はある。信憑性は?はどうかと思う。
・6/18は同じ道を走ってみて、振り返った時に発見があった。小雨模様だったが、単なる乗り越しであるが、車を降りて見て、乗り越しを振り返ると地域の足として走らせているバス停の名前に地蔵峠と書いてあった。これで地名を特定できた。周辺を歩いて見て山里の人に訪ねて見たら、「ユキヨシ様の祠ですか」「あそこにありますから案内します」との親切な申出があり、祠も特定できた。
・6/25は御所貝津のシンボル的な後山を歩いて見たのである。後山の地形図を見て、破線路につながる入り口を探した。東へ延びる尾根の末端の山形まで走ったが山への入り口は見つからない。南の桑原町の神田辺りから適当に地道を分け入った。ここは熊野洞と言い、後山に着き上げる沢である。武節古城の案内板があった。奥まで行くと車道は行き詰まる。Y家の物置と墓になっている。戻って、神社記号(熊野神社)との交差点にPスペースがあるのでここにデポした。とりあえず武節古城に行くと確かに古代の城跡の感じはある。
 戻って、車道を歩くと後山から真南に伸びる尾根に明瞭な掘れ込んだ山路があったので入ってみた。この山路は何の目的は不明ながらしばらく続いた。そして植林内でうやむやになったが尾根芯をたどれば歩ける。ずっと登ると左の久沢から来る尾根に合流。たどると山頂だった。頂上には三角点はなく、小屋が建っている。後ろには地図に無い携帯電話のアンテナが建っている。他には何もない。
 右に続く車道を下ると、稲武町の電波塔が建っていた。これは地形図にある。この前には破線路が登ってくるはずが何も見えない。下りきると秋葉山の参道とした新しい石碑があった。ここは火伏の神だったのか。駐車スペースの奥に地形図の実線の道があったが、これはよく踏み込まれた道であった。多分参道の続きだろう。一方で、東への尾根にも踏み跡が続いている。これが地形図の東尾根の入り口だろう。
 6/18は車でこの近くまで来たが雨で道路がぬかるんでいたから引き返したところである。このまま下ろうか、と思ったが山頂へ戻り、久沢からの尾根を下った。明瞭な尾根なので道はないが歩ける。最初の水田記号まで下ると水田へ下る道があり、下った。今は廃田で草生す平地が悲しい。そして久沢からの車道に出れた。
 久沢の山里を下ると6/18には不明だった4等三角点も分かった。標石ではなく、基準点だろうか。そのまま歩いて、九沢の媼に教えてもらった、桜の木の下の石仏も拝観した。南西への車道を歩き、乗り越しから628の独立標高点のあるコブに行く。登山道ではなく、踏み跡でもないが作業道があるので歩ける。628mのコブを取り囲むように歩き南へと下がってゆくところで、地蔵峠に行く尾根を過ぎてしまい、戻ってきた。ここも微かな踏み跡はあった。そして6/18に拝観した尹良親王夫妻の祠に出ることができた。地蔵峠に下って車道を歩き熊野洞のPに着いた。帰路は熊野神社に参拝した。立派なお社である。
 半日程度の散策だったが大汗をかいたのでどんぐりの湯で汗を流した。まだ少し時間があるので旧浪合村の尹良親王の墓を訪ねた。ここも地形図に記載されるだけはあり、立派な神社と宮内省管轄の菊の御紋のある墓も拝観できた。突然夕立に見舞われたが、治部坂峠を越えるとぱたっと気象が変わる。木曽山脈の東西で大きく変わる。

水草の里を訪ねて~尹良親王の祠発見2022年06月18日

 古橋和夫『写真が語る 三河宮尹良親王ー稲武の尹良親王とその周辺』(発刊 昭和62(1987)年。印刷 桃山書房)は多分稲武の尾形誠意堂で買ったものだろう。1200円。 
 三河宮があったのは稲武の後山(710m)界隈であった。ここを水草の里という。しかし、この本に示された地図の地名は現在の地図には反映されていない。そこで徒手空拳で捜す。
 先週もここだろうと、車を走らせたが徒労に終わった。九沢を経めぐって地形を把握したに過ぎない。第一地蔵峠がどこなのか。最初は塩の道の地蔵峠との間違いか、とも思われた。
 18日に走ってみて、峠を通過して、徒歩で探ってみた。車を降りて峠を振り返ると地域のバスの停車場がありそこに地蔵峠と書かれていた。地蔵峠はあったのだ。これで謎が解けてゆく。
 乗り越し部分の西側に枝道があるので歩いてみた。そこに尹良親王の両尊像を祀った祠がないか。しかし、無かった。そのまま下ると里へ行く。石仏が10体以上集まったところがあるので見ると馬頭観音もあった。
 久々に人を見た。他所から嫁いできただろう女性だったが聴いてみた。ユキヨシ様の祠を探していると伝えるとやっぱり峠にあった。細道があるというのでもう一人が案内してくれた。心細い道だったがあった。但し祠を開けることはできず、他日に期待した。
 後は九沢に走った。後山に続く山路の登山口を探すためだった。降雨があり、舗装から地道になったが粘土質なので引き返した。九沢の四等三角点を探したがGPSの示す場所には発見できなかった。
 媼が一人道を徒歩で歩いていたので聞いた。世間話に終始した。一軒家で一人暮らしだという。水道は引いてあるので、都会的な生活は想像できる。昔なら山水を引いて風呂也、甕なりに汲み置きしなければならない。薪を割り、芝を集めておかねばならないが、それはない。燃料はガスだろう。何となっている。
 もう80歳を越えたという。夫は7年前に死んだ。息子は3人いるが豊田市、日進市、北海道にそれぞれ出て行った。もう戻らないだろうという。一度都会生活を味わうともう戻れない。特にTVで都市を知るとなおさらだ。家が壊れるか、自分が死ぬかどっちが先か、笑えない冗談を言う。
 視野に入る田畑がみな休耕田なのでもう跡継ぎが居ないんですね、と聞いたら、この辺の家屋は皆住人がいないとも言われた。全国的に問題になっている空き家である。九沢では2軒だけが生活している。家は人が済まないとあっという間に荒れてしまう。屋根の根田が腐って抜けてしまう。廃屋化して行くが今なら間に合う。
 30分も話しただろうか。名古屋へ帰ることを告げて九沢の媼と別れた。ここにはまだなんども来る予定である。今度は後山に登ろうと思う。

ほのぼのと 空けゆく空をながむれば 月ひとり住む 西のやまかげ 尹良親王2022年06月12日

・尹良(ゆきよし)親王供養塔
(豊田市御所貝津町)
信濃国と三河国の国境地帯の各地には、南北朝の動乱の悲劇として「ユキヨシ様」伝説が広まっており、ここ稲武にも伝わる。かの柳田國男翁も『東国古道記』で考察している。

・御所屋に建つ尹良親王の歌碑
(豊田市黒田町)

真弓山を詠われたという。

ほのぼのと
空けゆく空をながむれば
月ひとり住む
西のやまかげ

・ユキヨシ様
「ユキヨシ様」は伊那谷から北三河・北遠江にかけての国境地帯にて祀られる習俗が広く分布しており、この信仰に関して民俗学の側面から着目したのが柳田國男であった。柳田は「東国古道記」の中で、およそ次のように述べている。「かつて中部山岳地帯と海岸を結び付ける道は秋葉街道だけであったが、やがて浪合を通り飯田・根羽に連なる三州街道(飯田街道)が開けてきて、その段階で津島神社の御師たちが入り込み、土着的な山路の神『ユキヨシ様』を旅人の道中安全を守る守護神(一種の道祖神)へと変化させて山間に広く分布していった。これに加えて、浪合で戦死した南朝某宮に対する御霊信仰の要素が結合して尹良親王なるものが出現し、さらに津島神社や三河武士・徳川氏の起源伝承として存在意義が認められ、地元の口碑がその欲求に合うように内容まで多様に変型させられたのではなかろうか」。柳田の見解は伝説の史実化の過程を考える上で示唆するところが多く、特に津島信仰の絡み合いについては、柳田の洞察力が遺憾なく発揮されていると言えよう。「ユキヨシ様」は、近世の地方における南朝史受容の一コマを現代に語り伝えているのである。

もっとも、延宝から正徳頃までの浪合神社の棟札には、祭神を行義権現と記しているものがあるため、「ユキヨシ様」信仰は一元的ではないことがわかる。

・黒田正寿寺と尹良親王

 黒田の吉祥山正寿寺の開山は応永年間(一三九四~一四二七年)であり、尹良親王がこの地に滞在された時、お供の新田親氏が親王の言いつけで山号を吉祥山、寺号を正寿寺と名づけたといわれている。
 尹良親王は、お亡くなりになった妃の菩提を弔うために正寿寺を建立したといわれ、山門は『御所造り』になっている。(現在の山門の屋根は、平成になって葺き替えられている。)
 この正寿寺の建立の他にも、尹良親王にまつわる幾つかの伝説が伝えられている。
 正寿寺の裏山には御所屋(地元では尹良様と呼ぶ)という所がある。
現在は、尹良親王が読まれた歌の歌碑が建てられている。この歌の短冊は正寿寺にあり、親王の真筆と伝えられている。この他、正寿寺には、親王ご使用の『硯石』、親王ご筆写と伝えられる『大般若教三巻』、ご遊山の時お拾いになったという『鹿の玉』などがある。

2016. 5 No51 編集・発行 稲武地区コミュニティ会議広報部会豊田市稲武支所発行部数: 1,300 部
5P に交流館 Times:6P にゆいの輪を包括稲武地区人口状況(28 年 4 月 1 日現在)人口:2,461 人 世帯数: 1,009 世帯

・《稲武地区の尹良親王伝承一覧》

・尹良親王の腰掛石(御所貝津)
・地蔵峠の尹良社(御所貝津)
・正寿寺(黒田)
 ・尹良親王真筆の和歌が書かれた短冊
 ・尹良親王使用の硯石
 ・尹良親王筆写の『大般若経』(3巻)
 ・遊山(狩り)で見つけた鹿の玉
・尹良親王の歌碑(黒田)
・真弓橋(尹良親王が弓を杖に黒田川を渡った場所に架けられた橋)
・尹良親王の忠臣・青木の御子孫の家
 ・尹良親王の愛馬「龍の駒」の蹄の跡がついた石
 ・尹良親王使用の福州青磁の皿
 ・尹良親王使用の桑の木のお盆(お膳)
・地名「かんばあさ」:尹良親王の愛馬に草を食べさせた「神馬草」の転訛
・地名「御所貝津」:尹良親王の御所の垣内(かいと)