俳句に詠まれた伝染病ー阿蘭の艦(ふね)が去んでもコレラかな2020年03月07日

カピタンに思われて死ぬコレラかな     前田普羅

阿蘭の艦(ふね)が去んでもコレラかな

 当時の居住地横浜を舞台に詠まれた。

 普羅句集には所収されていない。「ホトトギス」大正元(1912)年十月号に初出句して採用された。普羅29歳だった。

検索で追うと
ヘスペリア号事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6


感染症の歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9F%E6%9F%93%E7%97%87%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2#%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%83%A9

カピタン
カピタン(甲比丹、甲必丹、加比旦)とは江戸時代、東インド会社が日本に置いた商館の最高責任者「商館長」のこと。元はポルトガル語で「仲間の長」という意味があり、日本は初めにポルトガルとの貿易(南蛮貿易)を開始したため、西洋の商館長をポルトガル語の Capitão(カピタン)で呼ぶようになった。その後ポルトガルに代わりオランダが貿易の主役になったが、この呼び名は変わらなかった。


・・・・「長崎にあった出島のオランダ商館長のカピタンは、定期的に将軍に謁見するために、献上物を持参して参府することが定められていました。」とあるようにオランダ人のビジネスマンだったようです。

「日本では、最初に発生した「文政コレラ」のときには明確な名前がつけられておらず、他の疫病との区別は不明瞭だったが、流行の晩期にはオランダ商人から「コレラ」という病名であることが伝えられ」たので、阿蘭陀(オランダ)の船が日本を去ってもコレラという言葉が残ったの句意か。カピタンの句意は今一不明である。

 他に見つかったのは
月明や沖にかゝれるコレラ船 日野草城「花氷」所収
・・・これは句意明瞭です。「コレラ船はコレラ患者の出た船のこと。昔は蔓延を防ぐため、入港を禁止された。」そうです。現代はクルーズ船です。閉鎖空間の船は疫病に弱いのは歴史が示しています。

コレラ出て佃祭も終りけり  松本たかし「松本たかし句集」
・・・落語の作品らしいが、佃島に船で行き帰りするので伝染を防止するため祭りも中止になったということか。いまもむかしも変わらない。

コレラ怖ぢ蚊帳吊りて喰ふ昼餉かな
杉田久女「杉田久女句集」
・・・あの久女がこんな句を詠んでいたとは知らなかった。

余録
俳人・夏井いつきさんの…
https://mainichi.jp/articles/20170727/ddm/001/070/179000c

以下は上記の記事中にある。夏井いつきさんはコレラ船は絶滅季語というのである。季語だったこと自体が忘れられている。しかし、今も武漢ウイルスが蔓延中で世界中を襲っている。忘れてはならない季語ではないか。

コレラ船いつまで沖に繋(かか)り居る  高浜虚子
・・・大正3年の句。

コレラ怖ぢて綺麗に住める女かな

コレラの家を出し人こちへ来りけり
 (虚子五句集P43。「五百句」大正3年作)

他にも

コレラ船デッキに人はなかりけり  山下一行

わが俳句は俳句のためにあらず、更に高く深きものへの階段に過ぎず 前田普羅2019年10月14日

 辛夷社のホームページの巻頭に掲げる前田普羅の言葉の一説である。
https://www.kobushisha.com/

 HPにはないが、続けて「こは俳句をいやしみたる意味にあらで、俳句を尊貴なる手段となしたるに過ぎず」とある。

 要するに、俳句に精進するのは趣味を超えて、人生の質を高めるための手段というのだ。自己を高めるための手段としている。あるいは修業というべきか。柔道、剣道、茶道、芸道みな修業なのである。
 前田普羅はそんな俳人だった。中央俳壇、俳壇ジャーナリズムと交流してメディアに露出し、知名度を高めて会員を増やし、有名俳人として読者に媚びを売ってまで食べてゆくことはしない。後進を育てることもしなかったらしい。それなのに今の中坪主宰で4代目になりしかも2010年に1000号を突破し、発行誌「辛夷」令和元年5月号は1111号を記録した。
 先日に書いたように金子兜太、加藤楸邨などは俳壇ジャーナリズムに囃されて作られた虚像だった。新聞、雑誌が売れない今の時代はもう彼らを支えきれなくなったのだ。だから結社解散という現象になったと理解できる。金子兜太の命脈はかなり長く続いたが死を以って主宰誌は廃刊、結社まで解散である。金子兜太の死がすべてを清算させた。巨木だったが中は空洞だったのだ。朽ちるのも早いわけだ。
 
 それで「辛夷」はどうなるか。北陸のガラパゴス結社にならないように新しみを追いかける一方で、守るべきものは守る。それは俳句は自己を高めるための手段であることとの認識である。ハードルは高い。
以上が年次大会で感じたことの反省記である。

 さて、朝8時、ホテルのPを出発。R41で帰名した。心配した通行止めは今朝は解除されていた。1時間に120m/mの降雨量で通行止めになるらしい。道の駅で情報をもらうと12日は14時ころまで通行止めだったらしい。激しい降雨があったのだ。
 今日も断続的に強雨がある。それで猪谷からR360へ右折した。対向車が続々走ってきた。船津の通行止めを予測して回避したのか。この道はトンネルと橋で改良が行われてかなり走りやすくなった。一部に一車線の狭い箇所が残るだけである。約40分で飛騨古川へ抜けた。やはり早い気がする。
 高山のスーパーで昼の弁当などを買った。飛騨萩原に来ると簗が開店していたので寄った。落ち鮎の塩焼き2尾と鮎飯、味噌汁で2000円也。鮎は目の前で焼いてくれる香ばしい匂いが良い。今年の食い納めである。
 いろいろ道草を食いながら犬山、小牧を通過。午後3時ながらすでに渋滞中である。多くの行楽客も今年は散々だったのではないか。16時に帰宅できた。何と8時間もかかった。高速料金相当は食事や買い物で地元に落としてきたのである。

台風の行方気になる立秋忌(普羅忌)2019年08月08日

 秋立つとはいえ猛暑の日々。こんな暑い日に山の好きだった俳人前田普羅は亡くなった。それで前田普羅を慕う人は立秋忌と呼ぶ。
 「辛夷」8月号には普羅墓参立秋忌・俳句大会の案内があった。まさに8日、二上霊園で少雨決行とある。13時から北日本新聞社高岡支社で大会を催す運び。予定通り挙行されたことだろう。

 普羅忌を詠んだ人は少ない。検索すると以下の通り。()内は結社名を入れた。(雪垣)は金沢市の結社で普羅師系を名乗る。

人参木咲いて普羅忌へ孫弟子ら 中西舗土(雪垣)

普羅の忌とおもふ一鳥水を過ぎ 加藤有水

普羅の忌の四方に雲湧く甲斐の国 有泉七種

普羅の忌の絵皿に透ける洗鯉 松本澄江

普羅の忌や峻厳の語はすでにもう 松田ひろむ

朝顔の浅葱普羅忌のくもり空 文挟夫佐恵 黄 瀬

氷柱の虹普羅の忌は夕べはや 文挟夫佐恵 黄 瀬

秋に入る空を見上げて普羅忌なり 仲原山帰来

走り咲く萩に普羅の忌来りけり 飯原雲海(辛夷)

鯉こくの食ひたき日なり普羅忌なり 石田波郷

雀きて滴おとせり立秋忌 井上 雪(雪垣)

ひと雨のまた笹に鳴る立秋忌 井上雪(雪垣)

 普羅忌でヒットしたブログもあった。「クラカスはつらいよ弐」
http://ogurin1961.blog129.fc2.com/blog-entry-8378.html

 波郷にはもう一句ある。それを切り口に随筆を書いて「辛夷」誌に投稿した。全文を転載する。

随筆    俳句―波郷を覚醒させた切れ字の話     
 「辛夷」誌正月号を読んであることに気が付いた。衆山皆響の切れ字の活用の傾向である。や、かな、けりを数値化して見た。切れ字の入った句数は全部で177句あった。“や”は98句、“かな”は49句、“けり”は30句。
 圧倒的に“や”が多い。又、切れ字はなくても切れている句は当然に多い。むしろ切れ字活用は少数派である。切るということを意識しないと切れない。切れ字を使っても切れていない句もある。散文の断片になる。
 かつて水原秋桜子が高浜虚子に俳句理論の食い違いから反旗をひるがえして、「ホトトギス」から脱退、反ホトトギスの拠点として「馬酔木」を主宰した。秋桜子の『葛飾』(1930)は虚子も評価していた。ホトトギスの名残りで切れ字が多かったからだ。
 その後、石田波郷が秋桜子門に入って来た。後に、「鶴」を創刊・主宰。ネットには「昭和戦前に流行した新興俳句運動を批判し、韻文精神の尊重を説き切れ字を重視。」と解説。つまり俳句とは、俳句を韻文たらしめるには切れ字が重要と説いたのであった。
 いつぞや丸栄のデパ地下の食堂に昼飯を食べに行った。近くのご婦人2人の会話から 
  泉への道遅れ行く安けさよ        石田波郷 
私の好きな俳句を空で詠んでいるのでつい耳を傾けてしまった。話の切れ目を見計らって、名乗り出るとすぐ会話に入れてくれた。ある俳句結社のベテラン俳人であった。会話のレベルから相当な年季が入っているはず、と見た。1人は30年という。しばし、波郷の俳句談義に興じた。 
 波郷は、秋桜子の弟子ながら、ホトトギス派を自称していた。すなわち、や、かな、けりの切れ字を古いものとして捨てた師匠に逆らい、切れ字の韻文精神を重視した。その説を裏付けるのは 
  霜柱俳句は切れ字響きけり        石田波郷 
  鯉こくの食いたき日なり普羅忌なり    石田波郷   
  楢檪霧呼んで普羅の忌なりけり      石田波郷 
と普羅忌を詠んでいるのも切れ字に関係するからだ。前田普羅の俳句は格調の高い立て句で有名である。山岳俳句では死後数十年経った今もって後塵を拝することがない。 
  駒ヶ岳凍てて巌を落としけり       前田普羅 
波郷は普羅を尊敬の念で見ていた。その思いが普羅忌を詠むことにつながると想像する。 
上達するには技術的に難しい、“けり”を使いこなすことだろう。
 大ぶりの黒部の木の実降りにけり     中坪達哉
普羅師系を標榜する結社にとり巻頭におかれたこの句は大いなる手本になる。
以上

 遅れていた好句考も書き上げた。こっちは桜桃忌を詠んだ句の鑑賞文になる。俳句三昧の一日。