『新撰美濃志』に描かれた大湫(村) ― 2025年01月13日
『新撰美濃志』は尾張藩士の岡田文園(啓)が約30年の歳月を要して編纂した地誌である。期間は天保(てんぽう)の時代(1830年から1844年)から万延(1860年から1861年)の期間になる。江戸時代は1603年に始まり、1867年に終わるから、幕末の美濃の社会を記録している。
復刻版(本書)の緒言に「尾張藩は十二万八千八百石を美濃に領知し、どの領主よりも最大であった。」という。
注:P557から。漢字は基本的に旧字体だが変換可能な限り変換し、出来ないものは出て来る字体にした。行替えは筆者による。
大湫村は半原の北にありて遠山荘とも亦稲村荘ともいふ。中山道の宿驛にて京の方細久手宿より一里半餘、江戸の方大井宿より三里半の馬つぎなり。「尾張御領九十石」(略)名古屋まで十六里あり。
「十三嶺」は宿の東大井宿との間にあり。中山道筋登り下り多き故しか名づく、されども坂道やすらかにて険阻ならず。
「小牧山」は驛の南にあり。さのみ高からねど諸山に秀でて見るに足れり。
「野田嶺」は驛の北にあり。千村氏毎年草餅を製して献上する地なり。
「琵琶坂」は細久手に到る大道の坂をいふ。岩石多く道さがしく登り下り十町ばかりもあり。坂の上より互寅の方に木曽の御嶽見え、北には加賀の白山、飛騨山の間より見ゆ、白山は大山なる故麓まで雪あり。西に伊吹山も見えて好景なり。
烏丸光栄卿の打出濱記に「大久手という所より琵琶坂といふをこゆ、けふの道すべて山の尾なり、たうげよりかなたこなたを見渡すに、こしの白山峰越に山の腰わづかに見ゆ、見るがうちに雲へだたりぬ(みこしぢのしらねいづくと白雲をふりさけ見れば雲に消えつつ)伊吹山のはるかなれどさだかに見ゆ」と見えたり。
以下略。
・十三嶺は十三峠のこと
・小牧山は稲荷山のこと
・野田嶺は本陣山のこと
・琵琶坂は琵琶峠のこと
復刻版(本書)の緒言に「尾張藩は十二万八千八百石を美濃に領知し、どの領主よりも最大であった。」という。
注:P557から。漢字は基本的に旧字体だが変換可能な限り変換し、出来ないものは出て来る字体にした。行替えは筆者による。
大湫村は半原の北にありて遠山荘とも亦稲村荘ともいふ。中山道の宿驛にて京の方細久手宿より一里半餘、江戸の方大井宿より三里半の馬つぎなり。「尾張御領九十石」(略)名古屋まで十六里あり。
「十三嶺」は宿の東大井宿との間にあり。中山道筋登り下り多き故しか名づく、されども坂道やすらかにて険阻ならず。
「小牧山」は驛の南にあり。さのみ高からねど諸山に秀でて見るに足れり。
「野田嶺」は驛の北にあり。千村氏毎年草餅を製して献上する地なり。
「琵琶坂」は細久手に到る大道の坂をいふ。岩石多く道さがしく登り下り十町ばかりもあり。坂の上より互寅の方に木曽の御嶽見え、北には加賀の白山、飛騨山の間より見ゆ、白山は大山なる故麓まで雪あり。西に伊吹山も見えて好景なり。
烏丸光栄卿の打出濱記に「大久手という所より琵琶坂といふをこゆ、けふの道すべて山の尾なり、たうげよりかなたこなたを見渡すに、こしの白山峰越に山の腰わづかに見ゆ、見るがうちに雲へだたりぬ(みこしぢのしらねいづくと白雲をふりさけ見れば雲に消えつつ)伊吹山のはるかなれどさだかに見ゆ」と見えたり。
以下略。
・十三嶺は十三峠のこと
・小牧山は稲荷山のこと
・野田嶺は本陣山のこと
・琵琶坂は琵琶峠のこと
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