⑤四国の山旅~淡路島の伊弉諾神宮へ、福良で車中泊2022年11月20日

 正午に散会後は次の目的地の淡路島の伊弉諾神宮に向かった。鳴門市まではR11を流すように走る。井ノ尻から左折すると鳴門スカイラインを走って網干休憩所で一休み。伍代夏子の「鳴門海峡」が聞こえる仕組みがあった。少し戻って鳴門北ICから大鳴門橋を渡り、淡路島南ICで出る。
 ここから道の駅のある福良へは近いが時間があるので、淡路島の西の道路を走り淡路市の伊弉諾神宮まで行く。ところどころにサイクリスト用の「アワイチ」の道標があった。また休憩所もあった。淡路島一周のサイクリストを見かけたが歓迎されているんだろう。

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 伊弉諾神宮とはHPによると「はるか神代の昔、イザナギノミコトとイザナミノミコトが、修理固成(国を創り固め成せ)の命を受けて、天之瓊矛(あめのぬぼこ)を授かり、その矛で下界をかきまぜ、引き上げた矛先から滴り落ちた塩の雫が自ら凝り固まって「自凝島(おのころじま)」となりました。その島に天下った男女の神様は夫婦となり、次々と日本列島をお生みになりました。その最初に生まれた島が淡路島なのです。こうして「国生みの島」淡路島は「夫婦のふるさと」とも呼ばれるようになりました。

伊弉諾神宮は古事記や日本書紀にもその創祀の起源が記され、日本で最初の夫婦神「イザナギノミコト・イザナミノミコト」の二神を祀る最古の神社です。そして古くより「鶺鴒(せきれい)」は男女和合へといざなう御神鳥として崇められ、その由来から  伊弉諾神宮境内に「せきれいの里」が誕生しました。」と前書きにある。

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 「いわれいい伝え
            御由緒
 古事記・日本書紀の冒頭にその創祀を記す最古の神社。国生み・神生み始まる御神功を果たされた伊弉諾いざなぎの大神おおかみが、御子神の天あま照てらす皇すめ大御神おほみかみに国家統治の権限を委ね、淡路の多賀たがの地に「幽宮かくりのみや」を構へて余生を過ごされた神宅かむやけの旧跡に鎮座する。

 この地で終焉を迎へられた伊弉諾大神を、その宮居の跡地に神みさ陵さぎが築かれて、お祭りされたといふ神歴を創祀の起源とする。
 
幕末までは禁足地の神陵の前方に本殿があったが、明治初年の官費による造営事業で神陵地を整備し、墳丘上に本殿が移築された。

 わが国最古の歴史書「古事記」や国史「日本書紀」は天地てんち開闢かいびゃくの説話から始まる。「天地あめつちはじめて發ひらけしとき」に、高天地に造化ぞうくわ三神が現はれ、続く神世七代で現れた伊弉諾尊(男神)と伊弉冉尊(女神)に、「この漂ただよへる国を修理固成つくりかためなよ」と命ぜられた。」

 二柱神は天あめの浮柱うきはしに立ち、天沼あめのぬ矛ほこで大海原をかき回し、矛の先から滴り落ちた雫しずくが「淤お能の碁ご呂ろ島」となる。

 この島に降り立った二神は、夫婦めおとの契りを結び、国生みの儀式を行ひ、最初に誕生したのが淡路島(淡道之あはぢの穂之狭ほのさ別わけの島しま)で、続いて四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州と生まれ、「大八洲おほやしま」といふ古代日本の国土が出来上がった。

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 というわけで古代史に関心のある日本人なら一度は参拝したい。

 今回は淡路島の最高峰の諭鶴羽山のハイキングと伊弉諾神宮の一角の祖霊社に10月11日、樋口理一郎の銅像が建立されたことも知って行きたい気が募った。
 祖霊社とは「祖先の霊を祀る社を霊社といい、祖霊社は祖先累代の霊をあわせて祀ったもの。明治以降の神仏分離と神葬祭の普及に伴い、氏子のなかで神葬祭をもってした人々の霊を合祭する祖霊社が多く設けられた。1886年(明治19)6月、神社の公的性格を強調するため祖霊社の創立は禁止されたが、第二次世界大戦後はふたたび神社境内の祖霊社が増えつつある。」の意味。[岡田荘司]

 樋口理一郎はユダヤ人の難民を救済した軍人であった。

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HPによると
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g01097/
「もう一人の「東洋のシンドラー」: 2万人のユダヤ人を救い、北海道を守った樋口季一郎陸軍中将

 リトアニアの日本国総領事館に赴任していた杉原千畝がナチス・ドイツの迫害から逃れてきた多くのユダヤ難民を救出した逸話は、「東洋のシンドラー」として国内外に広く知られるようになった。
 その一方で、もう一人の「東洋のシンドラー」、樋口季一郎陸軍中将の史実は知られることが少ない。杉原が救ったとされるユダヤ人の数6000人を優に上回る2万人のユダヤ人を樋口中将が救ったことは、ユダヤ人社会で記録に留められているほどだが、今、彼の功績を広く世界に伝えるべく、日本、イスラエル、米国で連携の輪が広がろうとしている。
 ルトワック氏ら22人のユダヤ人が銅像建立の発起人に
第二次世界大戦直前、ナチス・ドイツの迫害からユダヤ人難民を救い、ポツダム宣言受諾後、ソ連の北海道侵攻を阻止した樋口季一郎陸軍中将(1888-1970年)の史実に今、新たな光が当てられようとしている。

その功績を顕彰する銅像を建立する募金計画が有志の間で進み、孫の樋口隆一明治学院大学名誉教授を会長理事とする一般社団法人「樋口季一郎中将顕彰会」が設立された。募金活動は日本のみならず、イスラエルや米国のユダヤ人社会にも呼びかけられ、銅像を通じて樋口中将の功績を世界に伝え、国際的な友好の輪を広げようとしている。

2022年秋の完成を目指す銅像について、隆一氏は「(出身地の)淡路島では伊弉諾(いざなぎ)神宮、北海道では北方領土を遠望できる場所が望ましい」と語る。「顕彰会」には、淡路島と北海道の関係者のほか、戦略論研究で世界的権威の米国の歴史学者、エドワード・ルトワック氏や日本のユダヤ人組織のラビ、メンディ・スダケヴィッチ代表ら国内外のユダヤ人計22人が発起人として名を連ね、約3000万円の寄付を募る。

樋口中将は満州国ハルビン特務機関長だった1938年3月、迫害を逃れ、ソ連を通過してソ連・満州国境オトポール(現ザバイカリスク)で立ち往生していたユダヤ人難民に食料や燃料を配給し、満州国の通過を認めさせた。リトアニアのカウナスで杉原千畝領事代理が命のビザを発給し、6000人のユダヤ人を救うのは、この2年後の40年のことである。

ユダヤ人難民は、ドイツ国籍であれば上海へのトランジットが可能だったが、満州国外交部がドイツと日本に忖度(そんたく)して通過させなかった。樋口は「日本はドイツの属国でもなく、満州国もまた日本の属国ではない」と日本政府と軍部を説き伏せ、上海までの脱出ルートを開き、その後、この脱出路を頼る難民が増えた。ユダヤ民族に貢献した人を記した「ゴールデンブック」を永久保存するイスラエルの団体「ユダヤ民族基金」では、救出した総数は2万人としている。

ユダヤ人の境遇に深い理解と憐憫
なぜユダヤ人難民を救ったのだろうか。オトポールでの救済の直前、1937年12月にハルビンで開かれた「第一回極東ユダヤ人大会」で樋口はユダヤ国家建設に賛成するあいさつを行うなど、ユダヤ人の境遇に理解と憐憫の情を示していたことが大きい。

『陸軍中将樋口季一郎回想録(以下、回想録)』(芙蓉書房出版)によると、樋口は1919年に特務機関員として赴任したウラジオストクでロシア系ユダヤ人の家に下宿。ユダヤ人の若者と毎晩語り明かして親交を深め、ユダヤ問題を知った。ワルシャワ駐在陸軍武官として25年から赴任したポーランドでは、弾力性ある国際感覚を身に付けたが、人口の3分の1を占めたユダヤ人が差別と迫害を受けるという流浪の民族の悲哀を垣間見た。
以下はソースにアクセス
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 10月11日に銅像が建立されたことはFBFのRyuichi Higichiのコメントで知った。盛大な除幕式も執り行われた。これに旅心が刺激された。
 伊弉諾神宮参拝後は隣の祖霊社の左に建つ樋口季一郎の銅像も拝見した。
 冬の夕暮れが迫ってきた。今夜は南あわじ市の道の駅「福良」で車中泊だ。再び南へと走った。
 道の駅福良のPはガラガラだった。ちょうどトイレ横のPが空いていたのでそこに陣取った。夜トイレが近いと助かる。夜中に散発的に降雨があった。

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