霧ふかき積石に触るるさびしさよ 石橋辰之助2022年08月12日

 山頂とか分岐点とかの要所に積まれた石の積まれた標をケルンという。霧のふかい山路を歩いてケルンに到達したが何も見えず、山路の一区切りはついたが景色が見えなくて寂しいというのである。


https://zatsuneta.com/archives/10821a2.html

 昭和時代の俳人・石橋辰之助(いしばし たつのすけ)の1948年(昭和23年)の忌日。

石橋辰之助について
1909年(明治42年)5月2日、東京市下谷区(したやく、現:東京都台東区)に生まれる。別号に竹秋子(ちくしゅうし)。東京・安田工業学校電気科を卒業。

学生時代から俳句雑誌『ホトトギス』に投句。卒業後は照明技師として帝国劇場、神田日活、新宿帝都座に勤め、戦後は日本映画社に勤務、制作課長となる。

1931年(昭和6年)に『ホトトギス』を離れ、水原秋桜子(みずはら しゅうおうし)の俳句雑誌『馬酔木(あしび)』に参加、1933年(昭和8年)に同誌同人。竹秋子の号を用い、山岳俳句において新境地を開く。

1937年(昭和12年)に『馬酔木』を離れ、新興俳句運動・プロレタリア俳句運動に参加。翌年に『京大俳句』に参加。1939年(昭和14年)には西東三鬼(さいとう さんき)・三谷昭(みたに あきら)らと『天香』を創刊するが、1940年(昭和15年)の「新興俳句弾圧事件(京大俳句事件)」に連座し検挙され、『天香』も終刊を余儀なくされる。

戦後、新俳句人連盟に参加し、委員長を務める。1948年(昭和23年)8月21日、急性結核により死去。39歳。句集に『山行』(1935年)、『家』(1940年)、『妻子』(1948年)、『山暦』(1951年)、『定本 石橋辰之助句集』(1969年)などがある。

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