岡田英弘『読む年表 中国の歴史』を読む2021年07月03日

 7/1から7/2は中国共産党結党100周年の話題でもちきりだった。自民党や野党が祝意を示したが、過去の悪行にくぎを刺す記事もあった。巨大化した中国への警戒心がにじみ出た。
 さて、中国の歴史は5000年という。これは嘘で、秦、漢、唐、元、明、清の異種族王朝が興亡しただけの2200年間だった(岡田英弘)という。
 本書は東洋史の泰斗である岡田氏が巨視的な視点から年表を編んだ。辛口の歴史が語られる。
 2012年版だからそれ以降に購読したが、改めて目を通すと、当時は無関心だった項目が目に付いた。P142の唐詩の隆盛という見出しだ。”外国語”を話す李白と杜甫が漢字の表現力を大きく広げた、の副題。どういうことだろうと読む。
 李白 701~762
 杜甫 712~770
・漢字はもともと商売上の符牒のような表意文字
・哲学や思想を伝えるのに向かない不完全なコミュニケーション・ツール
・漢詩はそのほとんどが空や河、鳥や花など形而下的・具象的なものを詠んでいる
・李白や杜甫は「四書五経」の漢字の配列にとらわれない、自由で豊かな配列を発明し、
・語彙を奔放に駆使して、心情をあらわした
・漢字の表現力を広げた
・唐代になると北方から来た鮮卑系の人だった
・モンゴル語やトルコ語のような「てにをは」のある話し言葉を持っている人々が外国の文字である漢字をつかって表現力を大きく広げた
・異文化と漢字文化の融合

鮮卑とはなんだろう。
「世界史の窓」
https://www.y-history.net/appendix/wh0301-003.html
「せんぴ。五胡の一つ。モンゴル高原で活動していた遊牧民族。モンゴル系とツングース系の混血とか、トルコ系民族などの説がある。はじめ、匈奴に服属していたが、匈奴の分裂後、2世紀頃に部族の統一を果たし、有力となった。その後、モンゴル高原と中国の境界である内モンゴルに進出、いくつかの部族に分裂しながら漢文化を取り入れしだいに発展した。」

五胡とは
「4~5世紀の中国周辺の異民族である匈奴・羯・鮮卑・氐・羌をいう。三国時代から投身の時代に中国王朝の傭兵とされ華北に進出、混乱に乗じて五胡十六国と言われる国々を作った。

 胡(日本語の訓みは「えびす」)とは漢民族から見て北方民族(北方にいる異民族)を主とした異民族のことで、中国史では、匈奴・羯・鮮卑・氐・羌の五つの民族を言いう。彼らの多くは騎馬遊牧民であった。厳密に言えばこのうちの氐・は北方民族とは言わず、中国の西方なので西方民族とする。
 北方遊牧民の世界では、前2~前1世紀の間、匈奴が強大であったが、その分裂に乗じて、後2世紀頃から、他の遊牧民の自立と統一が進んだ。またその南の農耕民族である漢民族の世界で後漢が滅亡し、三国時代から西晋の八王の乱という混乱期に入ると、これらの北方遊牧民が中国の北半分(華北)に進出し、4世紀から5世紀にかけてそれぞれがいくつかの国を建てた。これらを総称して五胡十六国という。その間、彼らは華北に新しい統治方式(律令制など)を生み出しながら、一方で中国文明を取り入れて、次第に漢民族に同化していく。
 北方民族と共に、その動きに強く影響された氐や今日などの西方民族も同じような動きを示している。」

唐とは
「唐王朝は漢民族ではない、鮮卑の拓跋氏という遊牧民の系統にある人々が建国した。彼らは五胡の一つとして3世紀ごろ華北に入ってきて晋の動乱に乗じて北魏を建国した。その中核は「関隴貴族集団」あるいは「武川軍閥集団」といわれる軍事集団であり、北魏の後、西魏・北周と継承され、次の隋が全中国を統一した。唐を建国した李淵は隋の官僚・武将であり、関隴貴族集団を継承していた。このように唐の支配層となったのは鮮卑系の非漢民族であった。つまり、唐はかつての秦や漢のような意味では漢民族の王朝とは言えない。ただし、北魏以来の漢化政策によって漢民族との融合が進んだことも事実であり、漢民族の王朝としての歴史認識が一般的になっている。「漢化」の度合いについては諸説あり、最近ではその意義をあまり認めず、唐をあくまで「拓跋国家」ととらえるべきである、という考えも出されている。<森安孝夫『シルクロードと唐帝国』2007初刊 2016 講談社学術文庫 p.144~ 参照>
 たしかに均田制・府兵制などを軸とした律令制度、仏教の受容にみられる国際性などの唐王朝の特色には、従来の漢民族王朝とは異なる新しさがあることも見逃すことはできない。唐王朝を漫然と漢民族の王朝の続きと考えるのではなく、むしろ漢民族の王朝ではないと断定してから観ていく方がその実態を理解できるように思われる。」

唐詩とは
「唐詩の時期区分

 唐の三百年間の詩の歴史は、初唐・盛唐・中唐・晩唐の四期に分けられのが通説となっている。
初唐:唐成立(618年)から太宗の貞観の治を中心に、高宗・則天武后の時代の約100年(ほぼ7世紀)
盛唐:玄宗の開元元年(713年)から安史の乱の終了後の765年まで約50年間(ほぼ8世紀前半):代表的詩人には、王維・李白・杜甫がいる。
中唐:安史の乱終了後(766年)から敬宗の宝暦2年(826年)まで約60年間(8世紀後半~9世紀初頭):代表的詩人に白居易・韓愈・柳宗元がいる。韓愈と柳宗元は古文復興を提唱した。
晩唐:文宗の太和元年(827年)から唐の滅亡(907年)まで約80年間(ほぼ9世紀)
<松枝茂夫編『中国名詩選』中 p.25-26 岩波文庫 1984 など>」

白楽天は
「『長恨歌』で知られる中唐の詩人。白楽天。772~846年

 はくきょい。白楽天とも言う。唐詩を代表する中唐の詩人。安史の乱を背景とした玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋を歌った『長恨歌』(806年作)であまりにも有名である。楽天は字(あざな)。二十九歳で進士に合格、官僚として過ごし、多くの詩を残した。代表作は『長恨歌』の他に『琵琶行』がある。彼の詩は、平易な言葉でわかりやすく、広く大衆に受け入れられた。中国のみならず、日本にも早くから知られ、平安時代にはその詩集『白氏文集』が熱狂的に受け入れれられた。 」

紫式部
紫式部 年表
西暦(年齢)
978年(1歳)紫式部誕生
990年(13歳)定子が一条天皇の中宮になる。 ...
999年(22歳)紫式部、藤原宣孝(のぶたか)と結婚。 ...
1001年(24歳)夫宣孝死没。「 ...
1007年(30歳)紫式部、中宮彰子に出仕
1008年(31歳)『源氏物語』ほぼ完成?

・・・話し言葉しかなかった鮮卑の詩人たち(李白、杜甫、白居易など)が漢字で表現を高めた。日本に漢詩が入ると、平安時代の紫式部は白居易の長恨歌を引用して大和言葉で『源氏物語』を書いた。
 芭蕉は杜甫や李白の詩から政治的な趣向は除き、人生を謳う俳句にした。