司馬遼太郎『モンゴル紀行』の中のウイグル2021年03月08日

朝日文庫の街道をゆくシリーズの5巻目。
1972年9月の日中国交正常化で、モンゴルへの旅も正常化したのだろうか。大学ではモンゴル語を学んだという異色の作家ならではの紀行文である。
ウィキペディアには
「 旅のコース
新潟空港(新潟で1泊) → ハバロフスク(ヴォストークホテルで1泊) → イルクーツク(1泊) → ウランバートル(ウランバートルホテルで1泊) → 南ゴビ(数泊)
 少年のころから北方の非漢民族の興亡の歴史や広大なユーラシア大陸に広がる大草原、シルクロードなどに憧れとロマンを抱いていた司馬は文壇デビュー前に、『ペルシャの幻術師』や『戈壁の匈奴』(戈壁:ゴビはモンゴル語で「草の育ちの悪い砂礫地」の意)といった短編を書いていた。

 日本とモンゴルが国交を回復した翌年に、三十年来憧れてきた地に、「お伽の国にゆく感じ」で向かうことになった。

 同行者はみどり夫人、挿絵の須田剋太、司馬の恩師でありモンゴル語の権威の棈松源一。

 モンゴルでは案内役のツェベックマが登場する。なお司馬は後に『草原の記』(新潮社のち新潮文庫)で彼女の生涯を描いた。

 行きの飛行機で司馬が学徒出陣で戦車十九連隊にいたとき同じだった難波康訓に出会う(当時帝人輸出部長。イルクーツクで司馬一行の窮状を救うことになる)。」とあり、モンゴルとも国交を正常化したのだ。

 多岐にわたる紀行の中で「匈奴」の一節を読む。
・中国の周辺国家というのは、ことごとくといっていよいほど中華の風を慕い、中国文明を取り入れた。朝鮮とベトナムにおいてもっとも濃厚で、日本もその例外ではない。
 もっともひどいのは、東胡系(ツングース)の半農半牧の異民族で、かれらは五胡十六国の時代以来、中国内部に侵入して国を樹でることしばしばで、ときに金帝国のように強大なものも樹て、最後には清朝のようなものまでも作ったが、そのすべてが中国文明に同化し、その固有の俗をすてたばかりでなく民族そのものまでが大陸のるつぼの中で溶け果ててしまった。

・ところがモンゴル人のみが例外なのである。彼らは古来中国文明を全くと言っていいほどに受け付けず、むろん姓をつける真似もせず、また衣服その他風俗を変えず、言語の面でも多少の借用語があっても、その数は極めて少ない。彼らは大陸内部においてを元帝国をつくったが
、その時も中国文明を拒絶した。元帝国がほろぶと温暖の中国に愛着を持たず、さっさと集団で朔北の地に帰った。ふしぎな民族というほかない。

・が、モンゴル人から見れば、元来、農耕を卑しむために、特に元時代は農耕民である漢民族を賤奴のようにあつかった。むしろ商売をするウイグル人やイラン人あるいはアラビア人を漢民族より上等の民族として上の階層に置いた。

・・・ウイグル人も羊とともに移動する遊牧民であるが、乾燥地帯に位置するために草原が少なく、流砂のために川の流れも変わるという不毛地帯だった。モンゴル人は交易はなく、草原に生きることに知恵を絞ってきた。位置的に北と東はシベリア、南は中国なので通商の道は発達しなかった。今は大国のはざまで息をひそめて生きてるような印象である。ウイグル人は青い瞳の西欧系の人種であり、イスラム教であることからも漢民族とは合わないだろう。
 ため息が出るような中央アジアの現在と昔ではある。

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