山岳古道⑥五平餅の来た道2021年02月19日

 五平餅の発祥の地はどこなのか。愛知県、岐阜県の地理分布から推測すると塩の道の宿場には大抵ある。
 五平餅の原材料や普及するための諸条件
1 杉の板を製材する技術・・・尾張藩が木材を生産していた木曽谷の木曽五木はヒノキ・サワラ・アスナロ・コウヤマキ・ネズコの5つの樹木。なので杉は入っていない。JR坂下駅付近までは五平餅はあるが、その奥は余り気にも留めない。
 疑問点は木曽の奥までは普及しなかったのか?

2 木炭を生産する里山に近い・・・東濃一帯は窯業が盛んで700年の昔から陶器をやくために木炭が大量に消費された。加えて煮炊きにも使われた。そのため、戦後の東濃の山々ははげ山だらけだった。
 この前に登った恵那市と瑞浪市の田代山、屏風山は中心こそ桧の植林だが桧ではないところは松の大木が多かった。昔は里山として薪炭林を伐り出していたが、戦後ははげ山になり、地味が痩せた。急いで松を植えたのだろう。そして失業対策事業として桧の植林が行われたらしい。杉は建築材として貴重であるが端材もでるから再利用になったと考えられる。
 ちなみに恵那駅前のあまから本店は昭和31(1956)年の開業というから戦後が飢えと混乱から一段落した時期である。石油産業の歴史には「1950年代半ばごろから始まる石炭から石油へのエネルギー革命は、諸外国にもまして日本で著しく進展し、日本は、石油時代へ急速に進んでいった。」とある。トヨペットクラウンは国産乗用車第一号の発売が始まった。マナスルに初登頂した。など復興著しい日本の姿が見える。
 経済的にもピンチを脱した日本国民は挙って娯楽やおやつなどを求め始めた時代である。ロッテのガムも昭和32(1957)年の発売だ。五平餅は山村のおやつとして作られた可能性がある。
 エネルギー革命で製炭は急速に衰退した。名古屋市の古い写真でも煙が上がっていたが、電化が進み、ガス、石油が進んでいったであろう。そんな折安くなった木炭を使って五平餅をビジネスとして売り出す知恵者が居たに違いない。

3 米のとれる地域は水利が良い・・・お米をおやつに回すには安くないとできない。そんなに山奥でもない美濃の木曽川沿岸地域なら水利も良く自家米で対応できたであろう。いわゆる中馬街道周辺の県道を走っていると見事な田園風景が広がる。

4 味噌または醤油を生産する醸造の技術=塩は絶対いる・・・中馬街道は塩を運んだ道である。今のR153とR363、R257、R155である。

「その昔、中馬街道は三河湾でつくられた塩を山間部へ運ぶための「塩の道」でした。 矢作川を川舟で上り、古鼠(ふっそ=現豊田市)で荷揚げされた塩は、足助の塩問屋で荷直しされ、信州方面へ中馬によって運ばれていました。中馬とは、江戸時代の中ごろ、信州でつくられた馬の背で荷物を運ぶ人々の組合のことです。

 現在、中馬街道は国道153号となり、地域の骨格をなす幹線道路として、生活、産業、観光を支える役割を担っています。この国道153号の豊田市中心市街地から長野県の県境までのエリアが、風景街道として登録された「塩の道・中馬街道」です。」

「三州街道、伊那街道とも呼ばれる。三河方面からは塩や海産物、信州方面からはタバコや串柿などが運ばれた。中山道の脇街道として賑わい、農民が数頭の馬を連れて荷を運ぶ中馬が盛んに行われた。」

岐阜県の「国道363号に沿って残る「中馬街道曽木地内」は馬頭観音をはじめいくつもの石仏や道祖神に見守られた、江戸時代初期の商業道路です。中馬の名称は、江戸時代前期に信州伊那谷の農民が農閑期に自分の馬や牛で荷物を運ぶ賃稼ぎを行っていたことに由来します。現在は国道363号沿いの整備が進み当時の面影を残す箇所は少なくなってきています。」

5 店を構えてお客が取り込むには宿場=市場(マーケット)が絶対いる・・・中馬街道の宿場とは現在の運送会社のトラックターミナルみたいなイメージである。名古屋から馬で荷を運び自宅に戻れる距離で他の馬に荷を移し替えた。馬宿に泊まる人もいただろう。するとそこは宿場町になる。人、モノ、カネが集まる。一日中歩き通すから空腹も満たす。小昼なら五平餅程度でも間に合う。そんなマーケットがあったのであろう。

 五平餅はそんなに山奥でもなく、コメもとれる山里であり、里山で杉が豊富に生産されて、端材も出る。炭も焼かれる。塩の道なので必然的に醸造が盛んになり、土地土地の味噌、醤油が生産される。各地域でも老舗が多い。
 恵那や中津川に集中的に多いのは中山道への往来が多かったからといえる。権兵衛街道も木曽街道の発展でコメ、味噌、酒などを運ぶために開削された。

「江戸の人口が50万人に達し、味噌の需要に対する生産量がまかないきれなくなりました。そこで、三河や仙台からどんどん味噌が江戸に送られ味噌屋は大繁盛しました。また、江戸の人口は女性よりも男性が多く外食が発展し、味噌を使った料理も同時に発達していきました。」

 中津川市付知、恵那市明智の味噌醤油の会社は皆明治時代の創業で100年以上の歴史がある。生活必需品故に企業生命も永らえている。

 恵那山の伏流水が東濃を沃野にしたのであろう。塩の道が東西文化の交流の中で、五平餅生まれ、普及していったのではないか。