古書深田久弥・長沢和俊共著『シルクロード 過去と現在』(白水社)を買う2021年02月01日

 午後、上前津の三松堂古書店に行く。日本の古本屋にあった『シルクロード 過去と現在』の在庫を問うとあったので購入。著者は深田久弥と長沢和俊の共著である。定価1200円のところ、古書価格は660円だった。しかし、この本は寿命が長く、35年後の2003年の『中央アジア探検史』の後ろの広告では3398円になっている。初版は1968年で買ったのは1969年4刷だから結構うれたらしい。価格も3倍近くになったのである。
 ネットの書評では「1966年ヒマラヤ中央アジアの碩学、深田久弥、東洋史学者・長沢和俊との4ヶ月の自動車旅行。とはいえ当時中国は入れないので、パミールからイスタンブルまでの半分。 1980年、中国が改革開放で国を開いた直後、東トルキスタンへはいれるようになって日本ではシルクロードブームになったが、それ以前の書。」と紹介されている。多分一時期シルクロードがブームになった記憶がある。それ以前の探求書なのである。

 ウィキペディアによれば
          「シルクロードと日本
 日本には、奈良の正倉院に中国製やペルシア製の宝物が数多くあり、天平時代に遣唐使に随行してペルシア人の李密翳[20](り・みつえい)が日本に来朝したことに関する記録[21]なども残されている。当時の日本は唐代の東西交通路の東端に連なっていたと認識されており、摂津国の住吉津(現在の大阪市住吉区)と、御食国であるる若狭湾(京都府から福井県の南)は「シルクロードの日本の玄関」、飛鳥京や平城京は「シルクロードの東の終着点」と呼ぶことがある。

 シルクロードに関しては近年の日本における学校教育でも取り上げられていたが、歴史やヘディンの著書などに関心を持つ一部の人たち以外には、さほど興味を引く存在ではなかった。しかし、中華人民共和国との文化交流が進む過程でNHKが中国中央電視台とともに1980年に共同制作した『NHK特集 シルクロード-絲綢之路-』によって、喜多郎のノスタルジックなテーマ音楽とともに、一躍シルクロードの名が広く知れ渡ることとなった。」以下略

 そうだった、喜多郎のオカリナを思い出した。
https://www.youtube.com/watch?v=0etr-qhiKzQ

 深田は山の作家だが長沢は中央アジア専門の学者だ。とはいえ、深田も『中央アジア探険史』(白水社、2003年刊)を著した。558ページの大著である。未刊のまままだったのを、死後、深田しげ子夫人がまとめての出版となった。
 深田は68歳で死んだが同行した鈴木重彦も68歳で死んだ。長沢は90歳の長寿を得た。シルクロードの著作も多い。

シルクロードに思うこと2021年02月02日

 シルクロードは世界史の誕生でできた古道ということ。岡田英弘『世界史の誕生』のアマゾンのレビューに寄せられたコメントが簡明で要を得た内容なので引用させてもらうと

 「「西洋史」「東洋史」の2つの世界を同時に学ぶのが高校の「世界史」だったが、独立した関連性のない(ように見える)2つの世界について学ぶのは、正直なところ苦痛だった。
 しかし、中国を舞台にした歴史小説、あるいはローマ帝国を舞台にした塩野七生の小説を読むと、日本史にはないダイナミズムに満ちていて、実に面白い。世界史で学んだことのつまらなさとのギャップはいったいどこから来るのだろうという、どこか納得しきれない部分はずっとあった。

 岡田氏の論考は、この2つの世界を縦糸とするなら、遊牧民という横糸が合わさることで、世界史という1つの布を織りなしていることを証明するものである。「東洋史」を貫く思想が中華思想であり、「西洋史」を貫くのがローマ帝国やキリスト教を柱にする地中海(優越思想と言っても良い)史観だが、そこでは遊牧民の存在は矮小化、あるいは悪役視されている。
 しかし、大興安嶺からモンゴル高原、さらに中央アジアに至る地域に住む遊牧民の活動こそが、実は東西の歴史に重要な影響を与えてきたのであり、それはモンゴル帝国の成立によりその過程が完成したという著者の論考は、知的刺激に満ちている。

 一方で、著者の説は歴史学界において、完全に異端視されている。なぜなら、著者は「中国」が優越するとする中華思想が、実は遊牧民に抑えつけられ続けた中国人による一種のファンタジーであることを容赦なく暴いている。
 さらに、欧州(特に東欧)世界が、ロシア史の言うようなタタールのくびきから抜け出した栄光あるものではなく、実はモンゴルの延長線でしかないことを、さまざまな歴史的事実を用いて説明している。
 これは、既存の東洋史・西洋史の学者には到底受け入れられないだろう。歴史研究は史書を基盤にするが、その史書がよって立つところの虚妄を暴かれては、学者の反発も無理からぬモノがある。

 とはいえ、文献の少ない遊牧民の歴史を丁寧に調べ上げることで著者が見せた全く新しい世界観は、実にわかりやすく、そして魅力的だ。歴史の見方が根本的に変わる本書は、ある意味怖い本でもあるが、多くの人に手にとって欲しい、そう思えてならない1冊である。」

・・・中央アジアは欧州大陸と中国大陸のはざまにある。ゆえに中央だが、中心ということではなかった。そこをモンゴル族が欧州へと騎馬民族らしい移動を続けたことで世界史がなった。
 レーニンはモンゴル人の血とユダヤ人の混血というのも世界的な規模で見るとモンゴル人の隆盛を見る思いがする。

 その上で、中央アジア探検史の目次だけを眺めても膨大な時間の流れにため息がでる。かつては陸地の移動しかできなかった時代の東西の交流の中で発展と衰退を繰り返して来た中央アジアを貫く古道である。登山家たちはそんな経路にそびえる天山を見逃さなかった。そこに何があるか行ってみたい、という極地でないが、文化的な極地への憧憬だろうか。いかにも作家・深田久弥らしい取り組みではある。

長沢和俊『楼蘭王国』2021年02月03日

 1963年角川新書から加筆修正した1988年の徳間文庫版である。アマゾンにもレビューはなく取り付く島がない。本の内容をコピペすると
「内容説明
茫漠たる砂の海、白雪皚々の高原、七彩に輝く氷河や峡谷、それらを縫い、ラクダの白骨を目印にキャラバンが進んだシルク・ロード。1900年春、探検家ヘディンによって発見された楼蘭王国の王都クロライナは、かつてシルク・ロードの要衝として無類を繁栄を誇り、晋の西域進出とともに突如、廃墟と化したオアシスであった。夥しい装飾美術品、古文書等をもとに西域学の泰斗が神秘の国の全貌に迫る名著。

目次
序章 シルク・ロードのほとり
第1章 幻の古都を尋ねて
第2章 さまよえる湖
第3章 ローラン王国の繁栄
第4章 カローシュティー文書は語る
第5章 底辺に生きた人々
第6章 砂漠をおおう戦火
第7章 クロライナの夢のあと
第8章 東西文化の交流」
以上

 著者についてはウィキペディアからコピペすると
「略歴
1957年(昭和32年)、早稲田大学第二文学部卒業、早稲田大学大学院文学研究科博士課程を修了。東海大学講師、鹿児島短期大学教授を歴任する。
1966年(昭和41年)、シルクロード踏査隊の副隊長として、現地史跡を調査する。

・・・日中国交正常化は1972年のこと。当時は中国へは入国できないからパミール以西ということになった。
 この踏査隊は深田久弥(1903年~1971年、作家)、長沢和俊(1928年から2019年、学者)、鈴木重彦(1933年~2001年、日本山岳会東海支部)、藤原一晃(白水社)、朝日新聞が援助した関係で社会部高木正幸記者、カメラマンの関沢保治、朝日テレビの吉川尚郎の7名の自動車旅行であった。
 後に共著で『シルクロード 過去と現在』(白水社)を出版。パミール以西のシルクロードものの嚆矢だったと思われる。

1975年(昭和50年)、早稲田大学第一・第二文学部教授。
1980年(昭和55年)、『シルク・ロード史研究』にて、文学博士(早稲田大学)の学位を取得。定年後は早稲田大学名誉教授。就実女子大学教授に就任。
著書
『シルクロード 東西文化のかけ橋』 (校倉書房、1962年/校倉選書(増補版)、1979年)
『シルクロード』 講談社学術文庫、1993年 ISBN 4061590863。再訂版
『楼蘭王国』(角川新書、1963年/新版 レグルス文庫:第三文明社、徳間文庫)
『敦煌』(筑摩書房(新書)、1964年/新版 レグルス文庫:第三文明社、徳間文庫)
『チベット 極奥アジアの歴史と文化』 校倉書房、1964年
『ネパール探求紀行』角川新書、1964年
『日本の探検隊』早川書房(新書)、1966年
『シルクロード踏査記』 角川新書、1967年
『シルクロード遍歴』角川選書、1985年 増補版
『日本人の冒険と探検』(白水社、1975年、新装版1998年)
『パゴダの国へ ビルマ紀行』(NHKブックス、1977年)
『世界探検史』(白水社、1978年、新装版1996年/講談社学術文庫、2017年)
『シルクロードの終着駅 正倉院への道』(講談社現代新書、1979年)
『シルクロード史研究』国書刊行会、1979年
『東西文化の交流 新シルクロード論』白水社、1979年、新版1986年
『探検学 未知の世界に挑んだ男たちの記録』大陸書房、1980年
『シルクロード 歴史と文化』角川選書、1983年
『シルクロード文化史』全3巻、白水社、1983年
『シルクロード踏査行』くもん出版、1983年
『西安からカシュガルへ』旺文社文庫、1986年
『シルクロード博物誌』青土社、1987年
『シルクロードの旅人』徳間文庫、1988年
『海のシルクロード史 四千年の東西交易』中公新書、1989年
『楼蘭古城にたたずんで』朝日新聞社、1989年
『楼蘭王国史の研究』雄山閣出版 1996年 ISBN 4639013477
『シルクロード波瀾万丈』 新潮社 2000年 ISBN 9784104341016
『遥かなるシルクロード スケッチガイド 北京からイスタンブールまで』里文出版、2000年。画文集
共編著
『シルクロード 過去と現在』深田久弥共著、白水社、1968年
以下略
・・・以上のデータからほぼ生涯をシルクロード探求に掛けた学者だった。

岩村忍『文明の十字路=中央アジアの歴史』を買う2021年02月04日

世界史の窓から「トルキスタン」
講談社学術文庫版
内容:
「ヨーロッパ、インド、中国、中東の文明圏の彼方で、生き抜いてきた遊牧民たちの領域が中央アジアである。絹と黄金を運んだ悠久の交易路シルクロード。多くの民族と文化の邂逅と衝突。アレクサンドロス大王とチンギス・ハーンの侵攻……。仏教・ゾロアスター教・マニ教・ネストリウス派そしてイスラムもこの地を経由した。中央アジアの雄大な歴史をコンパクトにまとめた入門書。(講談社学術文庫)


東西の文明交流の担い手=遊牧民族の3千年。東から絹を西から黄金を運んだシルクロード。世界の屋根に分断された東西トルキスタン。草原の遊牧民とオアシス農耕民との対立と共存を軸に、雄大な歴史を描く。」


アマゾンのコメントから
① 「この本が書かれたのは1977年だから、ソ連崩壊後の中央アジアの激動は反映されていないし、欧米列強進出後の中央アジアの近代史は駆け足で簡単に触れてある程度だが、古代から近世に至る部分は通史の概説書としてよくできている。
 中国史の一部として、あるいはシルクロードの東西交渉史として触れられることがほとんどの中央アジア史を、東西トルキスタンに焦点を当てて概説したものは少ないのではなかろうか。現在は東トルキスタンは中国の新疆ウイグル自治区、西トルキスタンはカザフスタン、キルギス、タジキスタン、ウズベキスタン、アフガニンスタンにほぼ該当する。
 東西を分けるものはチベットからつながるパミール高原の急峻な山岳地帯であるため、東西で歴史の経過が異なっている。
 点在するオアシス都市国家と草原を疾駆する騎馬遊牧民の歴史はまさしく「民族の興亡」というにふさわしく、繁栄と没落のダイナミックな展開に興味は尽きないが、著者は定住民と騎馬民族の攻防の局面よりも、交易による平和的共存の時代のほうが長かったという。
 ただ、中国の歴史書やチンギス・ハーンの遠征記、あるいは玄奘三蔵やマルコポーロの旅行記などの史料で埋まらない空白部分の存在があり、まだわからない部分が多いことも記されている。
 ソ連崩壊後の西トルキスタンの諸国家独立や近年の中国の一帯一路政策により中央アジアは政治的経済的に変貌を遂げつつある。近年の研究も踏まえた概説書が望まれるところである。

 原著はやや古いものだが、現代でも十分通用する質の高い内容である。」

以下は「世界史の窓」から
・・・ トルキスタンとは、イラン語で「トルコ人の地域」の意味で、中央アジアのパミール高原の東西に広がる広大な草原と砂漠地帯を言う。この地域をトルキスタンと言うようになったのは、ほぼ9世紀ごろにトルコ系民族のウイグルが定住生活を送るようになってからのことである。それ以前は、パミール高原の西のソグディアナを中心としたイラン系のソグド人がオアシスに定住しながら、東西交易に活躍していた。すでに6世紀にトルコ系の突厥が中国北部からこの地域を含め、西アジアに及ぶ大帝国を作ったが、彼らは遊牧生活を続けており、遊牧国家という性格を強く持っていた。

トルコ系民族の定住

 それに対して、もともとモンゴル高原にいたトルコ系ウイグル人の国家が、9世紀にキルギス人に滅ぼされて、その一部がタリム盆地のオアシス地帯に定住して西ウイグル王国を建ててから、この地域のトルコ化が進み、さらにトルコ系民族は西進して西アジア各地に広がっていった。これに押されて他のトルコ民族(カルルク人など)がパミール高原西部に移住するようになり、この地域もトルコ化が進んだ。
 先住民であるソグド人、サカ人、トハーラ人などのインドヨーロッパ語族のイラン系民族が、定住した支配者であるトルコ人の言語に同化されていった結果、この地はイラン語で“トルコ人の土地”を意味するトルキスタンと言われるようになった。トルキスタンは広大な範囲を指すが、パミール高原を中心にして、その東を東トルキスタン、西を西トルキスタンという。

コメント② 「中央アジアという地域はあまりなじみはないかもしれないが、東は中国、南はインド、西はギリシア、ペルシア、トルコ、北はロシア、モンゴルと接し、古代からさまざま文化、軍事勢力が群雄割拠し、カラフルな彩りを示してきた。世界史の縮図といってもよい密度の濃い歴史の舞台となってきた。

 本書は先史時代から現代に至るまで、この時代の歴史を誠実に描く。アレクサンドロス大王、感の武帝、チンギスハン、様々な英雄が織り成す活劇が展開され、あきることはない。

 この地域の歴史の入門書としては申し分ない。ただし、近年では特に現地の言語資料の解読や、歴史観、歴史理論の進展により、これらの地域の研究はさらに進歩が著しい。さらに研究を深めたいならば、杉山正明、岡田英弘といった名前や中央ユーラシアといったキーワードで最新の研究に進まれることを薦める。」

・・・世界史はモンゴルから始まったという岡田英弘の著作集は揃えてあるがいつ取り掛かれるやら。中央アジアすなわちイスラム社会は世界の中でもっとも分かりにくい地域である。
 中国、アメリカ、ロシアなどの大国が手を焼いて来た。今も中国がウイグル人をいじめているが、歴史的には中国は攻められていた側だろう。万里の長城も外敵から守るためだったが、自らを閉じ込める結果にもなった。
 この一帯は砂漠が広がる。最初から砂漠はあり得ないから、遊牧民の飼う羊により草も根っこから食うために砂漠化したのではないか。さらに煮炊きに使う木材もかつては森林があったと思われるが、伐採のみで植林しなかったから乾燥地帯になっていったのではないだろうか。この地域の自然史も知りたいものである。

髙山正之著『コロナが教えてくれた大悪党』を買う2021年02月05日

 新潮社。著者は産経新聞の元記者。並みの記者と違うのはイスラム地域の実情に詳しい点だろうか。分かりにくい中央アジア周辺の話を分かりやすく書く。そして中国と韓国への舌鋒鋭いペンは未だ衰えず、この「変見自在」本のシリーズで何と15冊目にもなる。
 つまり著者の得意の地域は欧州にいじめられて来たイスラムであるし、ロシアの侵略に苦しんだ中央アジアになる。また英国、オランダ、フランスの植民地になった東南アジアも同じである。ただ、中国と韓国だけは欧米にいじめられて来たにもかかわらず、反日国になった。欧米の黄色人種同士を戦わせる意図が見抜けなかったのである。或いは知っていても儒教の悪に染まり日本と融和できない。
 この著者の切り口は常に新鮮であり、ひねりも効いている。

久々に鶏飯をつくる2021年02月06日

 久々に鶏飯を食べたくなった。親鳥が入荷しておれば作ろうとスーパーへ出かける。外は寒いがものすごくいい天気である。ホントは山行きだったが深夜遅くまで読書で朝起きられなかったのである。
 親鳥はあった。ごぼう、にんじんを下ごしらえする。フライパンでそれらの具材を炒める。脂は別に買った鳥皮を炒めてとった。火が通ったところで砂糖と醤油で調味する。別に炊いてある白飯に混ぜ込んでかき回すと出来上がる。ごはんはいつもより水を減らしたからぱりっとした炊き上がりになった。親鳥の肉のコクがしみ込んで美味しい。ごぼうの香りもしっかり。人参の色どりもカロチンの栄養価が高い。
 加えて、店頭でワカメの新物をみたので買いおく。量的には多めなので刻んで、一人分づつ、ポリ袋に小分けして、今日の分は別にして残りは冷凍した。前に買ったあさり汁に入れた。食べると体から悪いものが発散していくような気がする。
 栄養は「食物繊維(乾燥重量の約40%)、脂質、ミネラル」のほか、「アルギン酸は整腸作用やコレステロール低下作用が有名で、その確かな効果から、アルギン酸を添加した特定保健用食品も販売されています。フコイダンは、がん細胞の増殖を抑制する作用などが知られています。」というから侮れない。
 実は干しワカメも塩蔵品も備蓄はあるのだが、ワカメの旬は「わかめを採取する時期は大体2月頃から始まり、五月頃最盛期を迎えます。 寒中に生えてくる新芽を生で食べるのが、もっとももおいしいといわれています。」というわけで今である。

東濃・田代山を歩く2021年02月07日

 笹平登山口から黒の田湿地を経由して田代山へ登った。フキノトウやフクジュソウにでも出会えないか、と思った。40年くらい前に一等三角点研究会に入り、一等からしらみつぶしに登り始めた。
 屏風山は初期に登った。あの頃は地図からは分からず、ガイドブックと同志の情報交換が頼りだった。だから入会する理由があったわけだが、今では全国の一覧がネットで知ることができる。それでもマニアックな山は研究会の情報が貴重である。黒の田湿地も初めてではないと思うがもう歩いた記憶はない。先日の雪が少しだけあり、春は未だしの感がある。フキノトウすら会えなかった。
 田代山へは湿地から良い道が上がっている。旧牧場からくる道との合流地点前はやや不明瞭である。田代山の南西のコブは約829mあり、これを越えて登り返すと山頂だ。
 田代山は古い記録では819mであるが今は820.0mになった。3等三角点が埋まるが樹林の中で展望は皆無である。
 帰路は合流地点まで戻り、直進すると田代山高原牧場の廃墟へ下ってゆく。途中に牛の水飲み場跡があった。さらに下ると左へ電波塔への舗装路に出会う。電波塔へは行かず、そのまま下ると右手に牛舎の廃墟があった。廃墟の裏の819mのコブへは踏み跡がある。猪の罠が仕掛けてあるところで終点。そこから植林の中の尾根を辿るが、踏み跡はない。GPSで確認しながら下ると荒れているが深い踏み跡が出て来た。古い杣道だろう。尾根を忠実にたどる。地形が複雑で行きつ戻りして688mの4等三角点(笹平)を確認して、道の無い尾根を下って笹平の山里に出た。読図力がためされる。GPSが必須だった。
 笹平は中山間地域で圃場整理が行き届いた美しい山里だった。Pへ戻る際に媼に挨拶した。94歳というから亡母と同じだ。母は若くして死んだが存命なこんな風に生きているんだろう。孤絶された山里で一人生きることはできまい。嫁が気を使って声をかけてくれるという。言葉はしっかりしており、世の中のことも見ている。
 狭いたんぼを圃場整理されたはいいが、田植え機、耕運機など機械の購入と修理代が大変かさむと嘆く。年金をつぎ込んでいるんだともいう。今の農業は農協の管理下にあり、イネも苗で買うし、種も買うのである。昭和30年代の私の実家ではトウモロコシやなすびの種をいつも保存していたものだった。その上に肥料や機械類もみなカネがかかるのだ。嘆かわしい話を打ち切ってPへ戻った。
 時間が早かったので恵那駅前の「あまから本店」に行き、だんごタイプの五平餅を食べに行った。検索すると恵那市は多数の店がヒットするので山へ行くたびに食べ比べしてみたい。特徴は三河のわらじ形の味噌だれではなく、だんご形で醤油ベースのクルミだれである。クルミのコクとゴマの風味がうまい一品だった。店内で食していると次々に客が来て10本、20本と買っていく。たかがご飯をだんごにして串に刺し、炭火で焼いただけなのに愛されているんだと思った。瑞浪市他にも支店をだすほどの繁盛ぶりである。

山岳遭難ー生死の分かれ目2021年02月08日

行方不明のスキーヤーの男女を発見「穴を掘って一晩を過ごした」 岐阜の北アルプス
https://news.yahoo.co.jp/articles/ed899cdb2969dfd1e87e44120bacd6b5751c8a5c/comments

コメントから
・2手に分かれって、どちらの方がスキー能力差があり付き添ったんですかね?
冷静なご判断とビバーク出来る力量はご立派です!
自然相手ですから、最悪の事態も想定していたんでしょう。

・この方たちは山を知っている人だったから、無事に下山できたのです
山を知っているとは、山がいかに危険かを考えて装備も行動も知識も
積み重ねている人たち
通常、山をやっていると不慮の事態も少なからずはあります
ただし、それを前提に装備も知識も考えて対応できるように
それぞれが努力しています
もとろん、対応できないと判断したら撤退します
それができる人とできない人との違いです

ちかごろはそれができない人が増えてきて、電話一本で人に救助されることが
当たり前になってますけど、まずは自分で何とかするのが自己責任ですよ
責任取れないなら山に行く資格ないです

自分の命は自分でまもらないと
救助ありきの山はだめだと思います

・・・雪洞を掘るためのスコップを装備していた点は良かった。かつて、3月の北アでプロガイドが高齢の登山者を連れて唐松岳に登った。二つ玉低気圧が来ているにもかかわらずに登ったもののお客さんの足が遅かったのか、稜線で吹雪に捕まってしまった。ガイドはスコップを持っていなかったのでピッケルで老人2人を入れる雪洞を掘り終えて疲労で死んだという。

二つ玉低気圧の怖さ2021年02月09日

 2/7に乗鞍岳で起きた遭難事故は無事に下山。同日木曽駒では29歳の若い登山者が木曽駒と中岳で力尽きたように染んだ。天気図を見ると6日は日本列島に南岸低気圧、2/7は北海道の東に多数の低気圧が見られた。低気圧が発生するとそこに向かって風が吹く。つまるところ天気が悪化する。
 低気圧は空気が軽い、という表現をする。例えば先日の低山の標高は688mだったが時計の高度計では735mを指していた。空気が軽いために気圧計のセンサーも軽いから高く表示される。逆に高気圧だと実際の標高より低くなる。空気が重いのでセンサーを押し下げるからだ。
 私の住まいは地上で15mだが。12階だと50mくらいになるが、台風襲来時に計測すると200mを越える。台風は熱帯低気圧というから超軽いわけだ。今は高気圧なのでマイナス50mを計時している。この力が気象に及ぼし、山では降雪や降雨、強風という現象になる。高所なので気温の低下も甚だしい。
 二つ玉低気圧は強力な低気圧が二つも来るから影響も大きい。その上、来る前に半日ほど快晴になるから厄介である。それに誘われて登山をすると稜線で吹雪につかまりかねない。小屋に入れればいいが、或いはスコップで雪洞を掘ってビバークできればいいがそうはいかず多数が遭難してきたのである。

山岳古道①覚明行者の開拓した登拝道ー木曽越峠から白巣峠2021年02月10日

 山岳古道についての打ち合わせ会を持った。会として五か所をアップすることになるが、その組織づくりを始める。切り口をどうするか。これが古道だと取り上げても賛意が得られるか、興味を持たれるかが疑問である。そこであらまし歴史的な人物、食い物文化、古墳、信仰などのカテゴリーを考えてみる。
1 御嶽山の黒沢口の登拝道は春日井の覚明行者という。
「御嶽山を一般の人が登拝できるようにした覚明行者の誕生地ということで、春日井では江戸末期から明治時代にかけて、誕生講を中心に大部分の市域で御嶽講が結成され、下街道は御嶽参りの人々でにぎわった。そして、多くの先達が輩出し、市内各所に霊神碑が林立するお山が分布している。
現存する講を御嶽信仰の上部団体との関係でみると、御嶽教はなく、神道大教4、木曾御嶽本教3、地元完結型3である。(註6)」

「中央線が明治33年(1900)年多治見まで、同35年中津川まで、同43年木曾福島、翌年塩尻まで全通している。鉄道が開通するごとにその終点から御嶽をめざし、下街道から御嶽詣の人たちの姿は消えていった。
中津川まで開通してからは、付知―白巣峠―王滝村から頂上をめざすルートもにぎわい、付知には宿屋が5軒ほどあったという。(註2)」

http://s-i-n-o.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-d1a749.html

「木曽越峠の名は、木曽義仲が越えたという伝承によるが、加子母から木曽越峠、信州王滝村に抜ける道は、江戸時代の寛政年間(1789-1801)に御嶽登山道として、御嶽行者の覚明によって開かれた。余談ながら、覚明は愛知県春日井市牛山町の出生で、名鉄小牧線間内駅前に覚明霊神の像があるので親しみがある。加子母村から木曽越峠を越えて渡合へ、さらに白巣峠を越えて滝越経由で、王滝へと至るルートだ。嘉永2年(1849)には、この御嶽登山道が荒れてきたため、加子母村と王滝村の人が中心になって、補修の寄付を募っている。文久2年(1863)には、加子母と付知の人が発起人になり、道に迷って命を失った人の菩提を弔い、道案内として登山者を守るため、加子母村を基点に王滝村まで33体の石仏の観音像が安置された。」