枯れ果てて誰か火を焚く子の墓域 龍太2021年01月26日

 何でこんな句が生まれたのか。検索すると父蛇笏と同じく、逆縁の悲しみを抱いてきた人だった。

「 抱く吾子も梅雨の重みといふべしや

 昭和二十六年の作であるから、長女公子・八歳、次女純子は前年に出生している。したがって、この句は次女を対象としている。八歳の子では重すぎるであろうし、梅雨の重みとしては適当ではない。じめじめした長雨の大気の重さを、抱いた子の重みと感じた表現に、新しい俳句の方向がみえ新鮮である。しかも、「いふべしや」ときっぱり言ったことで、作品に重厚さがにじむ。長女、次女とも今は亡く、蛇笏同様に逆縁の憂き目をみる。」とあるごとくである。

 今日では個人情報の極みではあるが、
https://plaza.rakuten.co.jp/kamomeza/diary/201209080000/
「(補足)2016年11月26日
多くの年譜でもあえて触れられていないが、龍太の妻は、兄総一郎の妻であった俊子(1924-2008)である。いわゆる逆縁婚(レビラト婚)であった。これが、戦争がもたらした厳しい現実である。俊子は総一郎の間に公子を儲け、龍太との間に純子、秀實、由美子を儲けている。」

・・・龍太は兄の戦死により、兄総一郎の妻俊子と子の公子を家族にしたのである。子にした公子も先に死んでしまった。こんな深い真相を知ってしまうと表題の俳句もいっそう悲しみを帯びる。

 結局、人間を読め、と偉そうに主張した一派が勢力を増した時期があった。そんなことは幸せな人たちであろう。悲しみを背負って生きる人は自然に心を寄せるのである。
 山岳俳句の前田普羅、また現代俳句の岡田某にしても弟が自殺するという悲しみを背負うから山岳美に没頭することでしか心の安寧が得られないのである。こうしてみると前田普羅と飯田蛇笏が意気投合したのも似通った境遇と山に寄せることで人格を陶冶していったのであろう。人生の不安定さに比べれば山は不動の位置にいつもいてくれるからその安心感を得るためである。