炎天の遠き帆やわが心の帆 山口誓子2020年08月13日

 俳人の山口誓子は東大卒、住友のエリート社員だった。戦前から病気もちであった。四日市市の富田で療養していた。今も家は実在するが、他人に譲渡されており中へは入れない。外には療養地だったことの碑がある。肋膜炎の療養の為に昭和16年から28年迄の12年間、三重県の四日市市富田、天ヶ須賀海岸、そして鈴鹿市白子の鼓ヶ浦に居住していた。
 近くにある句碑
https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/haiku/kuhi/detail?id=457443

 暑い夏の日に遠く伊勢湾に浮かぶ帆船を見たのであろう。戦後まもない日に病弱で孤独な自分の心境を海に浮かぶ帆船に託した。白砂青松の冨田浜の療養の甲斐があり、病は段々癒えていった。
 約10年後の昭和31(1956)年5月9日に日本山岳会のマナスル遠征隊が世界初登頂を遂げた。敗戦後の日本人に勇気を与えた。
 昭和34(1959)年4月29日に御在所岳ロープウェイが開通するが、山口誓子は開通する前に自力で登山を試みる。世話を焼いていた地元の人は心配して籠まで用意したが乗らなかった。自力で登り宿に帰り、医師の診察を受けている。大抵は登頂で万歳するが彼は下山後に万歳した。病を制服したことへの安堵感であった。
 冨田の療養先からは様々な名句が生まれている。病弱であることは名句の下敷きになるのだろうか。石田波郷も然りである。山口誓子は戦争には行っていない。病弱だったが92歳まで生きた。