西三河・蚕霊山434.9mと茶臼山418.2mの三角点を歩く2020年05月24日

豊田市の茶臼山418.2m
 緊急事態宣言で外出自粛が続き、「巣ごもり」生活の結果、肉体的に疲れることはないためか、夜型人間になってしまった。午前3時、4時まででも起きてしまう。すると一旦眠れるが8時、9時に起きても朝食の食欲は余りないことになり、ぐずぐずと昼前まで雑務に明け暮れる。結局出かけるのは午後遅く、早くても14時になる。その結果中途半端に終わったピークハントがあった。サイクリングとハイキングを兼ねて行った5/5の蚕霊山と昨日の東萩平の茶臼山だ。
 そこで今日は午前中に出発することを第一にした。まず豊田市小原町の蚕霊山である。クルマで山頂付近まで登れてしまうのでハイキングの要素はない。かつては登ったがもう記憶の彼方になった。頂上は蚕霊神社の境内でそこの隣に宮司さんたちも住んでいるのだろう。三角点は隣の小さな神社の石碑の奥に埋まっていた。それでも来る人はいて山頂板がぶら下がっている。 

 蚕霊神社の案内板には、もともとは御嶽大明神が祀られ江戸時代から信者も多かったという。明治20年に小原村に伝染病は流行、それを契機に伊勢神宮外宮より、大気都比亮命(オオゲツヒメ)を勧請して蚕霊神社の建立となった、という。
 
 明治20年とはどんな時代だったのか。これも検索してみた。
https://say-g.com/topics/609
①1822(文政5)年8月14日 日本で初めてコレラの感染が確認

「「日本の細菌学の父」と呼ばれる北里柴三郎が、1887(明治20)年に、第6回万国衛生会議で行った口頭発表をまとめた「日本におけるコレラ」によると、
「長崎とジャワ島との間を往復する一隻のオランダ船が、この伝染病を最初にわれわれのもとへもたらした。長崎は当時の日本において異国人、すなわち清国(中国)人とオランダ人と貿易取引を行うただひとつの都市であった。コレラはまずそこで発生し、長崎を取り囲む日本の南西部に広がったが、数ヶ月後に日本の内陸部へと到達し、間もなく大流行となった」と記しています。

※オランダ人が不潔だった証拠に江戸川柳がある。

登城する紅毛にハエのついていき

紅毛というのは当時のヨーロッパ人をいうが、「1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、1854年(嘉永7年)の日米和親条約締結までの期間を「鎖国」」の時代はオランダ人を指す。「オランダだけは「人悪し、国もまた悪し」」だったらしい。

②日本国内で2度目のコレラ大流行となった1858(安政5)年
長崎で発生したコレラは数ヵ月の後に江戸へと至り、8月下旬から数ヵ月で10万人以上の死者を出したと伝えられています。加えて江戸にとどまらず、京都・大阪にも被害が拡大。深刻な打撃を与えています。

このときの大流行はとどまるところを知らず、「1859年から1861年にかけて、この流行は時には局所的に、時には国内至るところで発生し」た。

③1878(明治11)年〜1879(明治12)年の流行

④当時の防疫知識を総動員して対応にあたってはいたものの、コレラの猛威には対抗できず、1886(明治19)年にも、10万人を超える死者が出た。

・・・小原村の伝染病はコレラだったのだ。これを封じるためにこの神様が勧請されたというわけだ。今回のコロナ禍も1回では終息せず、何度も感染するのだろう。専門家と称する人は群盲巨象をなでるごとく、薬の開発は途上だし、治療法も確立していないのだ。

 大気都比亮命は日本神話の神様。
ウィキペディアには
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AA%E3%82%B2%E3%83%84%E3%83%92%E3%83%A1

「高天原を追放された須佐之男命は、空腹を覚えて大気都比売神に食物を求め、大気都比売神はおもむろに様々な食物を須佐之男命に与えた。それを不審に思った須佐之男命が食事の用意をする大気都比売神の様子を覗いてみると、大気都比売神は鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していた。須佐之男命は、そんな汚い物を食べさせていたのかと怒り、大気都比売神を斬り殺してしまった。すると、大気都比売神の頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれた。 これを神産巣日御祖神が回収した。」

・・・頭から蚕が生れたというところがミソだな。

 次の東萩平に向かった。この山は周囲が車道に囲まれているので南回りに走った。結構な急斜面に山家が張り付くように建っている。谷もないのに水はどうしているんだろう。そういえば頂上の家も水がない。しかし地形図をよく見ると標高350m付近は水線ががあり、湧き水があると思われる。小さな谷間に水田もあった。案外水は恵まれているのだろう。大規模な谷は土木技術が無いと制御できないが家族が暮らせる程度の水は不自由しないのだ。

 というわけでまた県道11に下り、笹戸へ行って矢作川左岸に移る。市平からヘアピンの山道を走る。ゴルフ場があるために道案内があり、簡単に水上に着いた。今日は茶臼山の「登山口」付近にデポした。お須原山との鞍部になる。ちょっと探すと赤いひもがぶら下がっており、蜘蛛の巣を払いながら廃道の山道を辿る。登山口のヤブ、枯れ枝、倒木の散乱状態を抜け出ると落ち着いていて、赤いテープも見える。とはいえ、418mの山である。山頂近くになると踏み跡もしっかりしてきた。赤テープが二重に巻いてあるところからすぐで山頂だった。四等三角点が埋まる近くに山つつじが咲いている。展望は樹林の中なので皆無である。

 帰路は尾根を戻るつもりだったが赤テープを二重に巻いたところは谷へ下る踏み跡が比較的明瞭だったので小さな冒険を試みてみた。源頭では倒木や枯れ枝が散乱し荒れ気味だった。大きな岩が散乱する谷の左岸に不明瞭な踏み跡が続き、辿ると車道に出た。クルマにはすぐに戻ったが時間はあるのでお須原山に登った。風が心地よい。初夏の使者かというホトトギスが近くに来て鳴きながら去って行った。もうすぐ夏だよ、という。

 緊急事態宣言はもう解除されたものの愛知県独自にはしばらくは続けるという。コロナウイルスを完全には封じ込めることは出来ない。しかし、こんな三密ではない山歩きなら健康維持になりこそすれ病気にはなるまい。
 帰名の途次、矢作川河畔の「うな武」で遅い中食を取った。健康のためにうな丼3350円を奮発。近場で高速料金も掛からず、ガソリン代も知れてる。その分食事に回す。カーエアコンを利かせながら帰名した。