奥美濃・高丸(1200mまで)2020年03月01日

 2/29の夕方、小雨の中、メンバー3名で出発。夕食の食材と酒を買い込む。地道で揖斐川奥のR303へ。道の駅さかうちで仮眠の予定だったが昨年の」バイクランドもありで行ってみた。ここの方が人家がなく過ごしやすい。テントを張って夕食を共にする。早目に就寝。
 午前4時半、起床。朝食の準備などであわただしく過ぎてゆく。幸い空は晴れてゆく。残り1km余りを走ると椀戸谷に着く。ここで身支度して午前7時に出発した。林道にほとんど雪はない。周辺の山肌も斑雪で春の終わりの様相である。椀戸林道を詰めると標高730mの終点に着く。約1時間かかった。ここから尾根に取りつく。杉林の間はやや危険な崖っぷちをたどりブナ林へと進む。ブナ林は二次林だろう。やや急な尾根にかすかな踏み跡を求めるがやがて雪が出てきた。
 急斜面を喘ぎながら登る。すると若い登山者が追い付いて来た。スノーシューで烏帽子岳を目指してきたという。雪は段々深くなり、1114m付近で私はワカンを付け、2人はスノーシューを装着した。上部では藪を抑えるだけのまあまあの積雪にはなる。周囲の景色も良く見えてきた。近くの烏帽子岳、目的の高丸は三角錐の秀麗な山容を見せる。能郷白山が堂々と見える。明るい春日の差し込むブナ林を歩く。1200mのジャンクションピークで12時を回ってしまった。ワカンの私はここで撤退し、スノーシューの若い2人は高丸をトライしてもらった。ここからでも美濃俣丸、大河内山、笹ヶ峰、伊吹山、金糞岳、蕎麦粒岳などが見えた。すべて曾遊の山々になった。
 12時40分に下山を開始。雪上の踏み跡と赤い布を確認しながら安気に下れる。ワカンは登りの機動力でスノーシューに劣るが、下りでは爪があり、登山靴の踵の蹴り込みを使えるのでスノーシューよりは早いと思う。
 元のトレースを忠実にたどって林道に降り立った。後は林道を淡々と下るのみだ。途中で山菜採りの夫婦に出会った。彼らも奥美濃の山々を愛する人たちだった。話を投げ返すと再び投げ返されて長話になった。そのうちに若い登山者も烏帽子岳登頂してきたと話の間に入った。わが仲間は待っても来ないので下山した。帰路、道の駅で温泉に入湯して帰名した。

蟷螂の斧に終わった対馬市長選挙戦2020年03月02日

 3/1の長崎県対馬市長選挙は現職の比田勝さんと大阪から対馬の将来を想う荒巻さんの対決となりました。荒巻さんは電源三法で対馬にNUMOを誘致して財源確保の必要性を訴えた。対馬の住民はそれを承知しながらも現職支持で現状維持を結果で示した。
 現職には知恵を絞って対馬に尽くされたい。また蟷螂の斧で終わった荒巻さんと支持母体の日本第一党にもエールを送りたい。どちらにせよ、脱韓国人である。
 大阪市民の荒巻さんは地元に顔も売れておらず、徒手空拳で戦ったわけですが、有権者の多くが情弱の高齢者の現状ではユーチューブによる公約発信も得票の獲得に貢献しなかった。しかしそれでもよそ者に1908票を与えたのである。批判票というには頼りないがゼロではなかった。
 余りにも唐突な印象のあるNUMO誘致は住民の理解を得られなかった。結果、対馬市だけでは経済再建は無理なので国の助成金に依存することになるのだろう。北海道、沖縄と同様に地政学上の重要な拠点でもある対馬はどんな変革をしてゆくのか。
 地元の観光協会のHPによれば対馬観光はオーバーツーリズムの状況なのだそうだ。この需要にこたえて開発すると大切な自然が失われる。30人から40人規模の団体が楽しめる観光メニューを募っている。
 また私が訪ねた年末年始は公共観光施設がすべて閉鎖中であったから見学ができなかった。今回は12/29から1/5まで滞在したが万松院だけ訪問できた。私は1人で万松院、清水城址などを訪ねたがやっぱり年中無休のボランティアガイドが居ると助かる。万松院ではたまたまクラブツーリズムの団体客の添乗員のガイドを立ち聞きして面白かった。(笑)
 厳原港に1日3回くらいは対馬南部だけでも良いので格安な観光ガイドバスを走らせれば楽しいだろう。

武漢肺炎の蔓延で3月の会合はすべて中止?2020年03月03日

 次々と大切な会合が中止に追い込まれている。個人的にも公的にも例外はない。
 地下鉄も怖くて利用できない、2/28には観たい映画が封切りされたが感染が怖くて行っていない、書店もスーパー併設以外は行っていない。なるだけ不特定多数との接触を回避するにはこうするしかない。
 3/9がターニングポイント?になるらしい。潜伏期を終えて陰性が確認されれば入院から解放されるからだ。

会計指導の話 実務者との面談2020年03月04日

 午後から県外の企業に会計指導に出向いた。小雨が降っていていやな天気だが仕事だからやむなし。今日は経営者とその家族の方で実務をになう人との面談も交えた。
 経営者の希望は財務諸表の読み方とこれから経営拡大に向けての判断力の指標となる読み方、会社資金の流出を防ぐ方法という方向に絞られてきた。要するに税理士は納税者から報酬を得ながら税務署の方を向いて仕事をしていることへの不満である。
 しかし税理士に経営指南を仰ぐのは無理である。彼らの専門性は試験科目の税法と簿記会計に限定される。経営学、能率学、IE,QCといった科学的な経営学の知識や経営の経験は問われていない。税理士業界のトップが営業がうまいのでいつの間にか税理士が経営顧問のような顔をされて居座っているのである。
 これまで会社員として経理の仕事に携わった経験の当方が言ったことは税理士任せではダメですよ、と。依頼する方も理論武装が必須です。これは弁護士でも同じことで、弁護士任せで巨額の財産を訴訟で失った資産家も居たのである。次回はもっと突っ込んだ話題にしたいと思う。

身をかがめ立ち向かふごと春北風2020年03月05日

3/5の15時現在の実況天気図
 今日は北風が強かった。ビルに当たり増幅されて飛ばされそうなほど強かった。春の天気は降る吹く曇である。冬は西高東低の気圧配置だが天気図を見ても北海道をはさんで二つの低気圧が座るシベリアからの北風が吹き込む。北はもっと荒れたであろう。

すっきりと見へし猿投の山笑う2020年03月06日

 今日はいい天気だった。猿投山の右肩下がりの段差もくっきり見えた。あの辺にオオウスノミコトの墳墓がある。オオウスノミコトはヤマトタケルの兄である。
 今年は日本書紀1300年の節目の年に当たる。尾張地方はヤマトタケルの故地が大変多い。大方は自転車で経めぐった。ただ日本書紀1300年の記念行事はもうすぐ終わる。武漢肺炎の拡散防止で開催期間が短縮されたためだ。また機会を見つけて行ってみたい。

俳句に詠まれた伝染病ー阿蘭の艦(ふね)が去んでもコレラかな2020年03月07日

カピタンに思われて死ぬコレラかな     前田普羅

阿蘭の艦(ふね)が去んでもコレラかな

 当時の居住地横浜を舞台に詠まれた。

 普羅句集には所収されていない。「ホトトギス」大正元(1912)年十月号に初出句して採用された。普羅29歳だった。

検索で追うと
ヘスペリア号事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6


感染症の歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9F%E6%9F%93%E7%97%87%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2#%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%83%A9

カピタン
カピタン(甲比丹、甲必丹、加比旦)とは江戸時代、東インド会社が日本に置いた商館の最高責任者「商館長」のこと。元はポルトガル語で「仲間の長」という意味があり、日本は初めにポルトガルとの貿易(南蛮貿易)を開始したため、西洋の商館長をポルトガル語の Capitão(カピタン)で呼ぶようになった。その後ポルトガルに代わりオランダが貿易の主役になったが、この呼び名は変わらなかった。


・・・・「長崎にあった出島のオランダ商館長のカピタンは、定期的に将軍に謁見するために、献上物を持参して参府することが定められていました。」とあるようにオランダ人のビジネスマンだったようです。

「日本では、最初に発生した「文政コレラ」のときには明確な名前がつけられておらず、他の疫病との区別は不明瞭だったが、流行の晩期にはオランダ商人から「コレラ」という病名であることが伝えられ」たので、阿蘭陀(オランダ)の船が日本を去ってもコレラという言葉が残ったの句意か。カピタンの句意は今一不明である。

 他に見つかったのは
月明や沖にかゝれるコレラ船 日野草城「花氷」所収
・・・これは句意明瞭です。「コレラ船はコレラ患者の出た船のこと。昔は蔓延を防ぐため、入港を禁止された。」そうです。現代はクルーズ船です。閉鎖空間の船は疫病に弱いのは歴史が示しています。

コレラ出て佃祭も終りけり  松本たかし「松本たかし句集」
・・・落語の作品らしいが、佃島に船で行き帰りするので伝染を防止するため祭りも中止になったということか。いまもむかしも変わらない。

コレラ怖ぢ蚊帳吊りて喰ふ昼餉かな
杉田久女「杉田久女句集」
・・・あの久女がこんな句を詠んでいたとは知らなかった。

余録
俳人・夏井いつきさんの…
https://mainichi.jp/articles/20170727/ddm/001/070/179000c

以下は上記の記事中にある。夏井いつきさんはコレラ船は絶滅季語というのである。季語だったこと自体が忘れられている。しかし、今も武漢ウイルスが蔓延中で世界中を襲っている。忘れてはならない季語ではないか。

コレラ船いつまで沖に繋(かか)り居る  高浜虚子
・・・大正3年の句。

コレラ怖ぢて綺麗に住める女かな

コレラの家を出し人こちへ来りけり
 (虚子五句集P43。「五百句」大正3年作)

他にも

コレラ船デッキに人はなかりけり  山下一行

俳句に詠まれた伝染病ー感染を怖れて居れずコレラ診る(幸野梨枝)2020年03月08日

 虚子編『新歳時記』(昭和9年)と稲畑汀子編『ホトトギス新歳時記』(昭和61年)の両方ともにコレラは採用されています。ほぼ踏襲されています。コレラ、赤痢、瘧(ぎゃく、マラリアのこと)、霍乱(かくらん、くわんらん、急性胃腸カタル)など。
”遠巻きにコレラの掲示読んでおり(林とくろ)”

”感染を怖れて居れずコレラ診る(幸野梨枝)”
・・・この人はたぶん医師か。今も毎日コロナウイルスの感染者の治療に当たる医師たちがいる。

”赤痢出て野崎参りも絶えにけり(森川暁水)”

”霍乱の手にはなたざる手綱かな(前田普羅)。
・・・健康な人が病気にかかるのを鬼の霍乱というがこれが由来。

 ちなみに戦前の虚子編には「コレラ菌により発病する伝染病をいう。病勢激烈でこれに罹るときは頻繁に嘔吐、下痢を起こして忽ち衰弱し、高率な死亡率を示す。印度から中国を経て我国にも伝わることがあり、多く夏から秋に発生する。コレラ船はコレラ患者の発生した船。夏期はこの種の伝染病予防のため海外からの航行船に対して厳重に検疫を行う」とあります。

事務所の決算2020年03月09日

 先日から事務所の決算事務にかかった。各勘定科目の仕訳のチエックである。特に未払金は細目を分けている。各細目の合計がやっと一致して明日からは帳簿のプリントに入れる。それが整ったら国税庁の確定申告書作成コーナーへの入力を開始できる。3/16から1ヶ月延期されたがなるだけ早く終わらせたい。
 1月は対馬の山旅の余韻で紀行文など整理するうちにぼおっとしてしまい、2月はコロナ騒動を追ううちに茫然自失になった。半ばには発熱をともなう風邪も引いた。3月に入ってやっと自分を取り戻した。と思いきや3月中の会合はすべて休止になった。政府はなるだけ出歩かないように呼びかけている。
 2月には仕事らしい仕事もなく1社のみ会計指導の打ち合わせ、3月になって相談に乗った。今後もお呼びがあることを期待して。それの請求書作成をするうちに忘れていたデスクワークを多々思い出した次第である。やはり仕事があるっていうことは癒される。小さな仕事でも自分が用いられるのは良いことである。
 今朝はよく晴れてベランダから白い御岳が見えた。山の呼ぶ声が聞こえるようだ。2月は大鼠山、高丸、青田山をやれた。3月ももう少し積雪がないか、ふたたび大鼠山に行きたい。友人とは猪臥山も検討している。

ここらで止めてもいいコロナ♪2020年03月10日

 https://www.youtube.com/watch?v=KKGApcWVMx4

あの娘を ペットに したくって
ニッサンするのは パッカード
骨のずいまで シボレーで
あとでひじてつ クラウンさ
ジャガジャガのむのもフォドフォドに
ここらで止めても いいコロナ

 懐かしい自動車ショー歌。歌詞の1番にコロナが謳われているのを思い出した。表題は歌詞の最後のフレーズです。コメント欄にはいちはやく終息を願って書き込まれていました。笑
 星野哲郎って演歌だけじゃくてこんな歌まで作ったんですね。昭和39年(1964年)の歌ですが、車名ではクランのみ生き残っています。さすがはトヨタです。

自動車の歴史 ~年表~
https://gazoo.com/article/car_history/150327_1.html
を見ると昭和39年は東京五輪の年でした。トヨペットコロナの三代目が発売された。とある。完成したばかりの名神高速を走ったのもコロナでしたね。

トヨタ自動車75年史
https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/data/automotive_business/production/production/japan/production_volume/index.html
には昭和39年のトヨタの国内年間生産台数は425,764台しかなかった。

 昭和31年発売のクラウンはトヨタ初のみならず日本初の国産乗用車の歴史があるので今も頑張っている。トヨタの矜持である。自動車のパンデミックが始まるのはカローラの出た昭和41年ごろからだった。弟のコロナはいつしか車名も消えた。
 今年になって急速に流行したコロナウイルスで車名のコロナを浮かべた人も多いはず。トヨタは生産ラインが一時ストップした。販売中なら二重の被害を被るところでした。
 息抜きに取り上げてみました。