日本山岳会東海支部の『坂の上の雲』探し2020年01月20日

 今日も山岳会関連の会議で支部ルームへ。支部報の次号の編集会議を打ち合わせする。60周年記念事業についても議論が出た。さらに『東海山岳』の60年史の視点を議論。
 昭和30年代のマナスル初登頂で沸騰した日本人のヒマラヤ熱を契機に各社会人山岳会の精鋭アルピニストがプロジェクトチーム的に集結して登山隊を組んでもうまくいかなかった。その教訓から一つの山岳会にまとまろうということになった。先例としてはRCCがあった。社会人山岳会の壁を乗り越えて集まった。それは東海地方にもあったが東京中心より親密な交流が可能な名古屋で集結した末に生まれたのが東海支部だった。
 1961年4月に名大医学部の一室で誕生した。以来10年間はヒマラヤ、南米など海外遠征支部かと訝るほど遠征をこなした。マカルー登頂で一段落すると支部は虚脱感に見舞われて解散の風が吹き始める。解散を阻止して東京のRCCで活躍していた湯浅道男を迎えることになった。愛知学院大学法学部の教員として赴任してきた。以後はガウリなどを制覇して第二の黄金期を謳歌する。
 それが終わったころに国内山行の充実を問う声があがった。私は「奥三河の乱」と言っている。同時並行しながら海外遠征も進行はしたがインドヒマラヤに格下げになった。それでも6000m級の未踏峰を初登頂する機会はあった。これも『インド・ヒマラヤ』(ナカニシヤ出版)に集大成されるほどに達成感が生れた。それ以前に東海地方中心のガイドブックも多数出版した。登山者として思いつくことはみなやってしまった感がある。
 問題は支部にとっての日露戦争以後である。白人の大国に勝利して浮かれていた日本は次の標的探しを始めた。司馬遼太郎は昭和を書かなかった。欧米列強から日本を守る目的は達成した。次はさて?惨めな敗戦国に成り下がる話になるから書きたくないのは当然である。そういう意味で好悪のはっきりした作家であった。
 支部の財政と支部員の安定供給を支えた登山教室も生徒不足で廃校になった。カルチャーセンター経由の登山教室は終わったのだ。すると会員数は漸減するわ、レベルは下がるわである。支部友も向上心のない会員は退会させた。残った会員も登山の第一線からは退くものの現役でいたい意欲のある人は同好会やサークルを結成して余生を楽しんでいる。そして国内は山行委員会、猿投の森づくりの会などが底支えしている。山の楽しみ方の多様化である。いわばダイバーシティである。出番の少なかった女性、高齢者が活き活きと活動している。
 支部員発掘策として発案されたのが夏山フェスタ(中部経済新聞主催)の発信力を利用して登山学校を開校したところ生徒が殺到した。初心者から中級までのレベルで座学ではなく実践的に教える。今年で一クール修了である。向上心旺盛な登山者は潜在的に多数いたのである。今後はこれを発掘してゆくことになる。
 整理してみよう。
 戦国の乱世は信長が制した。そこを明智光秀が寝首を切った。秀吉が報復して真に天下統一を達成した。30万人もの兵力を擁して当時の世界一の軍事力(鉄砲を持った兵)を持って居たという。そこで秀吉は明を征服することを思いつく。時の勢いである。
 日本一を達成すると今日の企業でも海外へ出てゆく。それは日本人の倣いである。大はトヨタから小はカレーのここ壱番屋まで。
 しかし、秀吉は唐入りでつまづく。余力を失うと家康が台頭して徳川幕藩体制になった。この時代では領土拡張はなかった。腕のたつ腹心の部下を処分して拡大志向の家来を縮小した。武士は戦うことから官僚に変わった。これに反比例するように学問、文芸、芸能、農業生産、商業などが盛んになった。現在におきかえると支部は江戸中期といったイメージか。野心を抱く人は減ってしまった。そこをどうとらえるかはそれぞれの歴史観である。

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