国境の島・対馬の山旅⑤有明山と矢立山2020年01月01日

 元旦はよく晴れた。ホテルを出てすぐに向かったのは近くの八幡宮神社だった。対馬国一宮にあたり格式が高い。但し島のせいか広大な敷地ではなく、山の斜面に面して建てられている。平地は駐車場に利用されている。元旦にしては朝がはやいせいか初詣客は少ない。
 八幡宮を出ると有明山の案内板を探しながら路地を歩いた。どの細道も清水山の斜面にびっしり建っている住宅地に行くようで登山道らしさはどこにもない。一旦は万松院の通りまで出てみたが街角の地図にも見ないので困った。ガイドブックを頼りに行くと八幡宮辺りから出発するので今少し丁寧にみると何と八幡宮の近くに古ぼけた案内板が掛かっていた。住宅地の中を登ると清水山城祉の入り口に着いてやれやれだ。ここからはしっかりした道標がある。
 まずは城跡の中の少し荒れ気味の道を登った。正しく山城であった。豊臣秀吉は織田信長が明智光秀にやられるとすぐに光秀を討った。そして天下統一を果たす。しかし、この後が順調には進展しなかった。功績のあった家臣にボーナスとして領地を与えたいがすでに国内は既得権ばかりだった。秀吉の力を以てしても難しいとなれば朝鮮侵略にと考えが飛躍する。国内は臨戦態勢のまま外国へ出ることになった。しかし、侵略は失敗。撤退することになった。これが後々にまで尾を引く。やられた方はいつまでも恨みを忘れない。
 秀吉の後を担った家康は朝鮮との国交回復に尽力する。これが12回続いた朝鮮通信使であった。この地の長寿院の墓地に眠る雨森芳洲は対馬にあって朝鮮語を不自由なく話せて対馬藩の外交官としての役割を担った。否江戸幕府からも信頼をされたであろうが、史書は江戸幕府の次官級のトップだった新井白石との確執(パワハラ)に遭い、不仲になったと書く。幕府に召されるほどの出世は出来なかった。一地方の専門分野でのベテラン渉外掛かりの役人のままで終わった。その生涯は不遇であった。
 不遇な文学者、儒者、芸能人には今でも当時でも男色が居た。能の世阿弥は足利義満の寵愛を受けるしか芸道を守れなかったのだろう。芭蕉は現在の御園座の敷地にあった坪井杜国を愛した。杜国は米穀の商いで財を築いたが、幕府が嫌がり禁じていた米の空売りで所払いになったという。雨森芳洲もまた男色に耽るしかなかったのだろう。朝鮮通信使の役人からも批判されている。(志岐隆重『十二回の朝鮮通信使』(長崎文献社))
 今回の山旅は雨森芳洲の墓の見学も含まれた。隣には夫人など家族の墓もある。別に女嫌いではなかったのだ。
 清水城跡を脱すると桧の森を通り、常緑樹の中の道を登る。登山道は比較的広く歩きやすい。ずっと展望のない常緑樹の下を歩くとちょっと緩やかなところに着く。そこから明るい尾根道になってカヤトの山頂に出た。かつては対州馬の草地だったとか。
 360度の展望の一等三角点の埋まる山頂だが南にはより高い矢立山が悠然と聳える。厳原港が俯瞰できる。少し小さな池があるところまで行くと白嶽も見える。縦走路もあるらしい。
 往路を下山。城跡はパスして街中へ下った。歴史資料館の脇の車道もルートであった。但し入山の印や道標はない。
 ホテルに戻るとマイカーで矢立山に向かった。明日以降の登山に備えて下見で行ってみたが車道から林道へ入ると奥深く走る。小茂田への下りで一部不通になっていたが矢立山登山口まで行けた。比高150mしかなく、また長い林道を走るのも大変なので登ってみたら15分で登頂になった。ここも360度の大展望だ。さっきまでいた有明山も下に見下ろす。本当ならこっちに一等三角点を持ってきても良いはずだが、三角測量は必ずしも最高点からとは決まっていない。第一富士山は一等でない。常念岳は前常念、穂高でも奥穂ではなく前穂に埋まる。例外はあるのだ。1日で2座も登ってしまった。八幡様のご利益か。

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