百船の泊つる対馬の浅茅山時雨の雨にもみたひにけり2020年01月08日

 国境の島、対馬。平城京の都(現在の奈良市)から遠く離れた地でありながら、万葉集には多数の歌が詠まれているという。6月の晴れ間、万葉研究の第一人者、中西進さん(89)と、歌の原風景を求めて島をめぐった。(横山由紀子)

島を包む太古の蒼

 長崎空港からプロペラ機で30分余り。緯度は大阪と変わらないのに、緑深い原生林やエメラルド色の海が広がる。南方の島にいるかのようだ。

 南北に延びた島の中央部を深くえぐる浅茅(あそう)湾は、7~9世紀、遣唐使・遣新羅使船の停泊地だった。「海の色は青じゃなくて蒼という表現がぴったりだね。色合いも太古そのもの」と中西さん。

 《百船(ももふね)の泊(は)つる対馬の浅茅山(あさぢやま)時雨(しぐれ)の雨にもみたひにけり》 巻15-3697

 (多くの船が泊まる港の対馬の浅茅山は、時雨の雨に美しく色づいてきたことよ)

 「対馬」という名前の由来は諸説あるが、「ツシマは“津の島”、つまり湊の島という意味ですね。それに『対馬』の文字があてられたのは、古代朝鮮の国家、馬韓(ばかん)に相対する島、ということかもしれません」と中西さんは思いを馳せる。

◇遊女が見送る船出

古代の山城・金田城跡に残る石塁(石の砦)。防人が配置されていた
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 対馬を南北に貫く国道382号を車で走っていると、中西さんは標示板に「玉調(たまづけ)」という地名を見つけて、「止めて、止めて」と声をあげた。中西さんによると、玉調の「調」は古代の租税の租庸調の調だという。対馬では真珠の養殖が盛んだが、古代も真珠が採れ、それを特産品として納めたために、玉調という地名ができたのだろうと。
・・・・五万図で地形と地名を眺めても楽しい。学殖が深ければなおも楽しいだろう。対馬の地名は韓国側からはテマドと呼んだ。二つの島の意味である。対馬は日本が自ら命名したわけではないようだ。
 あるブログから引用すると
「対馬がはじめて歴史書に登場するのは3世紀頃、中国の三国志時代の「魏志倭人伝」(ぎしわじんでん)です。

「始めて一海を渡ること千余里、對馬(対馬)国に至る。 其の大官は卑狗、副は卑奴母離と曰う。居る所絶島、方四百余里可。土地は山険しく深林多く、路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海の物を食べ自活、船に乗りて南北に市糴(=交易)す。」

 断崖絶壁が多く、山が深く、道は獣道のように細い。また、水田が少なく、海産物を食し、朝鮮半島や大陸と日本本土を小船で行き来して交易を行っていた・・・。

 この記述は、当時の対馬の状態を簡潔・的確に描写しています。現在でも対馬の島土の約89%は森に覆われており、農耕地は少なく、戦後に道路網が整備されるまで集落間の移動に船を用いることも多かったようです。」とあった。
 当時の唐が命名したのであろうか。なにしろ文字もなかった時代に耳に入る言葉「tsushima」に対馬を当てた。

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