雨森芳洲覚書2019年11月20日

 江戸時代の朝鮮外交に尽くした雨森芳洲を知ったのは9/14に滋賀県高月町の雨森芳洲庵を訪ねてからだった。説明を聞き、自分でも調べると面白い。
 司馬遼太郎『街道を行く 対馬・壱岐』の雨森芳洲について丁寧な人間観察がある。近刊の石平『朝鮮通信使の真実 江戸から現代まで続く侮日・反日の原点』を読んでも朝鮮とは「つき合い難し」が結論である。

 それなのに朝鮮外交に尽力したのはなぜか。

 辛口のジャーナリスト・高山正之氏が週刊新潮に寄せるコラムはつとに有名であり私も毎週立ち読みする。後年にまとめて『変見自在』にまとめられる。それは欠かさず購入してきた。 
 9/12付けには「たかるだけの国」と出して寄稿された。以下はブログ「文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization on September 2016」に書き込まれた記事を転載させていただく。

 学者、雨森芳洲を一言で言えば「元禄期の若宮啓文」となるか。若宮とは朝日新聞の主筆だった人。北京のホテルで変死したことと「いっそ竹島を韓国に譲って友好の島にしよう」と書いたことで人々の記憶に残っているかもしれない。とにかくあの国が好きだった。そんな狂気に嵌るきっかけは生の金日成に会ったことだった。社に戻るなり願い出てソウルに語学留学に出かけた。そのあとはもう韓国贔屓のネタばかりを書いた。1995年には、日本開催が決まっていたサッカーW杯を「韓国と共同開催にせよ」と社説に書いた。朝日に盲従する宮澤喜一がそれに頷いてまさかの共同開催になった。しかし韓国にW杯をやれる体力はなかった。決まってすぐのアジア通貨危機では国自体がデフォルトに陥ってしまった。若宮が騒ぎ、FIFAの鄭夢準も走り回り、結局は日本が財政支援した。 
 それだけじゃない。開会直前に9・11テロが起きてそれに伴う不況のさざ波で競技場を建てるカネもなくなった。やっぱり共催は無理となったところでまた若宮が騒ぎ、旧日本輸銀が2億ドル融資を強いられた。
かくて開催されたものの韓国人のラフプレーと審判買収で「最も汚いW杯」の汚名だけが残った。若宮は韓国と同じくらい女にも入れ揚げた。
その醜聞を手土産に退社後、念願の韓国の大学の先生に納まった。
変死するまではいい人生だった。 

 雨森芳洲は男色という一点を除いて若宮の祖先かと思われるほど、その人生の軌跡は似ている。彼は20代で対馬藩に抱えられ、33歳のとき釜山の倭館に派遣されて生の朝鮮を見た。若宮が金日成に会ったのと同じ歳頃で、同じようにのめり込んでいった。
 そのころの李氏朝鮮は貧困の極みにあった。だから徳川将軍の代替わりがあると総勢400人の通信使がお祝いと称して押しかけてきた。彼らは丸1年も逗留して遊興に耽り、貧しいから宿の食器から寝具、床の間の掛け軸までかっぱらっていった。老中格の新井白石はそんなたかり集団に厳しく、接待費も旅程も半減するよう命じた。ついでに徳川将軍を「日本国王」とよいしょするよう朝鮮側に求めた。幇間並みに扱った。 
 このとき通信使の接待役が芳洲だった。朝鮮人に生まれたかったと、若宮と同じ思いを語っていた芳洲は白石の処置に怒りまくった。二人の応酬はホントに激しかったが、誰が見ても白石の言う通りだった。 
最終的に幕府は朝鮮側にもう江戸まで来なくていい、対馬で接遇すると伝えた。世にいう易地聘礼だ。二代秀忠から十代家治までたかりまくった通信使は1811年の対馬での質素な供応を最後に二度と来なくなった。先日の天声人語がこの雨森芳洲を取り上げていた。 
 今の日韓のいざこざを踏まえ「威信や体面にこだわる両国の間で板挟みになった」芳洲が半白になるほど苦労したと書き出す。いや日本は体面などどうでもいい、大所帯で押し掛けて、接遇に100万両もかかるたかりをやめてくれと言っているだけだ。コラムは「日本国王」の件にも触れて「国威を高めることに執着した」と冗談も理解できない。ホワイト国外しをした安倍政権をあてこすった気になっている。 
 それに通信使側はたかっておきながら「穢れた獣のような日本人が富栄えるは嘆くべし恨むべし」(金仁謙『日東壮遊歌』)と感謝の気持ちもない。デフォルトを救ってやったときと同じだ。ここはだれもが白石の対応を褒めるだろう。
 コラムは最後に「互いに欺かず争わず真実をもって交わること」という芳洲の言葉で結ぶ。それは日本が百歩も譲って呑んでやった慰安婦合意を踏みにじり、カネだけ失敬するような国に言い聞かせる言葉だ。
日本人の読む新聞に載せるのは失礼ってものだ。
以上

 雨森芳洲には子孫が居たと分かった。
 民団新聞のWEB版に「祖先<雨森芳洲>の志大切に」と題した記事がある。全文転載させていただく。

 新時代の韓日交流へ膨らむ想い

「ぼくは草の根で」
病院学級で奉仕の心知る

 「人間同士の触れ合いや、言葉を通して日本と韓国、北朝鮮関係で何か寄与できれば」。今年2月、ソウル市の延世大学校政治外交学科を卒業した雨森秀治さん(31、奈良県宇陀市)は翻訳、通訳などの仕事で韓国と日本を行き来する。大学在学中に自分のやるべき方向を決定づけたという奉仕活動、そして江戸時代中期の儒学者で、朝鮮との善隣友好関係を深めた雨森芳洲を祖先に持つ思いなどを聞いた。

 現在、韓国にある出版社の契約社員として、韓国と日本を往復する生活が続く。取材当日、翻訳を手がけたという書籍を持参してくれた。

 韓国と関わって6年目。高校2年生のとき、祖父から初めて10代前の祖先、雨森芳洲の話しを聞き、びっくりした。そのときから芳洲や朝鮮通信使に関する資料や書物を調べ、滋賀県伊香郡高月町の芳洲の生家を何度も訪ねるなど、勉強を重ねた。芳洲の生き方や考えを知るにつけ、「韓国に行ってみたい」という思いは膨らんでいった。

 25歳のとき、それまで勤めた貿易会社を退職。「両親も同僚も反対した。でも韓国語を勉強した後、日本と韓国、北朝鮮関係で自分のできることで関わりたいと思っていた」。ソウルにある西江大学校の語学堂で1年間、韓国語を学び、04年3月、延世大学校政治外交学科に入学した。

 雨森さんは芳洲との関係を誰にも明かさずに過ごした時期がある。韓日にまたぐ有名な祖先を持つことは、時として雨森さんを苦しめた。

 高校時代、歴史教師から芳洲とのつながりを聞かれた。当時、勉強が苦手だったという雨森さん。教師は「芳洲の子孫なのにどうしてそんなにできないのか」と吐き捨てるように言った。それはトラウマとなり、以来、関係を心のなかに封印したまま10年以上を過ごしたという。

 「周りから言われるのは嫌だったし、プレッシャーがあった」

 留学当時に抱いた思いを、さらに「自分のやるべきこととして、具体的に教えてくれた」のは、延世大学校での4年間、奉仕活動で関わった延世大学校医学部付属セブランス病院の院内学級だ。 同学級は00年12月に開校された韓国政府公認の病院学校。白血病や重い病を抱えながら長期入院生活を送る5歳から19歳までの子どもたちが、英語や数学、音楽、美術などを学んでいる。教師は奉仕活動で参加した学生たち。雨森さんは毎週1回、日本語を教えた。

 当時、歴史教科書問題や、独島(竹島)問題などで韓日関係が険悪化していた。子どもたちから「独島は私たちの島」と言われ、意見を求められたこともあった。「反対側から見ること、客観的に見ることなど、いろいろなことを子どもから教わった」

 雨森さんにとって、院内学級の授業は何よりも大事な時間だった。「そこは生と死の現場。今日会って最後かもしれない。生徒が亡くなったことも多かった。辛くて止めようと思ったことも何回もあった。でも生徒たちは一生懸命、勉強をする。自分もそれに応えなければと思った」

 もちろん、嬉しいこともあった。退院した生徒が「元気になった」からと毎週のように顔を出し、「秀治のおかげで日本に対するイメージが変わった。日本語を勉強して日本に行きたい」と夢を話してくれた。大学の同級生2人も手伝いたいと名乗り出てくれた。

理解し合ってつき合う教え

 4年間の奉仕活動は雨森さんの精神を鍛えた。すべて「生徒のおかげ」だと感謝する。

 雨森さんが芳洲に惹かれるのは、隣国の言葉を学び、歴史や風俗、習慣などを理解したうえで外交にあたったことだ。「おじいちゃんは国と国との関係だったが、僕は個人と個人の付き合いを大事にしながら、お互いの歴史や文化を知らない人たちに伝えていきたい」と民間レベルの草の根交流をめざす。

 昨年、奉仕活動する記事が韓国の新聞で紹介された。「売名行為」だとするメールや電話が寄せられた。だが雨森さんを支えたのは子どもたちの真摯な姿であり、「勇気をもらった」という人たちからのエールだった。

 「芳州の志を引き継いでいきたい」という。「両国の人たちがお互いを理解しあえるように、小さなことから始めたい」と、目を輝かせた。

■□
プロフィール

雨森芳洲(1668~1755)現・滋賀県伊香郡高月町雨森で、医師清納の子として生まれる。18歳のころ江戸に出て儒学者の木下順庵に入門。
1689年、師の推薦で対馬藩に仕官し、92年赴任。
98年、朝鮮御支配役佐役を拝命、1702年に釜山に渡る。朝鮮語入門書「交隣須知」をまとめ、05年に朝鮮語を学習。
11年、徳川家宣就任を祝う朝鮮通信使に随行して江戸に赴き、19年にも通信使を護行して江戸を往復。使節団の製述官が帰国後に著した「海游録」に活躍が紹介されている。61歳で朝鮮外交心得「交隣提醒」を著す。外交の基本は「誠信の交わり」と説いた。

(2008.4.16 民団新聞)
以上

・・・・いろいろ集めてみて分かったのは芳洲は日本の入国管理局の地方局の事務官クラスの人だったのではないか。儒学者として紹介はされるけれど新井白石ほどの幕府の高官にはなれなかった。朝鮮語も不自由なく会話できたけれど、彼らが格下の日本を見下げる態度だけは誠信を以てしても克服させることはなかった。それでも大好きな朝鮮と向き合う対馬に骨を埋めたのである。現に対馬に墓地もある。
 飛躍するが、
 本居宣長は『玉勝間』に「漢意とは、漢国のふりを好み、かの国をたふとぶのみをいふにあらず、大かた世の人の、万の事の善悪是非を論ひ、物の理(ことわり)をさだめいふたぐひ、すべてみな漢籍の趣なるをいふ也」と書いた。
 芳洲の誠信の交わりもひとえに「からごころ」に由来する。自分だけは朝鮮が分かっている。朝鮮人の心になりきって日本人に誠信の交わりを説くのである。朝鮮人はこう考えている、日本をこう見ている、だから彼らの意に沿うように努めようと。これは現代のジャーナリストとそっくり同じである。現代のジャーナリストは「漢意」に加えて「西洋思想」があるから厄介である。

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