西教寺と日吉大社へ〜大津・坂本、明智氏ゆかりの地を訪ねて2019年11月12日

 当会の秋の研修会として開催。大型バス1台を仕立てて豊橋、豊川から約40名が来られた。名古屋の私は刈谷ハイウェイオアシスで拾ってもらった。
 伊勢湾岸道から新名神を経由、大津で高速を出る。国道を走ってまずは西教寺へ行く。大型バスが狭い路地に入り込んでUターンするのに難儀したが見事なハンドル裁きで切り抜けた。西教寺のPへ入るのが大変なのだ。
 境内の紅葉はまだ色づいておらず3分くらいか。小春日に助けられて傾斜のある石段を登ると本堂の立つ西教寺に着く。裏手にまわり料金300円は幹事さんがまとめて支払う。住職さんからの案内で本堂に入らせてもらう。話によると天台真盛宗の総本山という。ウィキペディアの解説をいくら読んでも理解しがたい上にまた新たな宗派ときては混乱する。
 今日の目的の明智光秀は一族の墓として葬られている。明智の墓はあちこちにあるがここのは由緒ある墓だとか。菩提寺ともいう。
 ウィキペディアには「信長による比叡山焼き討ちの後、近江国滋賀郡は明智光秀に与えられ、光秀はこの地に坂本城を築いた。光秀は坂本城と地理的にも近かった西教寺との関係が深く、寺の復興にも光秀の援助があったと推定されている。光秀が戦死した部下の供養のため、西教寺に供養米を寄進した際の寄進状が寺に現存している。また、境内には光秀の供養塔や光秀一族の墓が立っている。」と縁が深いことを思わせる。
 またバスで日吉大社に移動。すぐ近くにある。これもウィキペディアによると「文献では、『古事記』に「大山咋神、亦の名を山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し」とあるのが初見だが、これは、日吉大社の東本宮の祭神・大山咋神について記したものである[2]。日枝の山(ひえのやま)とは後の比叡山のことである。日吉大社は、崇神天皇7年に日枝山の山頂から現在の地に移されたという[2]。」
 ずいぶん古い歴史を持って居る。ウィキペディアに「元亀2年(1571年)、織田信長の比叡山焼き討ちにより、日吉大社も灰燼に帰した。現在見られる建造物は安土桃山時代以降、天正14年(1586年)から慶長2年(1597年)にかけて再建されたものである。[4]信長の死後、豊臣秀吉と徳川家康は山王信仰が篤く、特に秀吉は、当社の復興に尽力した[2]。これは、秀吉の幼名を「日吉丸」といい、あだ名が「猿」であったことから、当社を特別な神社と考えたためである。」とあって、やっと秀吉との縁が結びつく。しかし光秀に絡む史跡はないので坂本の地にあるという縁だけで取り上げられるのだろう。
 ちなみに明智光秀の居城だった坂本城は城址のみで明智光秀像が立っているだけらしい。
 というわけで今日は観光気分で早足で名刹を回りました。西教寺で2句、日吉大社で2句即吟で投句してきました。
 投句作品は未発表作品なので書けないが、神の留守、小春日和、照り紅葉、冬紅葉、冬柿、実なんてん、冬日和、湯葉などの季語が浮かんだ。
 白洲正子の『近江山河抄』の”日枝の山道”を改めて読む。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
日本で一番美しい山は?
ヒント:芙蓉峰の別名があります。

コメント:

トラックバック