雨森芳洲庵を訪ねる2019年09月14日

 滋賀県長浜市高月町雨森のR365を走る度に一度は訪ねたいと思っていた雨森芳洲庵。”東アジア交流ハウス”のうたい文句が不思議に思っていた。確かに大阪市、兵庫県、京都市、滋賀県は在日コリアンが多い地域ではあるが、なぜこんなところに?
 福井県今庄の山へ行く途中に通過するので時間に余裕のある今日こそはと訪ねた。
 雨森芳洲はこの地の生まれであった。長浜市の顕彰活動で建立された。今ではユネスコ世界の記憶に登録された。
https://www.city.nagahama.lg.jp/section/kyouken/children/category_02/03_kinsei/hoshu/index.html

「芳洲は、江戸時代中期の日本を代表する儒学者。近江国伊香郡雨森村(長浜市高月町雨森)の医者の子として生まれました。
 12歳の頃、京都で医学を学び、さらに18歳の頃江戸に出て朱子学者の木下順庵のもとで勉強をしました。
同門の新井白石、室鳩巣らとともに秀才と唱われました。

対馬藩(つしまはん)に仕える

雨森芳洲肖像(「芳洲会」所蔵資料)
 九州と朝鮮半島との中間に浮かぶ島にあった対馬藩(現長崎県)に仕えました。
 その頃の日本は、鎖国の時代でしたが、となりの国朝鮮とは「通信の国」として「善隣友好」の交わりがあり、江戸幕府にとって対馬藩は、日本と朝鮮とを結ぶ外交の窓口でした。
 そこで芳洲は、約40年間にわたり、儒学者として藩主らへの講義をおこなうほか、外交・貿易についてさまざまな働きをしました。
 元禄11年(1698)、朝鮮方佐役(朝鮮担当部補佐役)という役につき、初めて韓国の釜山に渡り、釜山の倭館(日本人が常駐した役所)に滞在して朝鮮語を学びました。
 この間、朝鮮側の日本語辞典『倭語類解』の編集に協力し、自らも朝鮮語入門書『交隣須知』を作成しました。

隣国との間で「外交官」として活躍
 正徳元年(1711)には、江戸幕府6代将軍徳川家宣の就任を祝う朝鮮通信使に随行して江戸に赴きました。
 また、享保4年(1719)には江戸幕府8代将軍の徳川吉宗就任を祝うためにやって来た朝鮮通信使にも随行しました。
 芳洲は、朝鮮語をはじめ中国語にも通じていたので、通訳なしで朝鮮語での意見交換ができました。
 そのため、江戸幕府と朝鮮の間にたってむずかしい問題をまとめあげ、その実力を発揮しました。

「誠信の交わり」
 朝鮮交接の儀は、第一に人情・事勢を知り候事うこと、肝要にて候
互いに欺かず争わず、真実を以て交わり候を、誠信とは申し候

 芳洲が、藩主に上申した対朝鮮外交の指針書『交隣提醒』の言葉です。 「国によって風儀も嗜好も異なるので、日本側のモノサシだけで接しては必ず不都合が生じる。
 相手国の歴史・言葉・習慣・人情や作法などをよく理解し尊重して「誠信の交わり(まごごろの外交)」をおこなうべきである」と主張したものです。以下略」とHPの案内記事がある。

 日韓関係は今や断交寸前まできた。反日、嫌日の元はと言えば秀吉の朝鮮出兵に始まる。そして朝鮮併合と歴史は刻まれる。特に朝鮮併合は朝鮮人にとって迷惑そのものだった。日本側は良いこともしたと反撃するが、朝鮮のような歴史と文化を持った国を併合するのは無謀ということであろう。司馬遼太郎もそう擁護している。
 芳洲庵での学芸員の解説は分かりやすかった。解説がないとただただ深い理解もできないままで終わる。特に朝鮮通信使を重点的に解説された。
 
 今回は短い時間であったが江戸時代にこんな人物がいたことに感銘を受けた。しかし、日本史のテキストには紹介もされず無名のまま捨て置かれた。当時の幕閣だった新井白石は誰でも知っているが芳洲は知られることはなかった。政治の世界は国益で動くから、為政者は朝鮮を日本化して当時のロシア、清朝と対峙することを考えた。
 これを後世から批判してもどうにもなるまい。歴史は裁けないのである。日本の内地の予算を犠牲にしてまで至れり尽くせりの朝鮮併合は当の朝鮮人には喜ばれなかった。

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/43424?page=2から引用すると

 「長年、朝鮮半島の歴史や政治を研究してきた筑波大学大学院教授の古田博司氏は「韓国に対しては『助けない、教えない、関わらない』を『非韓三原則』にして日本への甘えを断ち切ることが肝要」と説く。」

 助けても教えても恩を仇で返すのが彼の国の性格で、関わらないのが日本のためになるという。中国、北朝鮮に対してもほぼ同様に接するのが賢明だと主張する。

 雨森芳洲はどう見ているだろう。
 私が若いころ、韓国の賃金水準は日本の10分の1と言われ、コストダウンに釣られて進出する企業が多かった。結果的に朝鮮人を安く利用したことになり今日の日韓関係悪化の背景であろう。怨念の国と言われる由縁である。

 秀吉は戦に協力してくれた部下に領地を与えるために朝鮮を領土にしようと企んだ。日本国内はすでに既得権で領地替えが難しかったのだろう。

追記
 司馬遼太郎の街道をゆくシリーズの『韓のくに紀行』を読み始めたばかりだが、『壱岐・対馬の道』も読むことにした。
 アマゾンのコメントに「古代は鉄等の物品と人が大陸から日本に渡って来た海上の懸け橋である壱岐・対馬両島を旅し、遺跡を訪れ、古代の歴史を語るのが中心の巻だが、私にとっては二人の江戸時代の日本人が印象的だ。

一人は雨森芳州。盧泰愚大統領来日時(1990年)の国会演説で善隣外交に尽くした人として芳州に触れるまで、名前すら聞いたことがなかった人が多いのではないだろうか。私もそうだった。

しかし、著者は78年に週刊朝日に掲載されたこの旅行記で、一話を雨森芳州に割いている。しかも単に経歴を知っているというレベルにとどまらず、芳州の随筆「たはれぐさ」を読んでいること、新井白石が兄弟子であるという関係まで知っていることに驚く。以下略」

 通りで司馬さんの新聞記事が掲示してあったはずである。

追記
 明治時代に日本人がシナ朝鮮人を知ったのは明治27年の日清戦争においてであった。それまでの日本人は書物でしか知らなかった。儒教、仏教、漢詩などの文献を通じて立派な先進国と思い込んでいた。
 日清戦争で相手と戦って捕虜になると残虐な殺され方になるので自殺せよと指導したのもシナ人の残忍な性格を表している。それが知られるにつれて日本の経済人は明治31年に東亜同文会を作ってシナ人とその社会の慣習、歴史、経済、文学、語学を学んでいくことになった。日清戦争後からわずか5年で日本人は中国を知らないことを知ったのである。ビジネスをやる以上は相手国を知ることはいの一番だ。朝鮮については明治43年に朝鮮併合という愚挙をやってしまう。当時の国論も福沢諭吉をはじめとして併合に反対が多かったはず。これが今も獅子身中の虫のごとく日本を苦しめる。