台風の行方気になる立秋忌(普羅忌) ― 2019年08月08日
秋立つとはいえ猛暑の日々。こんな暑い日に山の好きだった俳人前田普羅は亡くなった。それで前田普羅を慕う人は立秋忌と呼ぶ。
「辛夷」8月号には普羅墓参立秋忌・俳句大会の案内があった。まさに8日、二上霊園で少雨決行とある。13時から北日本新聞社高岡支社で大会を催す運び。予定通り挙行されたことだろう。
普羅忌を詠んだ人は少ない。検索すると以下の通り。()内は結社名を入れた。(雪垣)は金沢市の結社で普羅師系を名乗る。
人参木咲いて普羅忌へ孫弟子ら 中西舗土(雪垣)
普羅の忌とおもふ一鳥水を過ぎ 加藤有水
普羅の忌の四方に雲湧く甲斐の国 有泉七種
普羅の忌の絵皿に透ける洗鯉 松本澄江
普羅の忌や峻厳の語はすでにもう 松田ひろむ
朝顔の浅葱普羅忌のくもり空 文挟夫佐恵 黄 瀬
氷柱の虹普羅の忌は夕べはや 文挟夫佐恵 黄 瀬
秋に入る空を見上げて普羅忌なり 仲原山帰来
走り咲く萩に普羅の忌来りけり 飯原雲海(辛夷)
鯉こくの食ひたき日なり普羅忌なり 石田波郷
雀きて滴おとせり立秋忌 井上 雪(雪垣)
ひと雨のまた笹に鳴る立秋忌 井上雪(雪垣)
普羅忌でヒットしたブログもあった。「クラカスはつらいよ弐」
http://ogurin1961.blog129.fc2.com/blog-entry-8378.html
波郷にはもう一句ある。それを切り口に随筆を書いて「辛夷」誌に投稿した。全文を転載する。
随筆 俳句―波郷を覚醒させた切れ字の話
「辛夷」誌正月号を読んであることに気が付いた。衆山皆響の切れ字の活用の傾向である。や、かな、けりを数値化して見た。切れ字の入った句数は全部で177句あった。“や”は98句、“かな”は49句、“けり”は30句。
圧倒的に“や”が多い。又、切れ字はなくても切れている句は当然に多い。むしろ切れ字活用は少数派である。切るということを意識しないと切れない。切れ字を使っても切れていない句もある。散文の断片になる。
かつて水原秋桜子が高浜虚子に俳句理論の食い違いから反旗をひるがえして、「ホトトギス」から脱退、反ホトトギスの拠点として「馬酔木」を主宰した。秋桜子の『葛飾』(1930)は虚子も評価していた。ホトトギスの名残りで切れ字が多かったからだ。
その後、石田波郷が秋桜子門に入って来た。後に、「鶴」を創刊・主宰。ネットには「昭和戦前に流行した新興俳句運動を批判し、韻文精神の尊重を説き切れ字を重視。」と解説。つまり俳句とは、俳句を韻文たらしめるには切れ字が重要と説いたのであった。
いつぞや丸栄のデパ地下の食堂に昼飯を食べに行った。近くのご婦人2人の会話から
泉への道遅れ行く安けさよ 石田波郷
私の好きな俳句を空で詠んでいるのでつい耳を傾けてしまった。話の切れ目を見計らって、名乗り出るとすぐ会話に入れてくれた。ある俳句結社のベテラン俳人であった。会話のレベルから相当な年季が入っているはず、と見た。1人は30年という。しばし、波郷の俳句談義に興じた。
波郷は、秋桜子の弟子ながら、ホトトギス派を自称していた。すなわち、や、かな、けりの切れ字を古いものとして捨てた師匠に逆らい、切れ字の韻文精神を重視した。その説を裏付けるのは
霜柱俳句は切れ字響きけり 石田波郷
鯉こくの食いたき日なり普羅忌なり 石田波郷
楢檪霧呼んで普羅の忌なりけり 石田波郷
と普羅忌を詠んでいるのも切れ字に関係するからだ。前田普羅の俳句は格調の高い立て句で有名である。山岳俳句では死後数十年経った今もって後塵を拝することがない。
駒ヶ岳凍てて巌を落としけり 前田普羅
波郷は普羅を尊敬の念で見ていた。その思いが普羅忌を詠むことにつながると想像する。
上達するには技術的に難しい、“けり”を使いこなすことだろう。
大ぶりの黒部の木の実降りにけり 中坪達哉
普羅師系を標榜する結社にとり巻頭におかれたこの句は大いなる手本になる。
以上
遅れていた好句考も書き上げた。こっちは桜桃忌を詠んだ句の鑑賞文になる。俳句三昧の一日。
「辛夷」8月号には普羅墓参立秋忌・俳句大会の案内があった。まさに8日、二上霊園で少雨決行とある。13時から北日本新聞社高岡支社で大会を催す運び。予定通り挙行されたことだろう。
普羅忌を詠んだ人は少ない。検索すると以下の通り。()内は結社名を入れた。(雪垣)は金沢市の結社で普羅師系を名乗る。
人参木咲いて普羅忌へ孫弟子ら 中西舗土(雪垣)
普羅の忌とおもふ一鳥水を過ぎ 加藤有水
普羅の忌の四方に雲湧く甲斐の国 有泉七種
普羅の忌の絵皿に透ける洗鯉 松本澄江
普羅の忌や峻厳の語はすでにもう 松田ひろむ
朝顔の浅葱普羅忌のくもり空 文挟夫佐恵 黄 瀬
氷柱の虹普羅の忌は夕べはや 文挟夫佐恵 黄 瀬
秋に入る空を見上げて普羅忌なり 仲原山帰来
走り咲く萩に普羅の忌来りけり 飯原雲海(辛夷)
鯉こくの食ひたき日なり普羅忌なり 石田波郷
雀きて滴おとせり立秋忌 井上 雪(雪垣)
ひと雨のまた笹に鳴る立秋忌 井上雪(雪垣)
普羅忌でヒットしたブログもあった。「クラカスはつらいよ弐」
http://ogurin1961.blog129.fc2.com/blog-entry-8378.html
波郷にはもう一句ある。それを切り口に随筆を書いて「辛夷」誌に投稿した。全文を転載する。
随筆 俳句―波郷を覚醒させた切れ字の話
「辛夷」誌正月号を読んであることに気が付いた。衆山皆響の切れ字の活用の傾向である。や、かな、けりを数値化して見た。切れ字の入った句数は全部で177句あった。“や”は98句、“かな”は49句、“けり”は30句。
圧倒的に“や”が多い。又、切れ字はなくても切れている句は当然に多い。むしろ切れ字活用は少数派である。切るということを意識しないと切れない。切れ字を使っても切れていない句もある。散文の断片になる。
かつて水原秋桜子が高浜虚子に俳句理論の食い違いから反旗をひるがえして、「ホトトギス」から脱退、反ホトトギスの拠点として「馬酔木」を主宰した。秋桜子の『葛飾』(1930)は虚子も評価していた。ホトトギスの名残りで切れ字が多かったからだ。
その後、石田波郷が秋桜子門に入って来た。後に、「鶴」を創刊・主宰。ネットには「昭和戦前に流行した新興俳句運動を批判し、韻文精神の尊重を説き切れ字を重視。」と解説。つまり俳句とは、俳句を韻文たらしめるには切れ字が重要と説いたのであった。
いつぞや丸栄のデパ地下の食堂に昼飯を食べに行った。近くのご婦人2人の会話から
泉への道遅れ行く安けさよ 石田波郷
私の好きな俳句を空で詠んでいるのでつい耳を傾けてしまった。話の切れ目を見計らって、名乗り出るとすぐ会話に入れてくれた。ある俳句結社のベテラン俳人であった。会話のレベルから相当な年季が入っているはず、と見た。1人は30年という。しばし、波郷の俳句談義に興じた。
波郷は、秋桜子の弟子ながら、ホトトギス派を自称していた。すなわち、や、かな、けりの切れ字を古いものとして捨てた師匠に逆らい、切れ字の韻文精神を重視した。その説を裏付けるのは
霜柱俳句は切れ字響きけり 石田波郷
鯉こくの食いたき日なり普羅忌なり 石田波郷
楢檪霧呼んで普羅の忌なりけり 石田波郷
と普羅忌を詠んでいるのも切れ字に関係するからだ。前田普羅の俳句は格調の高い立て句で有名である。山岳俳句では死後数十年経った今もって後塵を拝することがない。
駒ヶ岳凍てて巌を落としけり 前田普羅
波郷は普羅を尊敬の念で見ていた。その思いが普羅忌を詠むことにつながると想像する。
上達するには技術的に難しい、“けり”を使いこなすことだろう。
大ぶりの黒部の木の実降りにけり 中坪達哉
普羅師系を標榜する結社にとり巻頭におかれたこの句は大いなる手本になる。
以上
遅れていた好句考も書き上げた。こっちは桜桃忌を詠んだ句の鑑賞文になる。俳句三昧の一日。
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