日進市の白山宮に参拝2019年05月10日

 久々に気持ちの良い朝。北風があるのでさわやかである。日進市の白山宮へ参拝のポタリングに出掛ける。名古屋市境を一歩出ると田園風景が一気に広がる。この開放感が良い。天白川沿いに走るとまだ田んぼに水が入っていない。牛糞が積まれているから田を鋤くのはこれからだ。
 白山宮に着いて鳥居の前で一礼。階段を登る。本宮の後、合祀の末社にも参拝。その後で、足王社に参る。ひざ痛の神様である。下山後、次々と参拝者が登って行った。結構な信仰者が居るようだ。
 その後、行きつけの喫茶店で一休み。原駅の眼鏡店に寄る。かねてより、常用の眼鏡が壊れそうなので新調した。普段使いの度の弱い調整のままである。眼鏡店の記録を見たら1988年に調整していた。ずいぶん長く使ったものである。古い眼鏡も溶接できればしてもらう旨依頼した。
 次は布団干しの際に落とした枕の回収の仕事があった。1階下は無住、2階下も長期無住であった。ところが2階下のベランダに布団が干してある。自宅に戻り、管理人室で、階下の住民の電話を教えてもらう。事情を話すと気持ちよく回収してくれた。たまたま外国から帰国していたらしい。来週中にはまた日本を離れるという。色んな住民が居る。
 もう一つ力仕事が残っていた。ジャッキでボディをアップしてはめかえる。汗を流してやっとスタッドレスタイヤから夏タイヤに交換した。4/27から5/6までは青森へのロングドライブで途中豪雪地域を通過するので用心してそのまま走った。その心配は無用であった。

ローバチベッタ2019年05月11日

 メンテナンスといえば、40年愛用の登山靴の修理の件で市内の登山用具店に問い合わせたら可能とのこと。明日持ち込むことにした。28歳のころ、給料が8万円だったが、ローバチベッタは4万円もした。
 ピッケルやザイルを駆使して登攀する冬の槍だ穂高だという登山はしなかった。主に山スキーの靴として愛用した。非常に頑丈な作りに感心する。その後、紐締め式プラブーツ、バックル式プラブーツ、以上は皆経年変化で壊れたりした。今は2代目のバックル式プラブーツになった。
 今回は残雪のたっぷりある八甲田山で履こうとしたら靴底の革の部分が脆弱になって剥がれた。やむなく無雪期用の靴で間に合わせた。
 もう新調してもいいが愛着がある。これまでにビブラム底2回、内側の革1回張り替えた。こうして長く使えるのは良いものである。

登山シーズンの到来!2019年05月12日

 午前中は片付け、濫読するが集中できず。午後は行きつけの喫茶店で青森の話をして、マイカーで丸の内の事務所へ。事務所の清掃を行う。古新聞を水に浸して、柔らかくしてフロアーに撒く。箒で掃き集める。応接セットも動かすと下に埃が溜まっているのが分かる。これも水分を含んだ紙切れで飛散を抑えこみ掃き集める。その後で雑巾で斑になった汚れを拭き掃除するとピカピカになる。
 次は冷房装置の試運転だ。冬の間は暖房にしてあったから切り替える。ストーブも灯油を抜いてポリタンクに戻す。点火して燃やしきる。余った灯油は軽油が燃料のディーゼル車に混ぜてしまう。少々ならエンジンを傷めることはないらしい。
 事務所の清掃が終わった後は、栄の好日山荘へローバチベッタの修理に出しに行く。40年物といったら驚かれた。そりゃ、係員の年齢以上(多分)に使い込んでいるからだ。好日山荘は店内がリニューアルされたらしく商品の配置が変わっていた。日曜日のせいか、物色中のお客さんが多かった。特に若い夫婦と若い人が目立った。登山者の世界も若返ったのだろう。ぐるりと店内を回って店を出た。
 隣の丸善に行く。5Fの山の本売り場をのぞくと、ガイドブックが平積みで展示されていた。先月、分県登山ガイド「愛知県の山」とヤマケイアルペンガイドNEXT「東海周辺 週末の山登り ベスト120」の著者と名乗って、揃えてください、と営業しておいたらその希望通りにしてあった。深謝。売れるといいね。

夏タイヤとスタッドレスタイヤの違い2019年05月13日

 5/10に夏タイヤに交換して走ってみると、半年振りだが、剛性があるせいで何となく軽い感じがする。スポーティな感覚が気持ちが良い。
 スタッドレスタイヤはゴム質が低温でも柔らかく雪を噛むように設計されている。夏タイヤは転がり抵抗がないから良く回る。
 オイル交換の店で警告されたのはスタッドレスは雨天に弱いとの指摘だった。確かに青森の山岳路で雪解け水で濡れているからタイトなカーブでは後輪がスリップしていたっけ。キャラバンは後輪駆動でパートタイム4WDなのでこんな場合は慌てる。路面が濡れていたら常時四輪駆動にシフトしておくべきなのである。オートマチック車は若干の内輪差は吸収する。マニュアル車はどうしようもないだろう。

鎌田則雄山岳写真展「遥かなる日本の山々」開催2019年05月14日

 朝6時半ごろの地下鉄に乗る。この時間帯はまだ辛うじて座れた。もう少し後になるほどすし詰めになり呼吸も困難なほどに混む。伏見駅で下車して名古屋観光ホテルへ。ちょっと早すぎてまだ閑散としているがぼつぼつ集まりだしてはいた。
 早朝に朝食を一緒に食べて、共通の話題で1年間の会合を持つ。今日はクラブAの総会(大学の同窓会)である。約50名以上は集まったと思われる。事業報告、決算予算など報告され議事進行する。
 終わった後、若い弁護士のMさんが声をかけてくれた。3月のスピーチで、登山40年・・・山歩き人生40年・・・登った、読んだ、書いた・・・を聞いて何がしかの印象を持ったらしい。コーヒーを飲みながら山談義した。
 その後、広小路通りを徒歩で栄まで歩く。少し見ぬ間にも、丸善ビルの取り壊しに続き、今は東海銀行本店ビルが取り壊し中だった。次は丸栄も囲まれて取り壊し工事が進んでいるようだ。そして親しまれた中日ビルまでもが一部を囲まれて取り壊しに入っている。
 中でも東海銀行本店ビルの消滅は、東海銀行山岳部の知友20名くらいと交流していただけに一時代が終わってゆく寂しさがある。最後まで親しくしていたNさんも昨秋に亡くなった。
 東海地方の金融センターの崩壊は三和に吸収、三菱に吸収される形であった。その影響で資本的には兄弟のような松坂屋もおかしくなった。最近ではユニーが外部資本の傘下に入った。東海地方に本社を置く会社の地盤沈下が激しいのはなぜだろうか。
 名大の地元占有率が高く、親元から通学、親元から通勤する傾向になり、変化を望まない風土があるからか。いわゆる名大閥である。国立大学が大量に優秀な人材を供給するのは使命ではあるが偏在は良くない。
 かつては親族でなければ出世できないと、オリエンタル中村は三越に経営権を奪われた。名大卒でないと出世できないと知れば社員の意欲は削がれる。これが地元資本の会社の沈没につながる気がする。
 そんなことを思いながら、中区役所に着いた。9時半の開催時刻とほぼジャスト。会場ではまだ梱包の整理やら、お祝いの胡蝶蘭の展示に大わらわであった。
 
2019年 5/14 ~ 5/19
名古屋 市民ギャラリー栄 8階 (第6/7/8室)  総数137点
講演 : 山の構図セミナー 5/19 13:00~14:30 (無料)

 一回りした。ブースを3室も使って137点の作品を展示してありました。 想像以上に見ごたえがあり、圧巻というべし。
 個展開催を祝う仲間からの胡蝶蘭などが次々運び込まれて大変なことになっていました。
 となりの展覧会の人が何人で出品されたんですか、というので、いや、個展ですから1人ですよ、といったら驚かれました。
 一言言えば、制作年月日順に展示されるとこの作家の成長過程がわかってもっと良かった。
 当初は雪山、鋭鋒の構図重視でしたから絵葉書的になりやすかった。鋭鋒の雪山は外国の巨峰に比すれば見劣りする。それが段々テーマが広がり、今は足元の山野草にも注目する。マクロからミクロへ、静から動へ、またその組み合わせとなる。
 雷鳥を撮影するにしても雄の婚姻色である赤い肉冠にフォーカスするなど動物写真家への転換か、と思わせる。
 今後は歴史、民俗、社会などへのテーマ展開の可能性がある。愛知県には東松照明など異色の写真家がいた。単なる風景ではないモノへのフォーカスを期待する。

 小雨模様になってきた。地下街を抜けて、久屋大通駅へ行くと大雨になっていた。濡れるのを覚悟で事務所へ駆け込んだ。若干の雑務の処理。あっという間に正午が迫る。また駅まで行き植田駅へ。自宅に戻って、損保の手続きをした。ネットの見積もりサイトで見積もると10000円も安くなった。やってみるもんだ。

パッキング2019年05月15日

 明日からまた三泊四日で東北の山を歩くのでパッキングをする。車内を整理する。東北では念願だった山形県米沢市に行くこととした。

みちのくの山へ~名古屋から道の駅奥会津「かねやま」へ2019年05月16日

 出発の5月16日は松尾芭蕉が奥の細道に出立した日と同じになった。旅立ちの気持ちは日常を離れる寂しさと未知への期待感が混ざり合って落ち着かない。奥の細道の冒頭の一節「予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず」の気持ちである。

 朝6時半、自宅を出発。ナビに従い、R302からR19へと走る。その後は高速道路に入らず、日が暮れるまで走った。6時になり、新潟県入広瀬の道の駅で打ち切ろうかと考えたがまだ明るい。スマホでチエックすると何とか7時過ぎに福島県最奥の道の駅に着けそうだった。
 入広瀬は以前に浅草岳、黒姫守門のスキー登山で来たことがある。それから先は未知の領域である。六十里越えのつづら折れの道はタイトなカーブでゆっくり走らされる。トンネルを抜けてからも断崖絶壁の上に刻まれた道路を走った。田子倉湖の彼方の多分会津朝日岳が素晴らしい。雪が解けてようやく春を迎えたような山村をひた走る。
 ここは並行する只見線も復旧していない。あるブログに「只見線は会津川口-只見間で大雨の被災による不通が続いており、その区間では代わりにバスが運行されています。そんな運休区間の存在やその先の1日3本しか列車が来ない区間」があるそうな。
 ともかくも名古屋から1日で、高速道路を利用せずとも、福島県最奥の道の駅まで来れた。広いPにはトラック2台、ハイエース1台だけであった。ここで車中泊した。
 途中、蒲生岳登山口などを見た。南会津郡は知られざる低山の宝庫である。
 うつくしま百名山という選定があると知った。
「うつくしま百名山(うつくしまひゃくめいざん)は、1998年(平成10年)に福島テレビが開局35周年を記念して選定した福島県内各地域を代表する名山。選定委員長は福島県三春町出身の登山家・田部井淳子。その最高峰は標高2,356 m の燧ヶ岳。」
 会津、中通り、浜通りと三区分された。
会津は「西吾妻連峰(百)(東北)(新)
川桁山
磐梯山(百)(東北)(新)
雄国山
猫魔ヶ岳・厩岳山
大仏山
飯森山・鉢伏山
飯豊連峰(百)(東北)
鏡山
高陽山
黒森山
鳥屋山
須刈岳
飯谷山
三坂山
本名御神楽(東北)
惣山
白鳳三山
背炙山
大戸岳
明神ヶ岳
志津倉山
博士山(東北)
小野岳(東北)
中山
斎藤山
御前ヶ岳
金石ヶ鳥屋山
高森山
蒲生岳(東北)
浅草岳(三百)(東北)・鬼ヶ面山
会津朝日岳(二百)(東北)
唐倉山
七ヶ岳(三百)(東北)
荒海山(三百)(東北)
佐倉山
大嵐山
田代山・帝釈山(二百)(東北)
三ッ岩岳(東北)・窓明山
会津駒ヶ岳(百)(東北)・中門岳
燧ヶ岳(百)
以上。既登は5座のみという希少性の高い領域である。

 乙川優三郎の力作小説『脊梁山脈』の中に「私は福島の浜通りです」というセリフがあった。中通りは阿武隈山地と奥羽山脈にはさまれた地域、浜通りは阿武隈山地と海に面した地域をいうらしい。中通りは数では互角だが山の深さが違う。
 司馬遼太郎も地名のもとになった近江出身の蒲生氏郷について書いている。そこを読みたい。

会津磐梯山に登る2019年05月17日

 奥会津の朝は濃霧の中にあった。今日は観光か、と訝りながら車で出発する。R252は六十里越えから田子倉ダムまでは急カーブの連続する山岳路であった。只見ダムからここまで来ると橋とトンネルで直線的になり広くて走りやすい。会津坂本でR49に合流すると幹線道路になる。そして会津坂下(あいづばんげ)まで出ると盆地になった。ここからまたスマホのナビに従った。R49を離れて田園地帯の農免道路のような道を走る。すると左手に美しい雪山が見えた。何だろう、水田の鏡面に逆さに映るので堪らずに車を止めて撮影した。飯豊連峰と分かった。
 朝霧が晴れると前方には美しい磐梯山が現れた。狙ったのは隣の猫魔ヶ岳という1等三角点の山だった。磐梯山は果たして登れるのか。急斜面の登山道は雪で閉ざされてはいまいか。ナビは八方台駐車場の登山口を目指した。両方の山の登山口でもある。着いてみると標高は約1200m。まだ8時だ、1800mの磐梯山へは比高600m、2時間半の登りである。山麓からは僅かな残雪しか見えなかった。方針は磐梯山に決めた。登山口で登山届を記入して投函した。
 出発は8時半過ぎとなった。美しいブナの森から始まる。中に小池が見える。沢は雪解け水が流れる。小鳥の鳴き声が美しい。夢のようなブナの森歩きを抜けると中の湯跡に着いた。温泉宿は廃屋で周囲には硫黄臭が漂う。ここから雪に覆われた登山道をゆく。とはいえ、潜ることはない。急な尾根道になる。山腹を巻くようなアップダウンもある。1640m弱の弘法清水小屋に着く。残雪の中からでも文字通り清水が沸いている。一杯飲むとうまい。雪解け水ではない。小屋に行くと女性の小屋番がおられた。こんな平日でも営業中なので百名山ゆえか。
 小屋から山頂まではほぼ一直線の急登である。しかも雪で曲がった枝が邪魔をする。難儀を強いられる。断崖のヘリを登るとすぐ山頂だった。11時ジャストなので休みを含めても2時間半程度。
 岩のゴロゴロした山頂であった。展望は360度。改めて飯豊連峰に目をやる。檜原湖などの湖が俯瞰される。山麓は高原性の平地でGWまで雪の平原だったと思う。目の前は残雪の飯森山、もうわずかな残雪の西吾妻連峰、一切経山が見える。真東は安達太良山、真南は那須連山だ。日光連山も視野に入るが見慣れない山々なので同定は難しい。会津は名山に囲まれた盆地であった。
 展望を堪能すると後は下山のみ。小屋に寄ってコーヒーを飲んだ。水のせいか、大変美味しい味がした。清水をペットボトルに詰めて往路を下った。登山口へは2時間もかからず、1時45分だった。
 帰路はR459で喜多方市へ行く。小屋で教えてもらったラビスパ裏磐梯に入湯した。JAFカード提示で50円引きの470円だった。R121で右折して米沢市へ向かう。大峠トンネルを抜けると米沢市であった。快適なR121であった。いったんは米沢市中心部をうろつくが、上杉神社など上杉氏関連の施設が目立つ。念願だった普門院をスマホに打ち込んだ。普門院は上杉鷹山が敬師と仰ぐ学者で細井平洲を迎えた名刹である。米沢市南部の山際にあった。奥羽本線関根駅にも近い。かつては福島から奥羽山脈の板谷峠を籠に乗って越えてきた最初の休み処であった。
 普門院の山門の前に愛知県東海市が寄贈した鷹山と平洲の出会いをモチーフにした人物像である。同じものが東海市の太田川駅前にもあるという。平洲を介在して友好都市になっているという。
 訪問すると自宅を訪ねよ、という案内があるので、「愛知県から来ました」と告げて、訪ねると和尚さんが出てこられて説明してくれたりして付き合ってくれた。東海市からも来たらしい。さらに平洲お手植えの椿も撮影して置きなさいと勧めてくれた。短時間だったが楽しい時間になった。普門院を辞した後は新しい道の駅へ行ってみたが、車が多すぎることと往来の多そうな道路に面しているのでスルー。
 遅くなったので、夕食は外食にした。米沢牛が有名であるが単価が高いのでジンギスカンにした。ビタミンが多いので疲れた体には良いだろうと。白味噌で味付けした羊肉とキャベツをかぶと型の鍋で焼く。味噌の下味がうまい。コメどころのご飯は肉以上にうまい。白味噌の味噌汁もうまい。1700円。
 夕食後はすっかり日も暮れて高畠町の道の駅に行く。ここは閑散として寂しいほどだったが車中泊には最適だ。カエルの合唱も気にならない。何しろ磐梯山に登れたのだ。

まほろばの里から北蔵王・雁戸山へ行く2019年05月18日

 夜明けとともに目覚める。曇りがちだがまた晴れるだろう。名古屋で用意したうどんと豚肉、カット野菜を使って肉うどんを朝食にした。初夏になると食品が傷みやすいのでその日に消費したいもの。
 明るくなった高畠町内を走ると「まほろば」の語彙が目につく。青森を「北のまほろば」とネーミングした司馬遼太郎の「街道をゆく」のと同じだが旅の感動を表現したのに対し、地元の方は売り込みが強い気がした。しかし、これも歌人の短歌に基づいていると知って納得する。

 高畠町観光協会のHPには「まほろばの里たかはた
山形が生んだ歌人、結城哀草果は

「置賜は国のまほろば菜種咲き 若葉茂りて雪山も見ゆ」と詠みました。

山形県置賜地方の東部に位置する高畠の歴史は、縄文草創期の土器が発見された日向洞窟など、一万年前までさかのぼることができます。
そして、町内全域に広がる古墳群は、この地に人びとが定着し、次第に集落を形成してきた事の何よりの証となっています。

地味豊かな当地は、さくらんぼ、ぶどう、りんご、ラ・フランスなど、多くの果物が生産されています。

また、自然のおりなす山容も、蛭沢や観音岩に見られる当地方特有の凝灰岩の巨岩に恵まれ屹立する様態は、まさに「まほろばの里」にふさわしい景観となっています。

※“まほろば”とは、「周囲が山々に囲まれた平地で、実り豊かな住みよい所」の意」
以上
 ある観光サイトに「さて、「置賜」の地名が初めて記録に出てくるのは、持統天皇3年(689年)の『日本書紀』です。陸奥の国・優嗜曇郡の蝦夷が僧になりたいとの申し出を、天皇の詔により許可したと記述されています。優嗜曇は「ウキタム」、または「ウキタミ」と読ませており、承平4年(934年)頃に編纂された『和名類聚抄』では、「於伊太三(おいたみ)」の字があてられています。
 「置賜は国のまほろば」と詠まれたように、この地域は、豊かな土地であったと思われます。それは、この地に天皇領や摂関家、後白河法皇の領地(本所)であったことからも推測できるものです。置き賜う=興玉=オギタマ(伊勢の二見ケ浦には興玉神社がある。)という名前からも、当時の権力者は、条件の良い豊かな土地を自分のものにしていたと考えられるからです。
 さらにこの地方は、西東北における蝦夷と大和朝廷との境にあたり、国土防衛線の意味もあったと言われます。このことは、西東北地方における前方後円墳の分布においても、当地の南陽市に存在する稲荷森古墳の特異性からも伺うことができます。蝦夷集落を管理しなければならない最前線であったとすれば、置賜は「日置郡、置部(へきべ)」に関した名前とも考えられる。「へき部」とは、古代出雲族から出た氏族の名前であるが、その後役職名となり、「住民の戸数を調べる仕事で、税務と行政」を司る意味に使われるようになったと言われています。」紹介されている。
 思い付きで命名していることではなかったのである。司馬遼太郎の「街道をゆく」10の羽州街道にも置賜にふれている。 

 道の駅の接するR113からR13へ右折。置賜平野を北上する。山形市からR286へ右折。山形自動車道関沢ICまで良い道が続く。ICを過ぎると突然1車線の狭隘な山岳路に急変する。タイトなカーブは笹谷峠まで連続した。
 906mの峠に着いた。濃霧が景観を奪い、強い風が吹いている。駐車場は約30台から50台は入る広さがある。トイレもあって設備は良い。身支度後、登山口を探るが見当たらず、宮城県境まで歩くと道標があった。明確ではなく、何となく右へ下がってみたら、R286の県境ゲートの宮城側に出た。その先に小さく北蔵王と古い道標がありそれに従う。思い直して山形県境も探るが分からず。
 地形図では宮城県内から破線路が続くが山形県境も絡めながら歩くようだ。そのうち有耶無耶関跡なる道標のある場所に着いた。宮城県側からの沢道が上がってきている。さらに進むと登山道が錯綜している。笹谷峠側に少し戻ると三差路になり左折すると雁土山への道標になっていた。狐につままれたような迷走山路である。
 雁土山へ振ると見事なブナの森の中の山道になる。地形図にあるような緩斜面で高度は上がらず。4等三角点「八丁平」は見落とした。何分登山口から濃霧で見通しはきかない。登山道はやや傾斜を高めながらゆっくり登り始めた。足元の道は掘れこんでいるいるから利用者は多いのだろう。上に行くと残雪が道の溝を埋めている。
 中途で小休止。クマへの恐れから、ブナ林では休まず歩いたせいで大汗をかいた。登山口で厚着し、その上に雨がっぱも着込んだから当然だ。カッパを脱ぎ、厚めの上着も脱いで体温を下げた。そしてぐったりする疲労感に襲われた。
 濃霧も晴れて、前衛のカケスヶ峰へ登頂。360度の展望がある。雁戸山は名前の通り鋸刃のような山容である。疲労した体で蟻の戸渡のような危険個所は歩けない。往復1時間半はかかる。4時頃までに飯坂温泉へ行かねばらなず、少し急がないと間に合わない。カケスヶ峰で登頂を断念して関沢コース経由から笹谷峠へ下山した。
 こちらも同等のブナはないが、つるつるの滑りやすい登山道の状況であった。但し明るいのが幸いだ。峠が近くなると登山道がいくつかに分岐している。直感で電波塔?の方へ行くと舗装路になっていた。直進すると地元の高校の山小屋に通じていただろう。舗装路との連絡路もあった。登山口は駐車場からすぐの電波塔への舗装路の入り口であった。明確な道標ではない。名山ではあるがマイナーだとこんな扱いなのだ。
 小屋で一緒になった女性ハイカーに道々教えてもらった。今日は山形神室への手前のはまぐり山を往復したらしい。眺めが良く楽だとのこと。神室山は二つもあったのだ。
 駐車場で支度後、R286を下る。山形市内に戻り、物産展示場を見学。そこから仰ぐ雁戸山は立派な姿に見えた。R13で米沢市内まで戻り上杉鷹山関係の伝国の杜に入館(本日は無料)して鷹山の業績を学んだ。R13で福島の飯坂温泉に向かった。
 福島県境の手前で県道に右折。峠駅を見学に行く。奥羽本線は新幹線化されたが、かつてはスイッチバックで知られた。そこの名物の「峠の力餅」を買うためだった。ここも1車線の狭い山岳路であった。人気の秘境駅だったので今もドライバーが行きかう。
 峠駅は残っていた。今は山形新幹線の強力なモーターで牽引されて走り抜けてゆく。R13は西栗子と東栗子トンネルの2本を貫通させ、東北中央自動車道は長いトンネルを貫通させたというのに、ここは産業遺産めく駅を残した。
 R13を下るとあとは道草もなく飯坂温泉の旅館を目指した。摺上川に面した老舗旅館だった。玄関を入ると懐かしい会長らが待っていた。受付を済ませてようやく30名の会員仲間の一員になった。

うつくしま百名山・半田山を歩く2019年05月19日

 朝7時過ぎ、朝食後に班分けをして29名が分乗。飯坂温泉福住旅館を出発した。ルートはナビ通りではなく、R4の東の農地を迂回するように走った。西に半田山の容姿が見えた。一番良い形のところを選んだのだろう。粋な計らいである。そうして半田山自然公園を目指した。
 公園への道は車でごった返していた。バスとの行き違いもありしばらく進めなかった。今日は山開きの日。その会場のPへ着くと想像以上に車が止まっている。もう歩き出していた。今日の参加者は500名という。さっきのバスも送迎だったのだ。
 登山口の林道終点まで走るが、狭い道にハイカーの行列が続くので注意深く走った。Pでさっさと身支度して出発だ。頂上へは比高300mもないからすぐだった。山頂へは参加者へバッジを渡すために渋滞していた。しばらく落ち着いてから登頂し、すぐ記念写真を撮って下山した。
 桑折町(かおり)の広報課のスタッフが記念写真を撮影中で、我々の記念写真のシャッターも押してもらった。下山後はPで解散となった。あっけない例会であった。しかし、語り草になりそうな登山ではあった。分乗者2名をJR桑折駅まで送って別れた。

 解散後はいったんR4を二本松市まで走った。安達太良山の麓をR459からR115へ走る。

 かつては30歳代の正月休みにJRを使って南東北の1等三角点だけを狙った変態的なスキーの山旅を思い出す。
 初日の男体山は強風で頂上直下で撤退、二日目は野岩鉄道で移動し南会津の七ヶ岳をスキー登山成功、3日目は鉄道で会津若松駅まで移動し、会津磐梯山のスキー登山に失敗、4日目は郡山駅から磐越東線で青谷駅へ移動し、スキー一式は駅に預けて、阿武隈山地の大滝根山に登頂するが、自衛隊の基地内のためフェンスの外から眺めるだけに終わった。
 さらにJR東北本線二本松駅の旅館で一泊後朝一のバスで安達太良山に向かった。最奥のスキー場からスキー登山で登頂した。これが3
つ目の成果だった。白河駅から三本槍ヶ岳を目指すもバスでPに降りた途端に道が凍結するほど寒気が厳しく、登山に挑戦することもなくすごすごと帰った。
 あの頃は登山技術も情報収集調査も不足して3座登頂、3座失敗の成果で終わった。男体山はその後グループで登った。磐梯山は5/17に雪辱を果たした。日本百名山は北海道で5座、東北で10座、関東甲信越で4座、関西で1座、四国で1座、九州で2座、未踏は合計23座になった。

 安達太良山はいかにもスキー向きのなだらかな山容が良い。大方雪は解けた。そんな馬鹿なことを思い出しながら典型的な山岳路を走った。R115は安達太良山の北麓を抜け出すと目の前に素晴らしい山が忽然と現れた。登ったばかりの磐梯山だった。磐梯の東から南へ回った。5/17に利用した道の駅にまた立ち寄った。
 最後は会津若松市の鶴ヶ城を見学した。駐車場から天守閣は見えず、場内に入ってから見上げた。名古屋城や姫路城をイメージしているからそのコンパクトさに拍子抜けする。松本城もそうだった。今の時代は市を睥睨するほどの威圧感は薄れた。場内には有料で入れるが外から眺めるだけにした。
 山本八重(新島八重)の和歌が展示してあった。何年か前の島津亜矢主演の「 御園座初座長公演 会津のジャンヌ・ダルク~山本八重の半生」を思い出す。Pの入り口には司馬遼太郎の文学碑がでんと構えていた。
 刻まれた言葉は「「歴史を紀行する」や「王城の護衛者」から抜粋した文章が碑に刻まれています。

『会津藩というのは、封建時代の日本人がつくりあげた藩というもののなかでの最高の傑作のように思える。「歴史を紀行する」一九六八(昭和四十三)年より』
『容保が、京を戦場に死のう、といったとき、慟哭の声がまず廊下からあがった。この声は またたくまに満堂に伝播し、みな面を蔽って泣いた。
「君臣、相擁 し、声を放って哭けり」と、この情景を、劇的な表現で会津藩の古記録は語っている。「王城の護衛者」一九六八(昭和四十三)年より』

 このうちの松平容保は、美濃高須藩の出。帰ったら「街道をゆく〈33〉奥州白河・会津のみち、赤坂散歩 (朝日文芸文庫)」も読まなきゃ。

 その後、市内からナビに従い、R252に出て、福島県最奥部をドライブ。六十里越えトンネルを越えて新潟県へ、そしてR117から上信越道に入り帰名。鶴ヶ城見学に要した2時間分、帰宅が午前様になった。