雪山に雪ふりつづく余寒かな 拙作2019年03月14日

 天気図を読むと大陸の高気圧が張り出す。そのためか乾燥した日々。喉の粘膜は乾燥に弱いのでこのところ空ぜきが続く。のど飴が欠かせない。灯油も切れかかった。もう買わずに済むかと思いきやこのぶり返しでもう1回は買っておこう。
 現在は台湾にかかる前線は明日以降日本列島の南岸に迫るのでまたもや高い山では降雪が続くだろう。表層雪崩の季節である。今日は一時雨も降った不順な天気だった。そろそろ彼岸も近い。”毎年よ彼岸の入りに寒いのは”と正岡子規は詠んだが、その通りの季節の廻りである。
 今日も事務所で執筆の準備に取り掛かった。昨夜は行方不明の書籍も見つかり資料はそろってきた。なんでもないところにひょいと置くから探しても見つからなかったのだ。自宅から事務所へ運んでは見たが執筆へのモチベーションが高まらず関係者の連絡待ち。
 下書きはできている。資料の書籍に付箋も貼ってあるし、読み込んであとはひた押しで書くことになる。背中を押してくれるきっかけはなんだろう。逡巡としてまとまらない構想か。そんなときは街を歩いてみる。
 そうか、好きなことをやり続けるって、道楽か、時間と金銭の浪費、消耗と思っていた。否違うんだな。
 自然に親しんで情緒を養ってきたからむかつく気持ちを抑えることができる。境遇が気の毒な人にも自業自得だわい、と突き放すことはしない。老子によれば草は大木より強いという。論理的には反対だが、草は強風にもしなるだけ、大木は倒れることもある。そんな柔軟さが教養と思う。
 新聞の書籍広告欄で『認知症の人の心の中はどうなっているか』が5刷を突破とあった。この本売れると思った。正しく情緒の本だから。他に岡潔が没後40年で再評価という。これは藤原正彦氏の頑張りか。弟子が引用したり評価して先師の評価は高まる。佐藤佐太郎なくして斎藤茂吉はないというごとく。

春曇り2019年03月17日

 午前中は読書、午後は丸の内の事務所で原稿を書くために久々に車で行く。昨日はオイル交換を済ませたらエンジンの回転が軽やかな気がする。ちょっと走ってみたい気がしたのである。八事の坂を上りきると八事霊園への交差点では3/16からもう規制中であった。彼岸のお参りが始まったらしい。車もやや多い。
 今日は日曜なのでPもフリーになる。机に向かうが中々構想はまとまらない。飲み物を買いに出て、昼食を済ませて、少し仮眠して、やおらキーボードを打つ。すると滑るように文章が流れ始めた。案ずるよりは産むがやすし、で手を動かしてみると頭も刺激されて文が紡ぎだされる。
 10年前に亡くなった山岳会の先輩で医師のU先生は、頭が手足に命令して歩いたり掴んだりしているのではない。手や足が頭に指令を送っているのだよ、と。手足はセンサーと考えれば分かりやすい。脳内の記憶中枢を刺激して文になるらしい。
 子供に氷が溶けたら何になる?と問えば春になる、という。しかし、大人は水になる、と常識で答える。感覚と常識の違い。それでK氏の評伝もあらかじめ集めてあった資料の付箋をたどりながら文を組み立てていくとあっさり原稿になった。これで1本仕上がり、あと山岳会用にもう1本ある。さらに1本は締め切りに余裕がある。仕事関係でも報告書の作成がある。また本づくりの資料集めもある。山積している。嗚呼。

ものも言はず土筆のはかま取るばかり 拙作2019年03月18日

 行きつけの喫茶店に行ったらマスターの奥さんがものも言わずに何かやっていた。よく見ると土筆のはかまを取る作業中だった。もらいものらしい。土筆は油で炒めて醤油と砂糖で味付けすると春の香り高い一品料理になる。しかしわざわざ取りにいくだけの気力はない。

 午後3時に車のディーラーに行ってフォグランプの切れたのを両方とも交換してもらった。夜間に照明のない道路を走る際には頼もしいツールである。それですぐに修理を依頼したが登録から16年経過した高齢車なので部品がない。取り寄せてもらった次第。

 後、オートバックスに行ってマイカーのエアコンの洗浄を依頼した。点検してもらうとフィルターが設計上にないとのことだった。ということは空気がそのまま温められ、または冷やされて送風口から吐き出される仕組みであった。そりゃ汚れるはずだ。
 じつは、春になっても空咳が収まらない。以前から室内エアコンを警戒して石油ストーブにした。空気を温めて送風するものは必ず汚れる。最新のものは自動で洗浄する仕組みがあるが旧型はないのでスプレーで洗浄する。
 石油ストーブならば燃焼だけである。それで室内では咳は収まった。
 マイカーに乗って暖房をすると咳が出てくるのでカーエアコンを疑った訳だ。オートバックでは対応できなかったのでまたディーラーに相談するか。

富山県・南保富士を歩く2019年03月21日

 今年は岐阜県や長野県でも雪が少ない。それでTutomu hirakiさんの記事を見て白鳥山を計画した。
 3/19の夜、愛知岳連の理事会終了後、Wさん宅に車をデポし、10時発で20日の夜2時過ぎに入善町の園家山キャンプ場のPで仮泊。3時間の仮眠後6時に出発。
 園家山は標高17mの1等三角点のある山。これで3回目の訪問か。海の近くでも真水が湧水するので砂丘のような雰囲気のところに設けられたキャンプ場である。
 3/20、R8に出て、コンビニで乾電池などを購入したり、給油したりしながら新潟県境を越える。境川に沿って山奥に走る。山姥の里という。新潟県糸魚川市上路には7時30分ごろに着いた。車道の未除雪地点に1台あった。
 閑散とした上路には雪が道の脇に残る。車道の奥は除雪されていなかった。そこが終点になる。入り口を探すためにまた戻る。里人が1人だけ居られたので聞くと今年はやはり雪が少ないので藪が出てるよとのこと。それでも気持ちを奮い立たせて8時に出発。
 教えられた小脇谷と榀谷の間の林道の廃道を歩き終点から尾根にとりつく。標高300m付近まで登ったものの灌木の茂る藪尾根に断念。スキー板を抱えての登山は無理と9時に撤退。
 下山後は南保富士に転戦した。山頂は簡易トイレが埋まるほどの積雪にびっくりする。南保富士の山頂からの眺めは抜群で、白鳥山、犬ヶ岳、朝日岳、白馬方面まで見えた。すぐ近くの仁王山、黒菱山、初雪山、犬ヶ岳と山スキー向きの緩やかな雪稜が続いている。また剣岳、毛勝三山、僧ヶ岳の眺めも非凡。
 日本海は眼下に見え、入善町の扇状地も素晴らしい。沖には黒い巨船が北に向かって航海中だ。ふと歌謡曲の歌詞が浮かんだ。♪船を見つめていたあ、・・・上海帰りのリルリル♪と断片的ながら。歌手は入善町出身の津村謙のヒット曲。大いに山頂滞在を楽しんだ。
 往路を下山と思ったが、出会った地元の登山者から今年の干支の猪山490m経由を勧められたので540mのコブから北の尾根へ分かれる。道とはいえ、フィックスロープのあるやせ尾根で急降下、急登を繰り返す難路だった。七重滝の上ではカモシカに会った。滝への分岐から西山用水路跡の水平路を歩くがここも残雪でのり面が埋まりキックステップを余儀なくされて緊張した。
 無事に登山口に戻り、宇奈月町のバーデン明日(あけび)で一風呂浴びた。入善町のスーパーで夕食を調達、地下からの湧水を一杯汲んで園家山キャンプ場でテント泊。
 21日午前4時ごろから予報通り降雨。登山は止めて、入善町から魚津にかけてドライブ中、僧ヶ岳が立派に見える。魚津市の埋没林博物館と水族館、米騒動発祥の地を見学後は帰名。好展望の南保富士に登れたことで良しとした。

成年後見の実務研修2019年03月22日

 午後2時からは成年後見の後見人、保佐人として実務にあたる行政書士の先生から体験談を受講した。4例あり、4人の先生は詳細に手続きから最後までを縷々語られた。成年後見制度は認知症などで自律的な人生を送れなくなった人の法的なサービスである。その関わり方は様々で一様に語れない。悩みの多い仕事である。

名残り雪のごと引退やイチローも 拙作2019年03月23日

 3月は去るに因んで別れの季節。実際卒業式や役所や会社では人事異動で多くの人の離別が繰り返される。また亡くなる人も多い。
 山麓の雪は消えたけれど高い山では残雪が埋め尽くす。たまには名残り雪が降る。
 下界では大きなニュースが響いた。まだまだ活躍できそうなイチローが引退するとのこと。
 
ソース:https://www.chunichi.co.jp/article/front/list/CK2019032302000061.html
 日米通算4367安打の大打者で、日本人野手として初めて米大リーグに挑戦したマリナーズのイチロー外野手(45)=本名鈴木一朗=が二十一日、アスレチックスとの開幕第二戦後に東京都内で記者会見し、現役引退を表明した。メジャー十九年目となるプロ二十八年目の今季、キャンプでの不振で決断したとし「後悔などあろうはずがありません」と語った。

 日本人では初となる米国野球殿堂入りが確実で、二〇二五年に候補者資格を得る。一方、菅義偉官房長官は今後、国民栄誉賞授与を検討していく考えを示唆した。古巣のプロ野球オリックスは背番号「51」を永久欠番にするよう検討に入る。

 イチロー選手は昨年五月に会長付特別補佐としてフロント入りした後、今年のキャンプで選手復帰した。だが、オープン戦から不調で、七年ぶりに日本で公式戦出場した二十、二十一日の開幕二連戦でも無安打だった。「日本でプレーするところまでが契約上の予定だったが、キャンプ終盤に結果を出せずに、それを覆すことができなかった」とした。

 二十二日には成田空港から本拠地シアトルに向かった。
以上

 天才打者のイチローさんが引退表明。新聞の一面を埋め尽くすのは偉業だった証左だ。球道者とも表現される。

 コトバンクによれば

1 野球・ゴルフなどで、投球や打球のコース。たますじ。
2 野球の道。武道・芸道になぞらえていう。「球道一筋に生きる」

以上

 たぶん求道(ぐどう)のイメージを換骨奪胎したのだろう。武道、芸道、柔道など。人生の修業の手段として習い事をする人を言う。イチローは球道の高みに達したのである。

清須市の朝日遺跡探訪2019年03月24日

 かねてから念願だった清須市の朝日遺跡を訪ねた。意外に近かった。清須ジャンクションのすぐ近くである。現在は2020年オープンに向けて公園化工事の最中であった。
 発掘で「遺跡からは土器、石器、骨角器、木製品、金属器など膨大な量の出土品」は建物内で見学できた。ただし、土器(素焼きの壷)の中にエナを入れて埋設されていたものは無かった。土器自体もロクロを回したものではなくそこまで高度な制作は後日にゆずる。
 ここは弥生文化の遺跡であるが、縄文時代末期にも重なるとか。歴史的に断続したわけではなくゆっくり時間をかけて同化していったのだろう。弥生人と縄文人が戦争をして縄文人が敗れたとか弥生の方が優れていたとかいうことではない。
 なぜに注目されたのかといえば約1000人もの人が生活をしていたらしい規模の大きさがあるという点。墓場もある。石器を作る工房もあった。ウィキには「環濠、柵列、逆茂木、乱杭などで、集落を二重、三重に囲む強固なもの」が備わっていたらしい。集落間の争いはあったのだろう。人骨の模型を見ると骨太で縄文人的であると説明の人も言われた。
 弥生時代の始まりは2400年前という。愛知県のHPには「今から約2400年前、縄文時代の終わり頃に大陸から海をこえ新しい文化が伝えられました。水田での米作り、鉄や青銅をはじめとする金属加工など新しい技術が導入され、日本列島に暮らす人々の生活や社会は大きく変わっていきました。紀元前3世紀から3世紀まで続くこの時代を弥生時代といいます。」とある。
 すると「実際の紀元前660年を考古学的に見ると、伝統的な土器様式などに基づく編年によれば縄文時代晩期、2003年(平成15年)以降に国立歴史民俗博物館の研究グループなどが提示している放射性炭素年代測定に基づく編年によれば弥生時代前期にあたる。」
 2019年は皇紀2679年。朝日遺跡が活動期には既に天皇が在位していたことになる。

 愛知県の西にこんな遺跡があったとは。古代史に興味を持たなければ知らなかった。月初には設楽町の縄文遺跡を探訪したばかりだ。とにかく愛知県から富山県にかけては弥生文化と縄文文化の狭間にある。沢の文化と谷の文化の境界にあたる。面白い地域である。

八幡和郎『「日本国紀は世紀の名著かトンデモ本か』(パルス出版)を巡って2019年03月24日

 フェイスブック上で面白い論争が続いている。百田さんの本に対する八幡さんの批評が本になる。以下にコピペすると

『日本国紀』はなぜ大ヒットしたのか
 この本が大ヒットしたのは、なにも出版社の宣伝がうまかったからだけではないのは、某氏の『応仁の乱』と同じだが、理由は以下の当たりに集約されるだろう(以下の点を私が評価しているかどうかは別にして、なぜ売れたかの分析である)
①日本人は、日本が嫌いになるような日本史より好きになるような日本史を求めていた。
②客観性にこだわってああだこうだ書くより作者の主観に徹したことの気持ちが伝わる。
③「日本という国」という突き放したものでなく「自分たちの国」の歴史が描かれている。
④帝王や政治家と庶民の描き方のバランスがよい。
⑤平成についての項目を設けるなど過去と現在を上手につなげている。
⑥保守派の極端な主張が炸裂というほどでなく戦中・戦後以外は以外に穏当である。
⑦最近の世論が保守化しているといわれるが、反対に歴史学会などは反日の度を先鋭化しているという主張は説得力がある。
 編集者の有本香氏は、以上のような点を、以下の三点に集約しているが、妥当な見方であろう。
⑧変更(ママ:偏向)した日本の歴史観を根源的に見直したい、
⑨百田尚樹という作家が魅力的だ
⑩平成から新しい時代への御代(ママ:世)代わりの時期に相応しい
 
 以上のような美点があればこそ売れたし、また、読んだ人の多くに好評であり、実際、同じベストセラーでも「応仁の乱」よりは全部読んだという人の割合が高いのには、それなりの理由がある。

百田先生、このあたりは賛成できません
私はこの本は『日本書紀』ではなく『古事記』の現代版だと評している。『古事記』は主観的に日本人の歴史観を書いたもの。『日本書紀』は国際的な支持を狙ったものだからだ。もし、これが『平成日本書紀』なら、以下のあたりは目的にそぐわない。
①万世一系を否定している。
②大和朝廷が任那を領土とし百済を従属的な友好国としていたという歴史的な主張を否定し、かなりのちの時代まで九州王朝が主体でないかとし、百済を植民地のようなものだったとしている。
③足利義満暗殺説など陰謀史観的な記述が多い。
④日蓮やその宗派とか陽明学とかが出てこないなど宗教や思想についてアンバランス。
⑤江戸時代の封建制や鎖国のデメリットへの認識が不十分。
⑥尊王攘夷が維新の原動力となったことの意味を理解しておらず極端にアンチ長州である。
⑦学校制度が典型だが明治維新と文明開化への評価が極端に低い。
⑧さきの戦争について、「日本だけが悪いわけでない」ならともかく「日本は悪くない」に傾きすぎて海外で修正主義の烙印を押されるリスクが高い。
⑨ジャパン・アズ・ナンバーワンの時代について暗黒時代がごとき評価になっている。
⑩日本人の国防意識の低さへの批判は正当だが、それを占領軍の責任に押しつけすぎ。
 以上のような点の詳細を本書では解説している。そういう意味で、懐疑的な面の記述が量としては、ほとんどだが、それは、誉めるのは総論的なもので十分だろうという観点からであって、私としては、この本は、ニュートラルに議論の素材を提供することが目的で書いたものだ。
 それを、擁護するタネにするか、批判の材料にするかは、どちらにもできるだろうと思う。
以上
 明日発売らしいのでまずは立ち読みしてみたい。
 この種の本自体にはトンデモ本が多い。百田さんのベストセラーをネタにする本であるから読むに値するか。昔はこんな本も出版されていた。
1 朴 炳植『万葉集の発見―「万葉集」は韓国語で歌われた』
2 藤村由加著『人麻呂の暗号』
3 谷沢永一『「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する』
4 吉田清治『私の戦争犯罪』
その他にも多々あるだろう。関心のある分野はつい騙されてしまう。しかし、読んでまったく無駄にはなるまい。自分の栄養になる本は少ない。ゆえに古典がいつまでも輝くのはトンデモ本は時代に振り落とされてきたからだ。

弥生人渡来説の嘘! 〜なぜ弥生時代に生活が質素になったのか〜【CGS 日本の歴史 1-10】2019年03月26日

  朝日遺跡を見てきたばかりなので分かりやすい動画です。以下のコメントを読んでも定説はない。歴史は断続せず、連続的だった。共生ではなく、すみわけていた。特に愛知県は弥生と縄文の住み分けがあっただろう。
 濃尾平野はヤマト政権の東の果てで東征の拠点になった。

ソース:https://www.youtube.com/watch?v=QwgK9s42Oxk

 第1章最後の回は、前回の「稲作が縄文時代から始まった」という事に続き、弥生人は渡来人という定説のウソを暴きます。
 よく言われるのが横長の顔の骨格が縄文人、縦長・平たいのが弥生人、のように骨格に差があるとされてきましたが、実は骨格の差はなかった様です。そしてそこには「捏造の歴史」がありました。
 いわゆる自虐的な歴史観はこの時代からもう存在していたのでしょうか。
以上

 気になるコメントから

①NHKスペシャルでの「ジャパンデビュー」を企画したディレキターは韓国人。彼は、「朝鮮半島人が兄で日本人は弟」という狂信的な小中華思想の持主だった。これは単に、彼特有のものではなく、韓国の指導階級(政界に多い元李氏朝鮮の両班階級)に共通するもので、それはさ更に上級の支配層のによる計画的な国家的戦略の一環によるものだと、思う。つまり「朝鮮が兄で日本は弟なのだから、日本は永遠に韓国に対して朝貢外交(経済援助・協力)するのが当然。(日本は韓国にとってATM存在だ。借金は踏み倒せ。)」という国家的戦略の一つだと思える。

②そもそも縄文時代、弥生時代とかいう時代区分がおかしいのではないか。

・・・お説の通りです。弥生時代はつまるところ神話時代に重なる。皇紀2800年ですから。大川周明は『二千六百年史』の中で、神話時代を日本人がどこから来たかを忘れてしまったからと記述する。天孫降臨とはまさに弥生人の渡来を示唆する。弥生人は縄文人の文化に飲み込まれたのではないか。但し、社会の支配構造は上書きされた。唐から逃避してきたのが弥生人であり、唐の属国からの自立が大化の改新だったのです。
 縄文語(日本語)の書き言葉を模索してやっとできたのが『古事記』で、唐の人に分かりやすい漢語で書いたのが『日本書紀』。
 戦後にGHQの影響下、大量のアメリカ文化がなだれ込んだが、定着したものは少ない。アメリカ文化は日本文化の基幹システムの上で動くアプリに過ぎない。GHQが作った憲法ですらいまだに擦り合わせがうまくいかないのは当然。

7 か月前
実際は弥生時代なんてなく縄文が長かったのが定説になりつつありま③す。定説にしないといけないですね。

4 か月前
④勉強するには、一応区分けしないと覚えづらいでしょうがね。この動画は、弥生人という人種がいたわけではないという話です。


⑤水田の遺跡が見つかって、地層から年代が縄文時代までさかのぼったのは何十年か前だったような。
大陸から渡来人がきて稲作を始めたわけじゃないのは確かなこと。

⑥弥生人と縄文人は頭蓋骨の形が違うというのは嘘です。というのは頷けます。
縄文人が沢山住んでいるところへ少数の大陸の難民が来て混血したとしても縄文人のすべての頭蓋骨が変わるような激変は起こりようがないと思います。
最近のことを考えてみると判りますが大東亜戦争の敗戦で白人がたくさん来た結果、少数の混血の人は生まれましたが日本人のすべてが混血になり頭蓋骨の形が変わるようなことは起きませんでした。
又、もう一つ別の場合の考えですが大陸の渡来難民が縄文人を全滅させて渡来難民(弥生人?)だけが残ったというようなことは起こらなかったのではないかと思います。
ですから弥生人と縄文人は頭蓋骨の形が違うというのは嘘です。というのは頷けます。
私は現在の日本人のルーツは基本的には縄文人ではないかと思います。

⑦大陸の動乱で平和な縄文日本に武装難民がやってきた。ー北米にイギリス人が来てインディアンが虐殺されたようなこと。ー「渡来人=優れた文化を持ち込んだ先進的人々」という刷り込みですね。

・・・お説の通りだと思います。

⑧考古学は遺物実証主義だから、それができない。
まず、遺物から考えるのが考古学だからないと、できないんですよ。

⑩Kenneth McHale 古代に於いては、帰化人と渡来人は厳然と区別されていました。
帰化人とは、朝鮮半島に住んでいた倭人(縄文期に入植し、百済、任那、新羅‣・等の国を作りました)です。前記諸国は、倭国に朝貢もしていました。
この時に倭国の籍を得たのが帰化人です。朝鮮半島が、朝鮮人に奪われた時、沢山倭国に亡命してきています。
渡来人とは、外国人です。当時のシナ人や朝鮮族です。文化も歴史も違います。
尚、現代に通俗的に言われている在日は韓国籍の韓国人です。

3 年前
⑪+Kenneth McHale 上田正昭氏は2016年春に亡くなりました。そうであっても、「河内王朝」を提唱した人です。仁徳天皇陵を中心に奈良盆地でなく生駒山地を下った現東大阪市に巨大古墳が分布しているためです。
じっさいには大和盆地以外に皇城を置いた形跡はありません。上田の主張の根幹は、古代、朝鮮人が日本文化に大きな影響を与えたという点です。
 これは誤りです。朝鮮半島には、いっさい縄文弥生土器は出ません。銅鐸もなく、銅鏡は数面、百済王墓から出土しただけです。そもそも朝鮮半島に銅山は存在しません。
 上田正昭こそ戦争直後、マルクス主義史観のもと、大陸優位説を唱え、渡来人用語を始めた張本人です。さらに仁徳天皇陵と呼ぶのを止め、「大仙陵」と呼ぼうと言い出しました。仁徳天皇陵と呼ぶことは室町時代には始まっています。
 マルクス主義・京大以外、取柄のない人の言説に無条件で従うのは誤りです。

・・・お説の通りです。国立大学の教授の説=権威は困ったものです。

⑫日本人のルーツをどうしても濊族朝鮮人にしたい勢力が、マスコミや大学に沢山工作員を贈っているということですね。。。

7 か月前
⑬日本が朝鮮半島を統治していたなんてありえないってことにしたいわけですw7世紀まで朝鮮は九州などと同様に倭国の一部でした。これを消したい勢力がいます。

⑭歴史は征服者の都合で幾らでも改竄が出来ると知るべきですよね。
三内丸山遺跡の出土が大きく縄文時代は豊かだと証明されましたからね。
今の日本の現状は考えれば分かりますよねww

⑮紀元前の段階で日本には製鉄技術があった。
4世紀高句麗にとって倭国は、新羅、百済など比較にならない程の脅威だった。

⑯弥生人、縄文人も人種じゃない

⑰弥生人のDNAが採取された事実は、ありません。
縄文人からは、偏りのあるミトコンドリアDNAではない”核DNA“”を抽出しています。
その結果、縄文人が独自のDNAを持つ人種として特定されたのが事実です。

⑱共同通信が海外で配信している記事には。江戸時代の人は縄文人より胴長短足だったと、国立科学博物館の海部陽介研究チームが11月13日に発表したと書いてあります。私は小名木さんの解説を信じていますが、まだまだ嘘、でたらめを言う権威者が多いのだなと、がっかりします。

⑲縄文人と弥生人は人種さえ違った説明は嘘なんですね。学者がめちゃくちゃなことを言っても、派閥で賛成者が多ければ言ったとおりになる典型的な話ですね。人種が入れ替わったとすれば争い事が多くあったはずですが、日本列島にそんな形跡はないなら少数の渡来人が移って来ただけで、和をもって混血になった。学者の行ってる人種の入れ替わりなんてあるはずがない。かってに学者が別の人種と言ってるだけ。でたらめな歴史を勝手に作る学者が多かった。今でもそうかもしれないね。ねつ造してデーダを作ったNHKもそのおせん棒を担いだ代表者だね。

⑳弥生時代に渡来人が稲作を日本人に伝授したなど真っ赤なウソだったんだな。伝授するどころか日本中を荒らしまわったっていうことだ。支那や朝鮮のやることは今も昔も同じだな。なお、弥生時代の捏造には日教組も関与してるでしょうな。

㉑稲作は縄文時代から行われてきた、という考え方がバカ過ぎて笑える。単に弥生時代の始まりが遡っただけの話であり、それは大陸から先進文化が伝わった西日本より緩やかに始まったと解釈すべき。

6 か月前
㉒そもそもそれまで弥生時代の定義とされていたことが縄文時代にすでに行われていたことが次々とわかっている
ゆえに弥生時代が遡るのではなく弥生時代そのものがなくなりそうといったほうが正しい

㉓縄文土器と弥生土器の背景思想は、まるで違います。
 縄文土器は呪術的思考の産物ですが、弥生土器は合理主義的産物です。また、技術的な連続性がありません。つまり、縄文土器が弥生土器へと進化した訳でも、退化した訳でもない事は技術的には明らかです(因みに筆者は作陶家で、古陶研究家です)。
 技術的には弥生土器はより優れているので、縄文土器にとって代わるのは必然の事なのです。弥生土器製作技術集団が、移入して来たと見るのが妥当なのです。水稲水田栽培、弥生式土器、銅器が弥生文明の三点セットでありますから、弥生文明は北方由来の文明でない事は明らかです。揚子江流域由来の文明であると、筆者は考えます。
 日本の古代は、文明のバロメーターである焼物を見れば明らかにできます。日本の古代は、焼物を指標にすると、縄文時代、弥生時代、須恵器時代に分類できます。(弥生土器と須恵器にも、直接の技術的連続性がありません。須恵器は半島由来で、北方系です。ここで言う須恵器時代は、いわゆる古墳時代で、炭化焼き締め陶器、鉄器、馬が新三点セット)
 現在の日本語が、母音を五つしか持たないのは、母体の言語がオーストロネシア語族である証であり、縄文人の言語だったのではないでしょうか。文法が朝鮮語とほぼ同じなのは、須恵器時代に半島の言語が一部で公用化されたが、文法は生き残ったが、音は母系には勝てず縄文化された物と考えます。日本は、縄文、弥生、須恵器、三文明の三階構造で成り立っており、日本人とは、多勢の縄文人と弥生系渡来人と、須恵器系渡来人の混血民族と考えます。

お伊勢参りと田丸城址、松浦武四郎を訪ねて2019年03月28日

 所属の三遠地方民俗と歴史研究会の行事で春霞の三重県中南部の伊勢神宮外宮、田丸城跡、松浦武四郎記念館を経めぐった。バスは豊橋市発なので、9時待ち合わせで刈谷PAで拾ってもらい便乗。
 11時にまず外宮へ、正月も来たばかりだから多賀宮など別宮を参拝。何でもない日柄なのに参拝客の多いこと。昼食は的矢湾産の牡蠣フライ定食を賞味。美味しかった。1200円也。
 次は続日本100名城の田丸城址へ。ここは初見だった。朝日新聞社創業者の村山龍平は田丸で出生。新聞事業の成功で儲けた村山は城跡を国から払い下げてもらい町に寄付。村山龍平は郷土の偉人として顕彰されている。
 城の歴史は「田丸城跡は1336年(延元元年)北畠親房・顕信父子が南朝義軍の拠点として砦を築いた」そうで、織田信長の次男の信雄(のぶかつ)も5年間城主だった。信雄は城郭の改築再建の経験を重ねて後には姫路城主となった。
 北畠親房は『神皇正統記』で知られる。
 中世の城の面影の土塁を残したところがウリらしい。かつては信雄が建てた3層の天守閣もあったらしいが5年後に焼失。富士山も見えたらしく、富士見門もある。
 ここは熊野街道の出発点とも言われた。また春霞のかなたに局ヶ岳の鋭角も見えたので和歌山街道にも通じる。冬ならば高見山も見えるだろう。眺望に優れた平地の盛り上がりなので51.4mの4等三角点も隣の丘に埋設された。
 話はそれるが、北畠の名前で思い出すのは、深田久弥の先妻の北畠八穂である。青森県出身なのに北畠の姓が不思議だったのでガイドに問うと彼女の先祖もここの出(らしい)だった。昭和22年復員船で戦地から帰国した深田はすぐに八穂と離婚し、初恋の人と結婚。既に子供もいた。裏切られた八穂の中傷で鎌倉文壇から追われ作家としての途を閉ざされる。しかしそれが幸いして大好きな山を書ける作家として『日本百名山』で大成功を収める。三文作家で終わらずに済んだ。山のようなニッチな分野にも成功の余地はあったのだ。人生は何が幸いするか分からない。
 その後は、『日本百名山』に4か所(阿寒岳で詩碑を引用し、蝦夷紀行を紹介、十勝岳ではアイヌ人との交流を披露した。後志羊蹄山で『後志羊蹄山日誌』を引いて初登頂を紹介)も紹介された松浦武四郎の記念館と生家を訪問。
 記念館もなく武四郎の弟の末裔が存命だったころ、生家を訪ねたことがある。私「武四郎はなぜ小説にならないのでしょう」当主「武四郎は女性に関するスキャンダルがなかった」ことから「吉村昭」という小説家も小説化を諦めたらしい。40歳で独身の武四郎にアイヌの女性から子供をもらってくれと言われたこともあるほど信頼されていた。
 北海道通のJACの先輩はどこへ行っても武四郎の悪口を言うアイヌは居ないそうだ。江戸幕府、明治政府を通じて蝦夷の探検調査を担ったが役人の不正に怒って退官した。
 その武四郎がNHKでドラマ化されるとか。「永遠のニシパ」で7月15日午後7時30分から。ニシパは織井茂子の「黒百合の歌」の「この花、ニシパにあげようか、わたしはニシパが大好きよ」の歌詞にも出てくる。記念館で「和人のことか」と聞くと、尊敬語らしい。脚本は大石静、ラブストーリーに脚色しないで欲しいね。
 とまあ盛沢山な成果を得て、刈谷PAで下車。マイカーで帰宅しましたが、バスに座っているだけなのに登山よりも疲れた。