お伊勢参りと田丸城址、松浦武四郎を訪ねて2019年03月28日

 所属の三遠地方民俗と歴史研究会の行事で春霞の三重県中南部の伊勢神宮外宮、田丸城跡、松浦武四郎記念館を経めぐった。バスは豊橋市発なので、9時待ち合わせで刈谷PAで拾ってもらい便乗。
 11時にまず外宮へ、正月も来たばかりだから多賀宮など別宮を参拝。何でもない日柄なのに参拝客の多いこと。昼食は的矢湾産の牡蠣フライ定食を賞味。美味しかった。1200円也。
 次は続日本100名城の田丸城址へ。ここは初見だった。朝日新聞社創業者の村山龍平は田丸で出生。新聞事業の成功で儲けた村山は城跡を国から払い下げてもらい町に寄付。村山龍平は郷土の偉人として顕彰されている。
 城の歴史は「田丸城跡は1336年(延元元年)北畠親房・顕信父子が南朝義軍の拠点として砦を築いた」そうで、織田信長の次男の信雄(のぶかつ)も5年間城主だった。信雄は城郭の改築再建の経験を重ねて後には姫路城主となった。
 北畠親房は『神皇正統記』で知られる。
 中世の城の面影の土塁を残したところがウリらしい。かつては信雄が建てた3層の天守閣もあったらしいが5年後に焼失。富士山も見えたらしく、富士見門もある。
 ここは熊野街道の出発点とも言われた。また春霞のかなたに局ヶ岳の鋭角も見えたので和歌山街道にも通じる。冬ならば高見山も見えるだろう。眺望に優れた平地の盛り上がりなので51.4mの4等三角点も隣の丘に埋設された。
 話はそれるが、北畠の名前で思い出すのは、深田久弥の先妻の北畠八穂である。青森県出身なのに北畠の姓が不思議だったのでガイドに問うと彼女の先祖もここの出(らしい)だった。昭和22年復員船で戦地から帰国した深田はすぐに八穂と離婚し、初恋の人と結婚。既に子供もいた。裏切られた八穂の中傷で鎌倉文壇から追われ作家としての途を閉ざされる。しかしそれが幸いして大好きな山を書ける作家として『日本百名山』で大成功を収める。三文作家で終わらずに済んだ。山のようなニッチな分野にも成功の余地はあったのだ。人生は何が幸いするか分からない。
 その後は、『日本百名山』に4か所(阿寒岳で詩碑を引用し、蝦夷紀行を紹介、十勝岳ではアイヌ人との交流を披露した。後志羊蹄山で『後志羊蹄山日誌』を引いて初登頂を紹介)も紹介された松浦武四郎の記念館と生家を訪問。
 記念館もなく武四郎の弟の末裔が存命だったころ、生家を訪ねたことがある。私「武四郎はなぜ小説にならないのでしょう」当主「武四郎は女性に関するスキャンダルがなかった」ことから「吉村昭」という小説家も小説化を諦めたらしい。40歳で独身の武四郎にアイヌの女性から子供をもらってくれと言われたこともあるほど信頼されていた。
 北海道通のJACの先輩はどこへ行っても武四郎の悪口を言うアイヌは居ないそうだ。江戸幕府、明治政府を通じて蝦夷の探検調査を担ったが役人の不正に怒って退官した。
 その武四郎がNHKでドラマ化されるとか。「永遠のニシパ」で7月15日午後7時30分から。ニシパは織井茂子の「黒百合の歌」の「この花、ニシパにあげようか、わたしはニシパが大好きよ」の歌詞にも出てくる。記念館で「和人のことか」と聞くと、尊敬語らしい。脚本は大石静、ラブストーリーに脚色しないで欲しいね。
 とまあ盛沢山な成果を得て、刈谷PAで下車。マイカーで帰宅しましたが、バスに座っているだけなのに登山よりも疲れた。