清須市の朝日遺跡探訪2019年03月24日

 かねてから念願だった清須市の朝日遺跡を訪ねた。意外に近かった。清須ジャンクションのすぐ近くである。現在は2020年オープンに向けて公園化工事の最中であった。
 発掘で「遺跡からは土器、石器、骨角器、木製品、金属器など膨大な量の出土品」は建物内で見学できた。ただし、土器(素焼きの壷)の中にエナを入れて埋設されていたものは無かった。土器自体もロクロを回したものではなくそこまで高度な制作は後日にゆずる。
 ここは弥生文化の遺跡であるが、縄文時代末期にも重なるとか。歴史的に断続したわけではなくゆっくり時間をかけて同化していったのだろう。弥生人と縄文人が戦争をして縄文人が敗れたとか弥生の方が優れていたとかいうことではない。
 なぜに注目されたのかといえば約1000人もの人が生活をしていたらしい規模の大きさがあるという点。墓場もある。石器を作る工房もあった。ウィキには「環濠、柵列、逆茂木、乱杭などで、集落を二重、三重に囲む強固なもの」が備わっていたらしい。集落間の争いはあったのだろう。人骨の模型を見ると骨太で縄文人的であると説明の人も言われた。
 弥生時代の始まりは2400年前という。愛知県のHPには「今から約2400年前、縄文時代の終わり頃に大陸から海をこえ新しい文化が伝えられました。水田での米作り、鉄や青銅をはじめとする金属加工など新しい技術が導入され、日本列島に暮らす人々の生活や社会は大きく変わっていきました。紀元前3世紀から3世紀まで続くこの時代を弥生時代といいます。」とある。
 すると「実際の紀元前660年を考古学的に見ると、伝統的な土器様式などに基づく編年によれば縄文時代晩期、2003年(平成15年)以降に国立歴史民俗博物館の研究グループなどが提示している放射性炭素年代測定に基づく編年によれば弥生時代前期にあたる。」
 2019年は皇紀2679年。朝日遺跡が活動期には既に天皇が在位していたことになる。

 愛知県の西にこんな遺跡があったとは。古代史に興味を持たなければ知らなかった。月初には設楽町の縄文遺跡を探訪したばかりだ。とにかく愛知県から富山県にかけては弥生文化と縄文文化の狭間にある。沢の文化と谷の文化の境界にあたる。面白い地域である。

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