春風や闘志抱きて丘に立つ 高浜虚子2019年03月11日

 降る吹く曇の季節の運行通り、今日は強風が吹いた。こうして高い山でも雪が解けてゆくのだろう。名古屋の街でも久屋大通りのハクモクレンは一斉に咲いていた。文字通り「白い町」だ。
 今日は気合を入れて確定申告を作成した。今まで中古PCの立ち上げに手間取っていたので着手が遅れた。会計ソフトで帳簿はできているので合計を入力するだけである。しかし一度入力を開始すると多いので途中で休めない。
 昨年度は雑収入を合わせても収支トントンであった。若干の還付金が発生した。本当は消費税も払うほどに儲けたいものだが・・・。年商1000万円に遠く及ばず。
 夕方に広告会社の社員が来て打ち合わせ、事務所内の写真を撮ってもらった。4月号から広告で勝負である。まさに”春風や闘志抱きて丘に立つ”の心境だ。逆境こそ成長のエンジンである。

 表題の句は、小説の雑誌だった「ホトトギス」で人気のあった漱石が朝日新聞にとられたために部数が減った。経営を維持するため、読者を集めようと再び伝統俳句に力を入れることになった。
 小諸市のhpから
「大正2年、かつての親友であった碧梧桐が唱えた「新傾向俳句」に対抗するため虚子は、「春風や闘志いだきて丘に立つ」「霜降れば霜を楯とす法の城」と詠み、俳壇復帰を決意する。
 これ以降、虚子と碧梧桐は、子規門下の双璧とまで言われながらも、伝統的な五七五調の有季定型を重視する虚子と、従来の定型や季題にとらわれない新傾向俳句を提唱する碧梧桐と激しく対立していくこととなる。
 大正4年、41歳の時には「ホトトギス」 で 俊英作家の作品をとりあげた「進むべき俳句の道」の連載を開始。後進の指導にも力を注ぎ、高野素十・水原秋桜子・山口誓子・阿波野青畝らを育てる。」

 碧梧桐はわずか10年で俳句界から去っていった。虚子の勝利だった。虚子は人間が好きだった。弟子を上手に導いた。碧梧桐は才気はあったが狷介固陋だった。弟子がついて来れなければ文芸の世界では食べていけない。「名馬は常にあれど、名伯楽は常にはなし」。虚子は名伯楽だった。よい指導者は得難いということ。
 話は飛ぶが、船村徹と星野哲郎のコンビが作った演歌は多くヒットした。きっと自然とともに生きた縄文人の韻律を蘇えさせる名人なのだ。東北や北海道の歌がヒットするのはそのせいだろう。体一つで故郷を捨ててきたハングリー精神の歌手をうまく育てた。ともに名伯楽だった。

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