御杣山のルーツの神路山(うちの鼓ヶ岳)を訪ねて2019年01月10日

 神路山(かみじやま)は三重県伊勢市宇治にある山域で、伊勢神宮の内宮(皇大神宮)から南へ流れる、五十鈴川上流域の流域の総称である。

 東は五十鈴川支流の島路川流域の島路山と稜線を共有する。伊勢神宮の他の森林と合わせ、神宮林と呼ぶ。

 神路山は他の神宮林と同様に、古くは神宮式年遷宮に用いるヒノキを調達する御杣山(みそまやま)であったが、これらの森林のヒノキが枯渇したため御杣山は年代により変遷し、江戸時代から木曽と美濃が御杣山となっている。神宮では大正末期から神宮林で檜の植林を行なっているが、間伐材を除けば遷宮に使えるようになるのは2125年からと予定されている。(ウィキペディア)

 式年遷宮では、多くの祭典と行事が行われる。
遷宮の最初の行事「山口祭(やまぐちさい)」用材を切り出す御杣山の山口にある神を祭る儀式。
 現在、用材は木曽山中から切り出すが、この儀式は古来のまま内宮は神路山、外宮は高倉山と、いずれも境内背後の山で行われる。
以上

 ホームページ「やまとうた」からコピペ

 関東に住んでいる私が伊勢をお参りするときは、いつも新幹線を名古屋で降りて近鉄に乗り換える。近鉄特急はたちまち木曾川を渡って三重県に入り、すぐまた揖斐川の鉄橋を越えると、もうそこは伊勢平野である。それは伊勢湾に沿って弓なりに長く長く続く平野である。
 車窓は単調な眺めが続くが、大神宮が近づくと、ようやく青い山々が視界に入る。伊勢神宮の背後を取り巻く山々である。内宮(ないくう)南方の山々は、神路山と呼ばれ、古くから神宮の社殿の用材を伐り出す山として神聖視されてきた。

 奈良や京都から伊勢をめざし、伊賀の山地を越えた古人にとっても、広漠とした伊勢の野で最初に出逢う山がこの神路山であった。山々に囲まれて暮らしていた古京の人の目に、神路山の緑はさぞ懐かしく清々しく映ったに違いない。
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 治承四年、源平争乱のさなか、高野山を出た西行法師は伊勢に移り、二見浦の山中に庵を結んだ。すでに六十を越えていた法師であったが、この地で伊勢の神官荒木田満良らと親交をむすび、その詩想はいっそうの深みと清澄さを加えたように思われる。

深く入りて神路のおくを尋ぬればまた上もなき峰の松風(千載集)

神路山岩ねのつつじ咲きにけり子らが真袖の色に触りつつ(夫木)

神路山月さやかなる誓ひありて天が下をば照らすなりけり(新古今)

 西行を称賛し追慕してやまなかった二人の歌人、後鳥羽院と藤原定家には、上にあげた最後の歌に和したかのような詠がある。

ながめばや神路の山に雲消えて夕べの空を出でむ月かげ(後鳥羽院[新古今])

照らすらん神路の山の朝日かげあまつ雲居をのどかなれとは(定家)

 神路山の上から天下をあまねく照らすさやかな月の光を詠んだ西行の歌を受けて、定家は神路山を照らす朝日を歌い、雲上界―宮廷―の悠久平穏なることを祈ったのである。神路山は一名天照山(あまてるやま)とも呼ばれた。
引用以上

 神路山は御杣山の嚆矢であった。
 別名は天照山とも呼ばれた。神宮の御用材を切り尽くすと他の地域の山から伐り出すようになった。 御杣山の条件は伐採した木材を流送する谷川が必須である。
 ある時代は奥三河の設楽山という記録がある。設楽山は多分、段戸山(現在の鷹の巣山)周辺であろう。伐り出してすぐに寒狭川に落とし、やがて豊川河口から筏を組んで神宮まで運ばれたであろう。
 またある時代は美濃からも伐り出された。その時代はどこの山なのか、記録がない。推測すると、美濃の御杣山は多分、焼山であろう。伐採し、阿木川に落とし、木曽川で筏を組んで河口まで運んだと思われる。それからさらなる奥山の木曽へと開発が進んだ。そして阿木山の御杣がモデルになって、落合川の源流の湯舟沢に移ったと思われる。
 木曽の御杣山の最初は湯舟沢山で、現在の中央道・恵那山トンネルの上の一帯である。湯舟沢も条件に適う。源流は温川(ぬるまがわ)と冷川と言う。温川は信濃と美濃の国境になっている。恵那山の山頂とは微妙に違う。阿木川よりも流程が短くて搬送が楽だったと思われる。つまり、急流である程度水量があることが合理的な条件を満たす。伐採すると落合川に落とし、筏を組んで木曽川で運び、河口から伊勢湾を筏で流し、神宮へと搬送された。

 恵那山に湧く中津川はなぜか、伝説も無い。神域であろうか。伝説は中津川を挟んでいる。即ち、阿木周辺のアマテラスの誕生の際に胞を洗った血洗池の伝説、湯舟沢はアマテラスが産湯を使った伝説だ。
 誰が伝えたのか。神宮の御師(おんし)か。御師は江戸時代はアマテラス信仰即ち、私ども日本人とは何者か、その皇祖神をお祭りしていると普及に歩いた。そしてお陰参りを広めた。或いは木地師だったか。菊の御紋とご綸旨をタテに山林の自由な伐採の権原(けんげん又はけんばら)とした。或いは山岳信仰の山伏か。恵那山への前宮登山道には役の行者(えんのぎょうじゃ)の石仏があったからその信者か。
 今となっては伝説の彼方に隠れて真実は不明である。