恵那山の胞伝説考2018年12月25日

 柳田國男全集 7 の伝説に関する著述を読む。
 伝説と昔話の違い

民俗資料を三部に分類
 ①有形文化  行為伝承  芸能、踊り、

 ②言語芸術  口頭伝承  昔話
                    
 中間に位置する        伝説

 ③信仰伝承  内部伝承  祭、講

伝説と昔話の特徴
1 伝説は人がこれを信じているのに対し、昔話には責任を負わない

2 伝説の中心には必ず記念物があるのに対し、昔話には記念物がない

3 伝説は語るときに定まった形式がないのに対し、昔話には定まった形式がある

 12/22は岐阜県立図書館で恵那山関係の文献を漁った。コピーしたのは『中津川市史』、神宮司廳編『神宮御杣山記録』昭和51年史料、
である。
 第1回式年遷宮は持統天皇の690年。1335年の第35回式年遷宮は三河の設楽山になったが山は特定できない。
 1709年(宝永6年)の第47回式年遷宮から、尾張藩の領地である木曽谷、裏木曽に御杣山は移動。徳川幕府成立から約100年後の元禄時代の後になる。
 恵那山の由来を漢文で著した松平 君山(まつだいら くんざん、元禄10年3月27日(1697年5月17日) - 天明3年4月18日(1783年5月18日))が出たのもこの頃である。
 

 御杣山とは

神宮のHPから
 「宮域林は、内宮のご鎮座当時から神路山・天照山・神垣山などと呼ばれ、大御神の山として崇められていました。天武(てんむ)天皇の御代に式年遷宮の制度が確立され、第1回式年遷宮(690)が行われた際、宮域林は御造営用材を伐り出す「御杣山(みそまやま)」として定められました。その後、御用材の欠乏により御杣山は他の場所に移りましたが、今でも式年遷宮の最初のお祭りである山口祭やまぐちさい・木本祭このもとさいは宮域林で行われており最も神聖な「心御柱しんのみはしら」もここから伐り出しています。

 このように宮域林は、古くから神宮の境内地として管理されてきた由緒のある森林です。」

 神宮備林のウィキぺディアから
「伊勢神宮で20年毎に行なわれる式年遷宮は、大量のヒノキが必要である。その用材を伐りだす山(御杣山・みそまやま)は、第34回式年遷宮までは、3回ほど周辺地域に移動したことはあるものの、すべて神路山、高倉山という内宮・外宮背後の山(神宮林)であった。
しかし、1回の遷宮で使用されるヒノキは1万本以上になり、神宮林のヒノキでは不足しだす。その為、内宮用材は第35回式年遷宮から三河国に、外宮用材は第36回式年遷宮から美濃国に移り、第41回式年遷宮から第46回式年遷宮までは、伊勢国大杉谷に移る。
しかしながら、原木の枯渇による伐り出しの困難さから、1709年(宝永6年)の第47回式年遷宮から、尾張藩の領地である木曽谷、裏木曽に御杣山は移動する。この地域は尾張藩により木材(木曽五木)が保護され、許可の無い伐採が禁じられていた。
正式に指定、伐採が始まったのは、1798年(寛政10年)からである。
現在でも式年遷宮用の用材は、この旧神宮備林から調達されている。」

「歴史
1380年(天授6年・康暦2年):第36回式年遷宮で美濃国のヒノキが使用される。
1709年(宝永6年):第47回式年遷宮で、尾張藩領木曽のヒノキが使用される。
1798年(寛政10年):伊勢神宮により御杣山に指定される。
1843年(天保12年):守護神として護山神社が創建される。
1868年(明治元年):尾張藩から明治政府に移管される。御料林となる。
1906年(明治39年):帝室林野局により「神宮御造営材備林制度」が制定され、この地域の御料林が神宮備林に指定される。この後、大正時代にかけてその地域を拡大する。
1921年(大正10年):ダム建設の影響で、木曽川、付知川などを使用した筏による材木運搬が中止。森林鉄道による運搬が始まる。
1947年(昭和22年):帝室林野局は農林省林野庁となる。神宮備林は廃止され、国有林の一部となる。」

「式年遷宮は続く」から
https://www.sengukan.jp/wp/wp-content/themes/sengukan/media/pdf/record/h29/20170630-zuroku.pdf

「しかし内宮の第35回式年遷宮の準備を進めていた延元(えんげん)4年( 暦(りゃく)応(おう)2 年、1339)江馬山から御用材を運ぶ宮川流域が武装勢力の支配下に置かれたため供給が止まります。
 朝廷は御杣山を伊勢国外に求めるか、式年遷宮を延期するか議論の末、軒廊御卜が行われて三河国・設楽(しだら)山(やま)(現在の愛知県北設楽郡設楽町付近)に移動する事が決まりました。選ばれた理由は、山間を流れる豊川水系の河口部には老津(おいつ)・大津という良港があったこと、大津には平安時代後期から伊勢神宮の神(かん)戸(べ)が置かれていたこと、伊勢国大(おお)湊(みなと)との海上輸送が行われており安定した供給が行えたことが挙げられます。緊急の措置であったため三河国から御用材を得たのはこの一度限りです。」

恵那山のウィキペディアから
「信仰対象としての恵那山

山頂部にある恵那神社奥宮
恵那山周辺地域ではこの山に天照大神が産まれた時の胞衣 (えな) を納めたという伝説が残っており、この山の名前の由来ともなっている。また古事記で日本武尊が科野峠 (神坂峠) で拝したのも恵那山の神である。」

・木曽の湯舟沢はアマテラスの産湯をつかった伝説
・美濃の血洗池はアマテラスの胞を洗った伝説

 湯舟沢川から右岸(木曽側)は御杣山として伐採された。すると湯舟沢川の左岸から阿木川にかけては、伐採はされず、昔は神域だったのだろうか。現在の恵那山の美濃側に当たる地域は今でこそ国有林として奥深く林道が開通している。登山道は前宮にあった。

 阿木川の源流の焼山は木地師の煮炊きの煙、山中で焼き畑農業をする際の煙から由来と想像する。ロクロ天井の山の名前もあり、木地師の墓もある。
 血洗池の伝説は木地師が広めた可能性が高い。木地師のルーツは皇族にさかのぼる。その点で無理がない。

 湯船沢の伝説も木地師が広めた可能性はある。南沢山の周辺の山中には木地師は入っていた。中でも大平峠の夏焼山は木地師の焼き畑農業に関係する。今でも南木曽町には木地師が営業を続けている。

 恵那山周辺の山村は木地師が遍在していたのは事実である。売木村も木地師が活躍していた。

 恵那山をアマテラスの記念物としての胞を埋めたという伝説を付して胞山、恵那山と名付けたのは皇室につながる木地師ではなかったか。ご綸旨を根拠に木地師は山中でほとんど一生を過ごす。山中での死亡は各地で墓を見たのでわかる。おそらく出産にも立ちあった。その際の胞は家の周りの地中に埋めた。山中の湧水で溜まる小池は便利な洗い場になった。また湯船沢川の右又の温川(ぬるかわ)の源流は恵那山の頂上に近く湧く。文字通り温泉が混じるのだろう。
 山上にアマテラスの胞を埋めた伝説を広めることで、木地師は自分らの権益(木地原木の落葉広葉樹)と尾張藩が担う木曽山林(桧、翌檜などの針葉樹の木曽五木)の伐採権との棲み分けを実現させたのではないか。
 伝説の流布によって棲み分けに成功すると式年遷宮の切り出しもスムーズに行ったであろう。原木の良材を求めて木曽にたどり着いた神宮と尾張藩は木曽川を運搬路につかって木材資源を開発して行った。
江戸時代中期以降人口の増加で木地製品の需要も伸びた。住宅建築の需要も盛んになったと思われる。両者が利益を得たのである。
 その頃、松平君山は得意の漢文で恵那山の伝説を書き残した。『新撰美濃志』の編者にも明らかに重要な伝説であった。

これまでの記事
http://koyaban.asablo.jp/blog/2018/11/27/9003915
『新撰美濃志』の中の恵那山

http://koyaban.asablo.jp/blog/2017/08/06/8641325
中津川市阿木の旧跡・(アマテラスの)血洗池~血洗神社~恵那神社~根の上高原へドライブ

http://koyaban.asablo.jp/blog/2017/10/18/8708216
「埋甕」を見に弥富市の愛知県埋蔵文化センターへ行く

http://koyaban.asablo.jp/blog/2017/08/19/8650783
奥三河・須山御岳山