玄冬の経ヶ峰を歩く2018年12月10日

 中国の五行説では四季を青春、朱夏、白秋、玄冬に分類する。
 ウィキぺディアは「四季の変化は五行の推移によって起こると考えられた。また、方角・色など、あらゆる物に五行が配当されている。そこから、四季に対応する五行の色と四季を合わせて、青春、朱夏、白秋、玄冬といった言葉が生まれた。詩人、北原白秋の雅号は秋の白秋にちなんだものである。」とある。
 
 12/8は亀山市の関ロッジで山岳会の忘年会をやった。9人のこじんまりとした集まりだったが、山に近い会場に集うことに意義がある。12/9には会場に近い経ヶ峰に登った。参加者は8名で皆60歳代後半の人ばかりになった。
 ネットには「生涯において最後の時期、老年時代を指す言葉として用いられる。具体的には60代後半以降と定義」されるからわれわれは玄冬の山旅をしたのだ。

 登山口は地形図で笹子川独標371ポイント付近。ここから笹子谷左岸の林道歩きがしばらく続く。北笹岳とか笹子山などの登山口標がある。林道を詰めると谷を渡渉して尾根に付いた急な山道に入る。
 枯れススキのきれいなところに着くと背景も見えてくる。鹿避けの扉の開閉もあり、鹿の繁殖が凄いのだろう。誰かが蛭もいるだろうという。多分??。
 山道は平坦になり、稲子山分岐をチエックすると湿地帯を抜けて山小屋に着く。ハイカーのオアシスになっている。多くのパーティーが小屋で休み、会食を楽しんでいた。
 
 古代インドでは「50歳~75歳 仕事や家庭から卒業し林に庵を構えて、自らの来し方行く末を深く瞑想する時期」を林住期と呼んだ。また「75歳~100歳 林(庵)から出て思うままに遊行して人に道を説き、耳を傾け、人生の知恵を人々に授ける時期」は遊行期と呼んだ。
 まだ遊行期には少し早い。この小屋が人気があるのは林住期に重なる要素があるからだろう。若い人でも泊りに来たいと言った。
 小屋の囲炉裏を眺めていると、中国の詩人・白居易または白楽天の詩を思う。「林間に酒を煖めて紅葉を焼く」がある。「林の中で落ち葉で酒をあたためて飲み、秋の風情をたのしむ。」の意味である。
 登るだけではない楽しみ方はまだまだある。
 
 当会の忘年山行も昔は山上までコンロ、コッヘル、食料を持ち上げてやっていたが、老いてからはPに近い小屋になり、更に布団、風呂付のロッジに格上げしてきた。
 焚火はないが、ストーブを焚いているので暖かい。疲れも癒される。体も温まり、小屋を辞して、山頂に向かった。すぐだった。素晴らしい展望である。南にはお局さんが端麗な山容でおすまし中である。その右は台高山脈の山々である。布引山地の最高峰の笠取山は風力発電の山に様変わりした。鈴鹿山脈はどうも凍て雲に覆われて小雪が舞っているだろう。
 昔は経を格納する石室のイメージがあったが、今は枯れ芝に覆われて入り口らしきものはない。新たに木造の展望台も設置されてくるたびに整備されている。登山道も格段に整備が行き届き、ハイカーも多いと思う。
 この山は「岳人」を創刊した伊藤洋平の初登山の山であった。津市の医家に生まれ、旧制中学時代にこの山に初登山、その後も鈴鹿の山々に登った。八高、京大医学部に進み、医学生の時に「岳人」を創刊。すぐに中部日本新聞に移管、中日新聞、東京新聞を経て、今はモンベルが刊行中だ。伊藤洋平の志を守る意思は固い。伊藤洋平は日本山岳会東海支部でも在籍するが、愛知県がんセンターの医師としても活躍を期待されたが、62歳の若さで死んだ。この山頂から遥かなるアンナプルナへと旅立った。
 小屋番の山日記の「伊藤洋平『回想のヒマラヤ』を読む」
http://koyaban.asablo.jp/blog/2015/12/03/7934654

 稲子山分岐まで戻って、稲子山を目指す。破線路はあるが廃道であり、テープのマーキングが頼りになる。笹子谷右岸の杖型の林道地点に下山する。途中、鹿の遺骸を見る。地中に埋設するべきだが皮だけが廃棄されていた。今は狩猟シーズンなので注意したい。Wリーダーの尻皮は後ろ姿だけだと獣に間違われて撃たれるぞ、と脅したら女性陣の喧騒でそれはない、ということになり大笑いして、忘年山行を終えた。