奥越・笹ヶ峰の長トコ谷敗退2018年08月13日

 8/11の朝6時にリーダーのWさん宅を出発。お盆休みの渋滞が始まっているので高速には入らず、地道で行く。木曽三川を渡り、関ヶ原、木之本を通過、栃の木峠越えで南越前町に入った。やがて広野ダムから廃村・大河内に着く。ここまではほとんど渋滞は無く、3時間で来れた。高速とそんなに違わない。
 さてここからどこまで行けるか。土砂の押し出しでやや傾斜面があったので、空車でも2300kgもある重量の重いマイカーがずるっと行く可能性がある。そこでマイカーの入山はストップ。徒歩で行く。
 いくばくもなく砂防ダムの手前の広場まで来れた。軽いクルマなら無難に走れるだろう。ここまでは実は整備されていたのだ。その先は草深い林道が続いていた。入渓地点まで歩いてみた。踏み跡があるので明日の偵察は終わった。先の整備された広場まで戻ると、大河内川を渡る橋があるので入って見た。入り口には笹ヶ峰登山口という消えそうな道標があって、ああ、これがロボットへの尾根コースの入り口であった。橋を渡ってみて偵察すると杉の幹に白っぽい紐が結んである。これが多分ロボットの尾根ルートであろう。予定では下山にとることになっている。
 入山情報の少なさに、湛水のはじまる二ツ家付近で車止め、そこから徒歩も覚悟していた。心配は解消した。
 まだ昼前なので今庄の宿まで行き、おろし蕎麦を食べた。久々に美味い本場の今庄のおろし蕎麦を味わう。また大河内に戻り、車の置いてあった出作り小屋の主人Y氏に声を掛けた。突然の珍客に驚かれたが、笹ヶ峰の登山に来たことを告げると気安く話に応じてくれた。
 大河内の村の歴史から笹ヶ峰一帯の山守をしていたこと、22歳まで村にいたこと、そして山が好きなこと。増永迪男氏の山の本の話もしていくらでも話が続き止まなかった。こちらも林道脇にテントを張って仮眠の予定もあり、離れがたくも話を打ち切って別れた。
 テント適地は特になく、林道脇に張った。近くを小川が流れて炊事が楽である。小さな焚火もした。こんな山なので蚊が多く、蚊取り線香を焚いた。
 8/12の朝4時起床、朝食をかきこむ。テントを片付けて出発すると5時30分になった。林道終点まで歩いて6時入渓。平凡な谷相であるが、周囲は落葉広葉樹に覆われている。ここも奥美濃の沢と同じ雰囲気を持った樹林の山旅の世界である。
 小さな滝を越え、直登のできない滝は左から巻いた。いくらもしないうちに滝谷と長トコ谷との出合に着く。滝谷を見送り、長トコ谷へ入る。うわっと見上げたのは魚止めの滝であった。10mくらいはあり滝壺に落ち、更に小さな滝で2段目の滝壺に落ちている。全体で70mとも言う。
 岩質は一枚岩が浸食されて後退したような滝で見事である。取り付くしまが無い気がする。
 Wは右岸の岩溝をたどって攻めた。そこもスラブの小さな溝になっているらしく高巻を試みるうちに滑落したという。幸い木の枝にスリングでビレイをとってあったので滝壺に落ちずには済んだという。
 いつもより時間がかかり過ぎており、岩場を様子見に攀じ登る。Wに近づけないこともないが、もし下降する場合は厄介だ。待つこと1時間も経過しただろうか。突然後退を告げて、ザイルが投げられた。それに確保して微妙なバランスの岩場を下りた。その後Wも下って来た。途中で岩のスリットにハーケンを1枚打ち、更に下降する。Wはハーケンを抜いて尻を滑らせて下って来た。高巻は困難な状況と知った。
 事前の調べてでは白崎重雄・前川宏隆『屛風山脈の旅ー越美県境稜線の山と渓谷を行く』(1978(昭和53)年)は左岸の高巻で突破している。左岸の方が傾斜が緩く、樹木も生えている。右岸は垂壁に近い。
 Wは高巻に大いにてこずって、続行のモチベーションを無くしてしまったようだ。何分、4週連続で計画が流れ、今日こそはという気が優り過ぎてしまったのだろう。体力や技術もあるのに気が優ると妙に同じ場所にこだわって時間を空費する。
 結果、敗退を決めた。
 しかし、このまま沢を下るよりは、次につなげるようにと、出合からロボットの尾根の722mを目指して北尾根を登った。少し人が歩いた跡はあり、ゴミもあった。激藪でもない。左へ滝上に下る踏み跡も捜しながらヤブ尾根を登った。上から眺める長トコ谷は緑のトンネルに覆われて、流れは見えない。
 懸垂下降2回で降りれそうな気がする。但し大高巻になるが・・・。Wは谷から離れるな、という主義なので首肯しないだろう。
 途中からシャクナゲがからまるようになり全力で登った。そこを過ぎるとしっかりした踏み跡が現れた。またコンクリートの小さな標石もあるし、なた目もある。標高700m付近の平らなところでロボットのコースに着いた。約1時間30分を費やした。
 そこで1時間ほど、涼しい風を楽しむように休んだ。その後、右ブナ等の落葉広葉樹の二次林、左は杉の植林の細道を下った。昨日の偵察の場所に出た。
 昨日の大河内のYさんの話では2年前に白谷の頭(約1000m)までコース整備をしたという。その先は武生山岳会がやったとか。ロボットまでなんとか今も行けるだろう。
 私自身は30歳代に2回GWに登っている。2回目は3人パーティでロボットにツエルトを張り、笹ヶ峰を往復、翌日は大河内山(から美濃俣丸?)を往復した。だから30年ぶりで再訪したのである。
 下山後、片付けてからまたYさんの小屋に寄って報告した。残念ながら敗退でした、と。
 いろいろ質問すると、722mの尾根の要旨を話すとあれは自分が付けた道だという。ロボットの尾根から北尾根の間に広がる山を売ったという。そのための山道の名残だった。天草山から五葉坂の間にも道を付けた。そこも売ったという。それで町で生活する資金を得たのだろう。五葉とは五葉松の意味で、北尾根にも五葉松が若干みつかった。壁小屋谷は岩壁が屹立するところがあると言う。大河内の生き字引みたいに知っていた。
 さて、再び挑戦することはあるだろうか。長トコ谷は遡行に値する気がする。何より、地名に興味がある。長トコは床であろう。滑を想像する。上杉喜寿『続 山々のルーツ』(1987(昭和62)年)には、笹ヶ峰の別称の焼小屋丸の焼小屋とはたたら製鉄の場所ではないかと想像する。Yさんはマンガン鉱山があったとも。しかも戦後のことらしい。鉱物が豊富なのだろう。
 私見では夏小屋丸の夏小屋とは夏になってから蕎麦を蒔いても収穫できるとの意味で木地師の小屋があったのではないか。長トコ谷から大倉谷を経て夏小屋谷になることからの推測である。大倉とは木地師に多い名前である。
 木地師の村には夏焼という地名が散見する。奥三河の稲武の夏焼、三重県松阪の夏明も同じ意味か。同書には大河内は木地師の村だったとの記述がある。これはYさんも認めている。Yさんの話では徳山村の枝郷という説が興味深い。徳山村自体が越前の国に属していたからだ。婚姻関係もあったらしい。下流から来て出来た村ではなかったのである。
 帰路、大河内を離れてすぐに、日露戦争出征の記念碑があった。地形図にも記載されている。まだあったのだ。Yさんの話では数名が出征し、戦死した人もいたらしい。昔は二ツ屋とは山越えでつながっていたから峠道を越える戦士を姿の消えるまで見送ったであろう。
 今庄の宿に戻った。暑い暑い。ドリンクを1本飲み干す。そして、また冷水仕立ての下ろし蕎麦を食べて同じ道を名古屋へ帰った。