恵贈!五十嶋一晃『立山ガイド史Ⅱ』2018年06月23日

 今朝は雨。名駅前の夏山フェスタに出かけようとしたらポツリと冷たいものが降ってきた。この時期は降らなきゃ米も育たない。
 名駅前のビルに駆け込むときはもう傘が必要だったが小走りに会場に入った。正午ごろか、7Fに行くともう大混雑だった。7Fは山小屋とか観光のブースがある。その中に1年ぶりで五十嶋博文氏を見たのでごあいさつさせてもらった。今年の『山岳』に伊藤孝一の伝記を投稿したこと、今は北ノ俣岳になっているが、実兄で日本山岳会会員の五十嶋一晃氏は上ノ岳に戻したい旨の意思をもって当局に働きかけているという。その上ノ岳の跡地に行きたいと話をした。戦前に伊藤孝一が山小屋を建築したのである。また、折立の奥の間川の跡地にも行きたいなどと話し込んだ。小畑尾峠は今は廃道とかで行けないらしい。でも行ってみたい。今は有名な登山家でも無名時代はみなこの峠を越えたのである。
 そんな昔話で盛り上がったところで、表記の書籍を恵贈された。ずしりと重い781ページもの大著である。思えば北陸4県の登山家らは熱心に著作をものにする。中でも富山県の登山家は群を抜いて多い。第一に田部重治を筆頭に北アルプスの本拠にあるからだろう。
 目次を眺めると、戦前の立山登山史さながらにガイドが担ってきたのである。正編は読んでいないが、もっと詳細なのであろう。
 佐伯姓のガイドの中には伊藤孝一から有峰の旧家を間川に移築したり、上ノ岳と黒部五郎の鞍部に小屋を建設する依頼を受けたガイドらがいるはずである。当時の金で20万円を渡して、黒部源流の山々に拠点となる山小屋を建設。映画を撮影しながら積雪期縦走を果たすのである。
 あの加藤文太郎もずっと後に、これらの小屋を利用して、単独でスキー縦走を果たし、賞賛されるが、すでに先駆的な記録はあったのだ。当時は伊藤らの縦走は登山とは認めていなかった。日本山岳会の重鎮が、現代風にいうならばパワハラで無視したのであった。そのために加藤の記録が目立つのである。スポーツ界は潔くあるべきなのに寡頭政治は嫌らしいものだ。
 時間をかけて読ませてもらおうと思う。
 そのうち、通路スペースに人が溢れた。何かときくと「なすび」というタレントさんのスピーチが始まり、整理券を持っている人が行列中であった。私は「なすび」なんて知らんぞな。
 夏山フェスタの8Fにも回った。こちらは登山に役立つグッズの紹介のブースであった。またヤマップとかヤマコレなどのスマホ時代の便利なアプリを紹介する。こっちはまだデジタルには全面依存は出来ず、アナログ主体なので、導入はしないが、登山の知識の得方もつくづく変わったものである。会場を出て、本降りとなった名駅前を辞した。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
日本で一番美しい山は?
ヒント:芙蓉峰の別名があります。

コメント:

トラックバック