麦秋の海津市を訪ねて2018年05月26日

 23日に行ったが、遅掛けでさらっと見てきただけだった。所用が片付いたので再度海津市を訪ねた。今回は名二環から県道79号経由東海大橋を渡った。
 木曽川、長良川の大河を渡る。ほとんど流れは見えない。底流では早い流れなのだろう。雪解け水や大雨で川岸の木の枝も水に浸かり、水量は多めに見える。
 海津市に入ると田園が一面に広がる。大かたは水田で、苗を植えたばかりの植田が多い。水田もまだある。その反面で麦田も結構広がって見える。高い建物が無いから空が広い。
 西には屛風のように養老山地がふさがる感じである。左のアンテナの多い山は多度山だろう。北寄りに狐平山がある。
 さて、まずは喫茶店でホットコーヒーで一休み後、お城をイメージしたような歴史民俗資料館へ行く。館内に入って310円を支払う。閑散としているが来客はちらほらある。当館のメインテーマは1F~2Fの輪中と低地の農業・暮らしである。3Fの高須藩のスペースでは、高須松平藩御館の一部を復元した。御玄関から御書院の間に至る主要部分の能舞台と広間を加えた。華美ではないが、それなりの格式をもっていたのだ。
 2015年には林董一氏が来て講演会もあったらしい。最後にコーナーで『高須四兄弟』(新宿歴史博物館、平成26年)のパンフレットを購入して辞した。美濃高須藩と云っても、四兄弟は新宿で生れたのである。高須は領地だったという関係だけなのだ。ただ領主は1回か2回は来たらしい。恵那の佐藤一斎だって、江戸屋敷の生れで、1回だけ来て、天瀑山に登ったという。
 その後、自転車を出して、高須を走った。ネットからプリントした絵図を参考にしたが案内はないので山勘で走った。植田が庭園のように見える見事な田園風景である。山にも景勝地として餓鬼の田んぼがあちこちにある。低湿地のことである。
 地図を見ながら適当に走ると、堀の跡の園地に着いた。主水橋という橋が当時の名残をとどめるのみである。
 そこからやや登り気味に走ると旧市街地である。若干高くなっている。古街道のように軒先を寄せ合って、クルマなら軽がやっと通れるような狭い道がまっすぐに伸びる。一見。江戸時代にタイムスリップした古い家並みが続く。
 そうか、高須の地名の由来が想像できる。地名語源辞典には高洲、高い所、台地、自然堤防などと類例がある。ここでは本来は高洲と書くのだろう。自然史的には東海湖が干上がった結果できた低湿地帯である。揖斐川や長良川が氾濫を繰り返して出来た沖積平野である。堤防道路を除くと標高は2.4Mあり、海津市では一番高い。高い所に住宅が密集している。
 地政学的にも、中山道の関ヶ原へは陸路で、桑名藩の松平定敬へは水上交通、尾張藩の慶勝へは水上交通でほぼ等間隔の位置にあり、重要な位置だったと分かる。
 これも自転車で走るから分かったことである。約30分のポタリングになった。

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